表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
142/161

十六.別離、そして希望 ―5


やがて紅月は言った。力のない声だった。

寂寥を帯びた笑みを見れば、彼が無理をしているのがはっきりとわかる。


「少し……外に出て、考え事がしたかったんだ。それで、気がついたらこの場所まで来ていた。……すまなかったね。貴女に、余計な心配をかけてしまった」


……やっぱり、紅月さまは、気がついていらっしゃるのだわ。


そう確信を得るには、充分だった。

だとすればもう、隠し続ける意味などない。

震える声で、梔子は言った。


「紅月さま。申し訳ありません。私は……私は、あなたに、とても大きな隠し事を……」

「……知っていたよ」


返ってきた言葉に、梔子は視線を跳ね上げた。


紅月は微笑んでいた。

自嘲を帯びたその微笑み方を見ただけで、梔子は嫌でも思い知らされた。

彼はもうとっくに、何もかも察していたのだと。

包帯に覆われた右手を見下ろしながら、彼は言った。


「最初に病院で気がついた時から、きっとそうだろうとは思っていた。……あれから、右手に何も感じないんだ。力は入らないし、痛みも感じない。だから、きっと……そうなのだろうと」

「紅月さま……」

「本当はもっと早く、事実を確かめるべきだとわかっていた。だが私は、本当のことを思い知らされるのがどうしても恐ろしくて……だから、貴女が悩んでいることを知りながら、何日も過ごしてしまった。……すまなかったね、梔子」

「…………」


もう、何も言うことはできなかった。

言葉をなくした梔子の前で、紅月は一度目を閉じる。


それから再び目を開けた時、彼はすべてを悟った、悲しげな笑みを湛えて、言った。


「私の右手は、もう、もとのようには治らない。私は、画家として生きる道を絶たれて……。それどころか、自分の世話すらまともにこなせない……貴女の手を煩わせるばかりの、能無しになってしまった。貴女はそれを、ずっと前から知っていて……私のために、黙っていてくれたんだろう?」

「……っ、紅月さま……!」


痛みとともにせり上がってくる感情にたまらなくなって、気づけば、梔子は彼の足下に跪いていた。

冷たい雪に、瞬く間に額が、指先が凍えていく。

それでも、その場に額ずかずにはいられなかった。


「申し訳ありません……。申し訳ありません……!」

「梔子……!? やめるんだ! 貴女は何をして――」


紅月は謝罪をする梔子の肩を掴み、梔子が地面に額をこすりつけるのを止めようとしたが、それでも謝罪をやめることなどできなかった。

だって、紅月が右手を失うことになったのは、梔子のためだったのだから。


「私のせいです……! 私が……私が、至らなかったから。私のせいで、紅月さまが――!」

「違う! それは違うよ、梔子。貴女のせいじゃない。私の傷は、私が自ら望んで負ったものだ。だからお願いだ。もう、それ以上はやめてくれ……」


掠れ、絞り出すような声が、頭上から降ってくる。

そして次に息をした時にはもう、梔子は彼の腕の中にいた。


「……貴女のせいじゃないよ」

「でも……っ」

「貴女のせいじゃない、梔子。私はこの傷を負ったことを、微塵も後悔していないよ。貴女を守ることができたのだから、本望だ」

「…………っ」

「だから、もう謝らないでくれ。貴女の謝るところを見るのは……とてもつらい」


堪えることはできず、溢れ出した涙が止まらない。

梔子を慰めようとして、紅月は何度も、優しく背をさすってくる。

梔子は、自分を呪わずにはいられなかった。


(紅月さまの方が……ずっとおつらいはずなのに)


なのに梔子は、彼を力づけるどころか、逆に彼に心配をかけ、こうして慰められてしまっているのだから。


「……能無しなんかじゃ、ありません」


ようやく、声が出た。

その途端、これまで内に秘め、伝えられずにいた言葉が、堰を切ったように迸り出てきた。


「ご自分のことをそのように蔑むのは、どうかやめてください。お願いいたします。どうか、お一人で抱え込まないでください。これからのことは、どうか……私にも一緒に、悩ませてください……!」

「梔子……」


梔子の訴えは、紅月に伝わったのだろうか。

やがて、こわごわと、彼の手が背に触れて。


「……ありがとう」


そっと、抱きしめ返される。


紅月は、それ以上、何も言わなかった。


それでも、ただ黙って梔子を抱きしめてくれること。

それが、彼の答えだと。


梔子は、信じていたかった。


          *


腕の中に温もりを感じながら、紅月はふと目を覚ました。


おそらく、それほど長い時間は眠っていない。


思った通り、障子戸越しの月明かりを頼りに掛け時計を見れば、眠る前に見た時刻から一時間も経っていなかった。


外はまだ、真夜中の暗闇に閉ざされていて。


――ここは、紅月の自室。


梔子とともに沼池から帰ってきて。

今夜はもう、一人では眠れそうになかった。

それは梔子も同じだったのか。

あるいは、何も言わずとも、彼女には紅月の心中などお見通しだったのか。


梔子は、屋敷に戻ってきてからも、そばにいてくれた。


そんな彼女の優しさに、どうしても甘えてしまって。

気づけばまた、紅月は彼女を抱きしめて眠っていた。


月影にうっすらと照らされた梔子の寝顔には、はっきりと心労が見て取れた。

この数日、彼女は紅月のことで、どれほど悩み続けていたのだろう。


(もう、久しく……彼女が笑っているところを、見ていないな。悲しそうな顔ばかりだ。……私のせいだ。私が、不甲斐ないせいで)


屋敷に戻ってきてからずっと、梔子がくれた言葉が頭から離れなかった。


『どうか、お一人で抱え込まないでください。これからのことは、どうか……私にも一緒に、悩ませてください……!』


いずれ自分の夫となる男が、稼ぎを得る術を失った。

紅月は今や、描くどころか、彼女を苦しませ、悲しませるばかりの最低の無能に成り下がってしまった。


それなのに彼女は、嫌な顔一つ見せることはなかった。

それどころか、一緒になって悩み苦しみ、紅月を支えようとしてくれていた――


(ありがとう。……ありがとう、梔子)


言葉などでは、言い尽くせない。


今日だけの話ではない。

梔子がくれた言葉に、行動に、紅月は今まで、どれほど救われてきたことだろう。


……幸せになってほしい。

心からそう思う。


もう泣かないでほしい。苦しまないでほしい。悲しまないでほしい。

いつだって、梔子には笑っていてほしい――


だから。

紅月のすべきことは、もう決まっていた。


本当は、自分が、梔子を幸せにしたかった。

これからもずっと、彼女のそばで、彼女の一番近くで、その笑顔を見続けていたかった。


……けれどそれは、彼女に悲しみや苦労ばかり与えてしまう自分には、許されない望みだ。


「……すまない」


消え入りそうな声で口にしたのは、謝罪だった。


眠る彼女の耳には、届かない。

だから、告げる。


あたりを包む暗闇に、託すように。


「すまない、梔子。私はね……貴女にふさわしい人間では、なくなってしまったんだよ」


今にも溢れ、零れてしまいそうな想いを込めて。

梔子を起こさないように、そっと、静かに。

彼女の唇に口づける。


(梔子。これからもずっと……貴女だけを、愛している。だから、私は……)




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ