十六.別離、そして希望 ―9
*
――どこからか、声が聞こえた気がした。
聞き知った声だ。
でも……違う。
それは、梔子がずっと捜し続けていた彼の声ではなかった。
(…………。ここ、は……)
近くから聞こえてくる話し声は、まだ続いていた。
「……それで、静貴。この後はどうするの? 紅月のことは……」
「むろん捜し出すさ。あの男は見つかり次第必ず、僕の手で一発殴っておかなければ気が済まんからな。とはいえ、いったん状況は整理しておかなければ。まあそれも、彼女の目が覚めてからの話になるか……」
その声の主に思い至った瞬間、ぼんやりとしていた梔子の意識は一気に鮮明になる。
(静貴さま……。それに、リリィ……?)
なぜ、すぐそばから彼らの声が聞こえてくるのだろう。
……いつまでも、眠っている場合じゃない。
目を開けると、視界に飛び込んできたのは見知らぬ天井だった。
どうやら、ここはどこかの客室のようだ。
天井付近の壁には、港町の風景を描いた水彩画が飾られている。
窓から注ぐ日差しの明るさから、今が早朝であることがよくわかる。
「……し……ずき、さま……?」
「――!? 梔子さん、気がついたか!」
「梔子……!? よかった、目が覚めたのね……!」
会話を中断し、すぐさま梔子のそばに寄ってきてくれたのは、やはり静貴とリリアーヌだった。
身を起こすと、リリアーヌが思いきり抱きしめ、頬にキスを浴びせてくる。
「もうっ……わたし、すっごく心配したのよ!? あんな雪の中に一人で倒れていて……もしもあなたが二度と目を覚まさなかったらって、心配で心配で仕方なかったんだから!」
「あ、あの……、リリィ……っ?」
「お、おい、リリアーヌ。少し落ち着きたまえ。彼女が困っているようだから――」
「うるさいわ、静貴。あなたは少し黙っていてくれる?」
ぴしゃりとリリアーヌに言いつけられ、後ろにいる静貴が途端に苦虫をかみつぶしたような表情を浮かべるのが見えた。
やれやれと肩をすくめると、彼はしばらく様子を見ることにしたようで、はす向かいを見ながら眉間に手を当てる。
ようやく少しだけ落ち着きを取り戻したのか、リリアーヌが不安そうに尋ねてくる。
「梔子。身体の具合はどう? あれだけ寒いところにいたんだもの、風邪を引いてしまったかも……」
「身体は……大丈夫です」
梔子の記憶は途中で切れていた。
手紙を残し、去っていってしまった紅月を捜し、思いつく場所にはすべて足を運んだ。
そうして最後には、生まれ故郷のこの町にまでやってきて。
梔子が、彼と初めて出会った場所。
葉室医院の跡地。
けれどたどり着いた瞬間、ごくわずかな希望もまた潰えて。
やっぱり、この場所だった。
ようやく、紅月を見つけたと思った。
……けれど意識を手放す直前に梔子が見たのは、実際には夕日の中に見た幻だったのだ。
(紅月さまは……どこにも、いない。もう、どこにも……)
そう、思った途端。
視界が滲む。
鼻の奥が突き刺されたように痛んで、溢れ出したのは冷えきった頬を焼くように熱い、大粒の涙だった。
「梔子……」
「わた、し……。……間に合わなかったんです。もっと……もっと、早く、あの場所に来て、いたら……っ!」
昨日の夕方。
葉室医院の跡地で梔子が見たのは、墓石の花立に飾られた、寒菊と梅の花。
よくよく考えれば、根拠などない。
けれど梔子はその花を見た瞬間、彼がすでにこの場所に来ていたのだと直感した。
……もっと早く、ここに来ていれば。
梔子は、紅月と会って、話して、彼に思いとどまらせることができたかもしれなかったのに――
どんなに堪えようとしても、もう止まらない。
泣き崩れる梔子を、リリアーヌが抱き寄せて背をさすってくれる。
「……ひどい話だわ」
やがてリリアーヌが絞り出すように言ったのは、憤慨の言葉だった。
「紅月は、どうして梔子を一人ぼっちにして出て行ったの? こんなの、どう考えたってあんまりじゃない……!」
「……あの男いわく、これが最善らしいぞ。手のかかる自分がそばにいたのでは、梔子さんはどうしたって幸福にはなれない。だから、自分は身を引く。今後は僕に彼女の身柄を預けたいとね」
「…………。はぁっ!?」
怒りと呆れを帯びた声で静貴が語り。
直後、客室に響き渡ったのは、リリアーヌの素っ頓狂な叫びだった。