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十六.別離、そして希望 ―6


          *


それから、数日が経った。

まだ日が昇らず、薄暗いうちに梔子は起き出した。

薄暗いとはいっても、もう時刻は朝の六時になる。


いつものように、朝食を作り始める。


紅月の右手の怪我について、彼と話すことができたあの夜からというもの、近頃はずっと穏やかな日々が続いていた。


紅月はもう、あの沼池で見た時のような、虚ろな表情は見せなかった。

あれからずっと、まるで何かを吹っ切ったように、彼はどこかすっきりと明るい表情をしていて。


医者には希望は薄いと言われたけれど、傷が完全に癒えたら右手の訓練を始めてみると、そう紅月は話してくれた。

右手がだめでも、きっと気の遠くなるような時がかかってしまうけれど、左手で描けるよう、初心に返ったつもりで努力してみると。


もちろん、梔子はそんな彼を支えるつもりだった。


これからきっと、苦難は多いかもしれない。

それでも、二人で支え合いながら、どんな苦労も乗り越えて生きていけると――


玄関から声が聞こえたのは、ちょうど、味噌汁の具材にする野菜を切り終えた時のことだった。


向かってみると、玄関に立っていたのは見知った女だった。


「おはよう、梔子ちゃん。さっそくだけど、これがお願いしたいものだよ」

「はい。ありがとうございます、ここまでお持ちいただいて。次からは預かりに伺いますので」

「いいんだよ、そんなの。紅月さん、大変な怪我をしたんだろう? しばらくはできるだけ、あんたがそばについていてやらないとねえ」


受け取ったのは数着の着物だ。

これから梔子は、家事の合間にこれらの着物を修繕し、仕立て直していく。


少しでも、紅月の支えになれるように。

近所の呉服店の女に事情を話すと、梔子は家でもできる針仕事を与えてもらえるようになった。


幸い、手先の器用さには自信があった。


思えば今まで、梔子はずっと紅月に頼りきりだったのだ。

これからは、自分も収入を得て、彼を支えられるようになっていかなければ……。

そんな思いで、梔子はこの数日を、以前よりも明るい気持ちで過ごすことができていた。


(できた……)


炊き立てのご飯に漬物、かぼちゃとさつまいもを入れた温かな味噌汁。

おかずは、だし汁に浸し、油揚げや身欠きにしんを加えてじっくりと煮込んだ切干大根の煮物だ。


今朝は風が強く雪もちらつき、空はどこまでも分厚い雲に覆われていて、晴れ間の見える様子はなかった。


今年の冬は、一段と寒さが厳しいように感じる。

今日もまた、冷え込みの強い一日になるだろう。


ならばせめて、ほかほかと身体が温まるような食事で一日を始めたい。


割烹着を脱ぎ、紅月の部屋へと向かう。


「紅月さま」


障子戸越しに、彼へと呼びかける。


「朝餉の用意ができました。起きていらっしゃいますか」


返事はなかった。

近頃では珍しくないことだった。

紅月はまだ、眠っているのだろう。


傷の抜糸も済み、体調もほとんど回復したということで、このところ紅月は夜遅くまで起きていることが多いようだった。


早く休まなければだめだと梔子がいくら言っても、彼は聞かなかった。

一日も早く手を使えるようになりたいのだと、寝る間も惜しんで絵や字を書く練習に打ち込んでいて。


(昨夜も、遅くまで起きていらっしゃったのかもしれない)


とはいえ、朝食を抜いてしまうのは身体によくない。

食べるだけ食べて、後は好きなだけ休んでいてもらえばいい。


「ごめんなさい。失礼します」


一声謝って、部屋の中に足を踏み入れる。

しかし。


「…………」


数日前の深夜と、同じ。

部屋に彼の姿は、なかった。


やがて梔子は、卓上に何か、白い封筒が置いてあることに気づく。

それは、昨夜、ここに来た時には確かに置かれていなかったものだった。


(……これ、は)


封筒に触れる時にはもう、指先が震えていた。

中に入っていたのは、一枚の便箋。

それは、まぎれもなく。


――くちなしへ。


そう宛てて書き始められた、紅月からの手紙だった。

便箋に並んでいたのは、見慣れた美しい筆跡ではない。

時間をかけ、左手で記したのがわかる、拙い字で。

彼が残していったのは、梔子への別離の言葉だった。


わたしは、あなたにあやまらなければならない。

あなたをまもると、わたしはかつてやくそくした。

けれどもう、それができなくなってしまった。

わたしのそんざいは、あなたのおもにになるばかりだから。


あなたをずっと、あいしているよ。

あなたとであえて、ともにくらせて、わたしはほんとうにしあわせだった。

いっしょうぶんのしあわせを、あなたはわたしにくれたんだ。

どうかこれからは、とおくから、あなたのしあわせになるところをみまもらせてほしい。

こんなことばでは、ぜんぜんたりない。だけど。

いままで、ほんとうにありがとう。



「どう……して……?」


どうして、彼は。

どうして、なぜ、こんなことを――


便箋を持つ手の震えが止まらない。


今後のことについては静貴にお願いしてあって、彼から連絡があるだろうから心配は要らないというような内容も書いてあったが、うまく頭に入ってこなかった。


呆然としていたのは、つかの間のことだった。

気づけば梔子は身支度さえままならないまま、家を飛び出して走り出していた。


まだ、遠くには行っていないはずだ。

そう信じたかった。


まだ、梔子は追いつける。

まだ、彼を見つけ出せる。


いつも足を運んでいた市。

ともに散歩をしたことのある森や、公園。


雪がちらついていた。

けれど寒さなど微塵も感じない。


息が切れ、胸が苦しくなっても構わずに走り、梔子は声の限りに紅月の名を呼び続けた。


「紅月さま! いらっしゃるのでしたら、どうか返事をしてください……! 紅月さま……!!」


けれど、どれだけ捜しても、どこにも、紅月の姿を見つけることはできなくて。

どれだけ呼びかけても、彼の声が聞こえてくることはなくて。


どれほど、彼を捜し続けたことだろう。

やがて、梔子が最後にたどり着いたのは。


(お願い……。どうか……)


……どうか。

夕暮れの強烈な日差しが、目を穿(うが)つ。


一縷(いちる)の望みをかけ、汽車に乗り、梔子が向かったのは――


斜陽を帯びて、茜色に光る雪の林道。

その先に。


風が吹く。

夕日の中に、細かな雪の結晶が舞い散る。


季節は、雪の舞い散る静かな冬。

普通に考えれば、あり得ない。それなのに。

その場所には、以前、彼から過去を打ち明けられた時と同じように、見渡す限りに彼岸花が咲き乱れていた。


まるで燃え立つように。

この世とあの世のあわいに足を踏み入れてしまったかのように。

鮮烈なまでに赤い花畑の中に、紅月は一人で佇んでいて。


「紅月、さま」


涙とともに溢れ出したのは、ずっと堪え続けていた言葉だった。


「捜したのですよ……?」


声が聞こえた気がした。

すまない、と彼が梔子に謝る声が。


「どうして、私に黙っていなくなってしまったのですか? どうして、ご自分のことを、重荷になるなどとお考えになったのですか。……私を、妻だと。私をもう誰にも渡さないと、あなたは言ってくださったではありませんか……!」


無我夢中で、幾千もの彼岸花の向こうに見える紅月の姿に手を伸ばす。

泣き崩れる梔子を、彼はいつものように、優しく抱きしめ返してくれた。


(ああ……)


全身が、温かな安堵に包まれていく。


「もう、どこにも……行かないでください。私のそばに、いてください」


これでもう、紅月がどこかに行ってしまうことはない――


急速に輝きを増していく光の中で。

梔子はそっと、涙に濡れた目を閉ざした。





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