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十六.別離、そして希望 ―7


          *


その夜。


(疲れた。やっと終わったか……)


会議の席をようやく離れ、藤川静貴は深く長いため息をつきながら廊下を歩いていた。


ここは藤川家が経営する会社の一つ。

藤川家当主である父から譲り受け、この数年、静貴が社長を務めてきた会社だった。


舶来の家具をはじめとして、骨董品、絵画や彫像といった芸術品の輸入、売買、鑑定に至るまで幅広く事業を広げており、顧客は皆裕福な人間ばかりだ。


静貴が会社を引き継いでから、業績は上々。


近年は好景気が続いており、羽振りのよくなった人々が増えることで、高級家具を扱った事業は今後ますます拡大していくことが見込まれていた。


(この分であれば、今年も忙しくなりそうだな)


疲れとはいっても、充実感を伴った、心地よい疲れだ。

この後は社長室に戻って明日の予定を確認し、残務を片すだけ。


しかし、もうまもなく社長室にたどり着くという時、静貴が思い出したのは、ある一人の男の顔だった。


……篁紅月。

途端、それまでの充実感はなりをひそめ、静貴の胸中に広がったのは暗鬱としたやるせない思いだ。


(……まさか、こんなことになろうとはな。よりにもよって、やっと梔子さんと結ばれるという時に……)


はあっと思いきり嘆息しながら、静貴は社長室の扉を開けた。


その途端、扉の向こうから聞こえてきたのは、静貴の胸中とは裏腹に、あっけらかんとした能天気な声だった。


子犬を思わせるようなくりっとした目に、ちょっとしたことでもくるくると変わる表情。


机に向かい、書類の山と格闘していたらしいその青年――藤枝(ふじえだ)琳也(りんや)は、戻ってきた静貴を見るなりぱあっと瞳を輝かせて声をかけてきた。


「あ、静貴さん! 俺、待ちくたびれてましたよー。やっと会議が終わったんですね、お疲れさまです!」

「……ああ、お疲れ。きみは相変わらず、この時間になっても元気なものだな」

「え? そうですか!? 嬉しいなあ、俺、静貴さんにまた褒められちゃった」

「常々言っているが、別に褒めてない。……が、まあいい。頼んでいた件はどこまで進んだ? それから明日一番の予定は――」


藤枝琳也は、昨年のはじめから静貴のもとで秘書として働いている青年だった。


藤川家とは親戚どうしであり、縁の深い藤枝家の生まれで、琳也とは幼い頃からたびたび顔を合わせることがあった。


大学を出た後はどうか静貴のもとで修業をさせてやってほしいと、藤枝家たっての願いで琳也を秘書兼見習いとして雇うことにしてから、早一年。


(まあ……とりあえずは及第点か)


琳也は昔から、周囲が呆れ返るほど前向きで好奇心に満ち溢れた青年だった。

ただ、そそっかしいのと、時々とんでもないぽかをやらかすのが玉に(きず)


おかげで雇い始めの頃は苦労をさせられたが、どうにかこうにかこの一年で成長してくれたのだろう。

近頃は大失敗の報告もなく、平穏無事に過ごすことができていた。


「――というわけです。なので、明日の商談は滞りなく進められるかと!」

「わかった。ご苦労。特段支障なく進んでいるようだな」


どうやら、徐々に成果を上げられるようにもなってきたらしい。


……そろそろ、昇給も考えてやるか。


それは、静貴がひそかにそう考えかけた時だった。

それまで明るく笑っていた琳也が、急に眉尻を下げ、しょげ込んだ顔つきになる。


「あ……そうだ、静貴さん。実はもう一つ、ご報告があるんです。紅月さんの手術の件です。さっき、電話で連絡があって……」

「ああ……そうか。やはり、今度もだめだったか」

「はい……。やっぱり、手術しても治る見込みはないから、引き受けられないと」


革張りの椅子に深々と腰掛け、眉間を手で押さえながら、静貴はもう一度ため息をついた。


消沈する静貴を見かねたのか、琳也が言った。


「……静貴さん、最近、ため息多いですね」

「仕方がなかろう。近頃は何かと気が滅入ることばかりなのだから」

「紅月さんの手を治せるお医者さん……やっぱり、このまま見つからないんでしょうか……」

「…………」


紅月のことは、年が明けてもなお、静貴の頭を悩ませてやまない心配事だった。


(利き手が動かなくなった天才画家……か)


ならば利き手でない方の手を使えばいいというような、そんな簡単な話ではない。


篁紅月は、細部まで描きこまれた、美しく繊細な画風で名を上げた画家だ。

利き手が使えなくなることは、彼にとって、長年かけて築き上げてきた画家生命を一挙に絶たれることに等しい。


(本人がまだ挫けていないことだけが、唯一の救いか……)


あれから静貴は、時間を作っては療養中の紅月のところへ見舞いに行っていた。


紅月は存外落ち込みやすく、放っておくと悲観的な考えに囚われがちな性格だ。


次々に押し寄せる苦難に苛まれ、ぼろぼろになった心を抱えながら、外では飄々(ひょうひょう)と自由人のように振舞っている。

友のそんな実態を、数年来の付き合いの中で、静貴はよく思い知らされてきたものだった。


だから、紅月の右手に後遺症が残ると聞いて、はじめこそ静貴は不安に駆られた。


もともと繊細な気質を持つ紅月だ。

すでに心は限界に近かっただろう。

それなのに、そんな彼に襲いかかったのは、生業まで奪われてしまう不幸だ。

今度こそ、紅月の心は保たず、瓦解してしまうのではないか、と。

しかし。


……どうやら、僕の心配は行き過ぎていたようだ。


一昨日会いに行った時、紅月は思っていたよりもずっと明るい表情をしていた。右手のことを知ってしまったにもかかわらず。


利き手の自由を失った中でも、彼は今後のことを前向きに考え、努めてくれているようだ。


(梔子さんが……守るべき存在ができて、だいぶしっかりしてきたということか。あるいは彼女がいてくれるおかげで、やっと心身が安定してきたというべきか。まあ、どちらにせよ、やはり彼女の影響は大きいものだな)


とはいえ、利き手が治るに越したことはない。

静貴はこのところ、普段の仕事をこなすかたわら、医者探しに奔走する日々を送っていた。


今のところ、成果は(かんば)しくなかった。


紅月の手術を担当した病院から、怪我の状態や手術内容などをまとめた資料をもらい受け、それをもとに何人もの医者と連絡を取った。


しかしどの医者からの返答も、紅月の手を治すことは難しいというものだった。


このまま、医者は見つからないままなのか。

未だ希望は見えないままだ。


だが。


「……見つかるさ。きっと。万が一だめでも、僕があの男に発破をかけ続けよう。何年かかったとしても、奴が復活するのを、僕は必ず見届けるつもりだ」


すると、琳也がなぜかくすくすと笑い出す。

怪訝に思って、静貴は首を傾げた。


「なんだね。僕は面白いことなど何も言ったつもりはないのだが」

「いやあ、俺、前々から思ってたんですけど。静貴さんと紅月さんって、なんか、友達どうしっていうよりは兄弟みたいですよね。静貴さんって、今年いくつになるんでしたっけ」

「三十だ。ちなみに奴は二十六になるところだな。さして年は離れていないぞ」

「いやいや、四つなら充分離れているじゃないですか。ますます静貴さんがお世話焼きなお兄さんに見えてきちゃいましたよ。……それにしても、紅月さん、よかったですよね。今まで大変な目に遭ってきて、しかも現在進行形でとんでもなく苦労しているのは事実でしょうけど……でも、あの方は決して一人じゃない。静貴さんみたいな頼りがいのあるお兄さんと、梔子さんみたいなしっかりした奥さんがいてくれて、そばで支えてくれるんですから」

「……そうだな。僕が兄というのは、よくわからんが。まあ、奴がもっと素直に弱音を零してくれれば、こちらも安心していられるのだがな……」


とかく、紅月は一人では手に負えないような問題事に限って、自分だけで抱え込みがちだ。


迷惑をかけまいとしているのだろうが、それがかえってどれほど周囲を心配させているか、当人にほとんど自覚がないのが致命的だった。


「それで、明日も紅月さんのところへ行ってくるんですか?」

「ああ、そうだな。午後になったら少しは時間ができるから、顔を出してこよう」


……明日も忙しくなりそうだ。

いつまでも琳也の話に付き合って時間を無駄にするわけにはいかない。


残務処理に取りかかろうと、気を取り直して机に座り直す。


「あ、いつものように書類は仕分けしておきましたよ。その右側のが重要文書で、左が後回しにしていいやつです」

「わかった。……それにしても量が多いな」

「年始ですからね~。あ、そういえば、今日はなんか変な手紙が静貴さんあてに届いてたんですよ。いたずらかと思って、もう捨てちゃったんですけどね」

「いたずら? なんだ、それは……」


いたって何気なく放たれた、琳也のその言葉に。


(ん……?)


妙に引っ掛かりを覚えて、静貴は書類に伸ばしかけた手を止めた。




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