十七.婚礼の日 ―求婚― ―1
しんしんと、その日も雪が降っていた。
日暮れを迎え、刻一刻と暗くなっていく空の下。
とある路地裏にある賭博場では、早くもならず者達の酒盛りが始まっていた。
薄暗い照明の下、男達は野卑な笑い声を立てながら、酒を片手に賭け事に明け暮れている。
「なあおい、腹が減ったなあ。お前、外行って、どっかからかっぱらって来いよ」
「んだよ、なんで俺が」
「お前、まさかこないだ勝たせてやったの、忘れたわけじゃねえだろうな。俺は別にいいんだぜ? 他の奴らに言いふらしてやってもよ」
「ちっ」
耳打ちされた男は腹いせに卓を蹴り、乱雑に扉を開けて外に出た。
このあたり一帯は、ごろつきや貧民ばかりがうろつく場所だ。
道端にはごみが散乱し、得体の知れない饐えた匂いが漂っている。
擦り切れた布切れを被ってうずくまっている者もあちこちに見受けられた。
……どうにも苛立ちが収まらない。
運が向いていないのか、男は近頃、負けが込んでいた。
ぺっと唾を吐きながら、苛立ちもあらわに近くに転がっていた空き瓶を蹴り上げる。
――と、しばらくして。
「ん……?」
前方から歩いてくる一人の男に目がとまった。
見慣れない顔をした、若い男だった。
乱雑に切った髪に、虚ろな眼差し。汚れた顔。
酔っているのか、ただ単に疲弊しているのか、足取りはおぼつかない。
痩せた身体に身に着けているのは擦り切れた衣服だ。
怪我でもしているのか、その右手にはぼろぼろになった包帯が巻かれていた。
……ちょうどいい。
にやりと笑い、すれ違いざまにその男の胸ぐらを掴み上げ、腹に蹴りを入れる。
「……!」
「悪いなあ兄ちゃん。いただいていくぜ」
思った通り、新顔だった。
おそらくは、貧民窟に身を落としてまもないのだろう。
ごろつきだらけのこの界隈で、まったくの無防備にふらふらと歩いていたのがその証拠だ。
有り金を奪ってくれと、自分から言っているようなもの。
荒事にも慣れていないのか、その男はまったくの無抵抗だった。
……否、まったくの、ではなかった。
懐を抱え込むようにして、その男なりに抵抗は試みたのだろう。
けれど、みぞおちをさらに蹴り上げて痛めつけてやると、もうその男には抗う力はなくなってしまったようだった。
無理やり奪い取った金を懐にしまい込み、鬱憤を晴らしたのもつかの間。
頭上を見上げ、男は再び舌打ちをする。
曇天から降る、大粒の雪。
一段と冷えた夜になりそうだった。
*
ほの明るい闇の中に、白い吐息が溶けていく。
凍てつく路地の隅にうずくまり、紅月はただ、降り続く雪をぼんやりと眺めていた。
……こうして貧民窟に身を落としてから、どれほどの時が経っただろう。
梔子とともに暮らしていた屋敷を出てから、紅月はまず葉室医院の跡地へ向かった。
彼女のそばにはいられなくなったことを、智行と佳江に謝罪するためだ。
それからしばらくは、あてどもなく街をさまよった。
もはや、何もかもがどうでもよかった。
雪混じりの路地裏で夜を過ごしながら、この数日のうちに何度死を願ったかわからない。
このまま朝を迎える前に、凍えて死ぬことができたら。
このまま、目が覚めなければ。
死の安寧に逃げることができたら、どんなにか……
けれどそのたびに、目を閉じて思い出すのは梔子のことだった。
(だめだ……。まだ……死ぬな。私は……まだ、死ぬわけには……いかない)
たった一人残してきてしまった彼女は、静貴に託した。
静貴は紅月にとって、最も信頼を置く友だった。
彼は厳しい物言いをしながらも、いつも紅月を気にかけてくれていた。
最後まで面と向かって伝えることはできなかったけれど、彼に対して思っていたのはいつだって感謝ばかりだ。
(結局、私は……何も、返せなかったな。あいつには、いつも……何かしてもらうばかりで)
本当は別れる前に、静貴にきちんとお礼を言いたかった。
紅月の行動に、彼は激怒しただろうか。
あれからもしかしたら、必死に紅月のことを捜してくれたのかもしれない。
静貴が誰よりも面倒見がよく、情に厚い人物であることを、紅月はよく知っている。
だから。
(……あいつになら、梔子を任せられる)
梔子が、これからも幸せに生きていけるように。
静貴ならば、梔子を、彼女が幸福でいられる場所へと導いてくれるだろう――
(これでいい。……これで、よかったんだ)
……もう、梔子にとって、紅月は不要な存在だ。
彼女は優しいから、紅月がいなくなったことを、今は悲しんでくれているかもしれない。
けれど彼女は、優しいばかりでなく、芯の強い娘だ。
紅月などよりも、ずっと。
だから、きっと。
彼女はもう、紅月がいなくても大丈夫だ。
彼女なら、紅月のことなど忘れて、これからは幸せに生きていってくれる。
……けれど、それでも。
彼女がまた笑っていてくれるところを見るまでは、どうしても死ぬわけにはいかなかったのだ。
梔子には、ずっと、幸せでいてほしい。
彼女と離れ、もう二度と会えなくなった今だって、紅月の願いはただ、その一事だった。