十六.別離、そして希望 ―5
やがて紅月は言った。力のない声だった。
寂寥を帯びた笑みを見れば、彼が無理をしているのがはっきりとわかる。
「少し……外に出て、考え事がしたかったんだ。それで、気がついたらこの場所まで来ていた。……すまなかったね。貴女に、余計な心配をかけてしまった」
……やっぱり、紅月さまは、気がついていらっしゃるのだわ。
そう確信を得るには、充分だった。
だとすればもう、隠し続ける意味などない。
震える声で、梔子は言った。
「紅月さま。申し訳ありません。私は……私は、あなたに、とても大きな隠し事を……」
「……知っていたよ」
返ってきた言葉に、梔子は視線を跳ね上げた。
紅月は微笑んでいた。
自嘲を帯びたその微笑み方を見ただけで、梔子は嫌でも思い知らされた。
彼はもうとっくに、何もかも察していたのだと。
包帯に覆われた右手を見下ろしながら、彼は言った。
「最初に病院で気がついた時から、きっとそうだろうとは思っていた。……あれから、右手に何も感じないんだ。力は入らないし、痛みも感じない。だから、きっと……そうなのだろうと」
「紅月さま……」
「本当はもっと早く、事実を確かめるべきだとわかっていた。だが私は、本当のことを思い知らされるのがどうしても恐ろしくて……だから、貴女が悩んでいることを知りながら、何日も過ごしてしまった。……すまなかったね、梔子」
「…………」
もう、何も言うことはできなかった。
言葉をなくした梔子の前で、紅月は一度目を閉じる。
それから再び目を開けた時、彼はすべてを悟った、悲しげな笑みを湛えて、言った。
「私の右手は、もう、もとのようには治らない。私は、画家として生きる道を絶たれて……。それどころか、自分の世話すらまともにこなせない……貴女の手を煩わせるばかりの、能無しになってしまった。貴女はそれを、ずっと前から知っていて……私のために、黙っていてくれたんだろう?」
「……っ、紅月さま……!」
痛みとともにせり上がってくる感情にたまらなくなって、気づけば、梔子は彼の足下に跪いていた。
冷たい雪に、瞬く間に額が、指先が凍えていく。
それでも、その場に額ずかずにはいられなかった。
「申し訳ありません……。申し訳ありません……!」
「梔子……!? やめるんだ! 貴女は何をして――」
紅月は謝罪をする梔子の肩を掴み、梔子が地面に額をこすりつけるのを止めようとしたが、それでも謝罪をやめることなどできなかった。
だって、紅月が右手を失うことになったのは、梔子のためだったのだから。
「私のせいです……! 私が……私が、至らなかったから。私のせいで、紅月さまが――!」
「違う! それは違うよ、梔子。貴女のせいじゃない。私の傷は、私が自ら望んで負ったものだ。だからお願いだ。もう、それ以上はやめてくれ……」
掠れ、絞り出すような声が、頭上から降ってくる。
そして次に息をした時にはもう、梔子は彼の腕の中にいた。
「……貴女のせいじゃないよ」
「でも……っ」
「貴女のせいじゃない、梔子。私はこの傷を負ったことを、微塵も後悔していないよ。貴女を守ることができたのだから、本望だ」
「…………っ」
「だから、もう謝らないでくれ。貴女の謝るところを見るのは……とてもつらい」
堪えることはできず、溢れ出した涙が止まらない。
梔子を慰めようとして、紅月は何度も、優しく背をさすってくる。
梔子は、自分を呪わずにはいられなかった。
(紅月さまの方が……ずっとおつらいはずなのに)
なのに梔子は、彼を力づけるどころか、逆に彼に心配をかけ、こうして慰められてしまっているのだから。
「……能無しなんかじゃ、ありません」
ようやく、声が出た。
その途端、これまで内に秘め、伝えられずにいた言葉が、堰を切ったように迸り出てきた。
「ご自分のことをそのように蔑むのは、どうかやめてください。お願いいたします。どうか、お一人で抱え込まないでください。これからのことは、どうか……私にも一緒に、悩ませてください……!」
「梔子……」
梔子の訴えは、紅月に伝わったのだろうか。
やがて、こわごわと、彼の手が背に触れて。
「……ありがとう」
そっと、抱きしめ返される。
紅月は、それ以上、何も言わなかった。
それでも、ただ黙って梔子を抱きしめてくれること。
それが、彼の答えだと。
梔子は、信じていたかった。
*
腕の中に温もりを感じながら、紅月はふと目を覚ました。
おそらく、それほど長い時間は眠っていない。
思った通り、障子戸越しの月明かりを頼りに掛け時計を見れば、眠る前に見た時刻から一時間も経っていなかった。
外はまだ、真夜中の暗闇に閉ざされていて。
――ここは、紅月の自室。
梔子とともに沼池から帰ってきて。
今夜はもう、一人では眠れそうになかった。
それは梔子も同じだったのか。
あるいは、何も言わずとも、彼女には紅月の心中などお見通しだったのか。
梔子は、屋敷に戻ってきてからも、そばにいてくれた。
そんな彼女の優しさに、どうしても甘えてしまって。
気づけばまた、紅月は彼女を抱きしめて眠っていた。
月影にうっすらと照らされた梔子の寝顔には、はっきりと心労が見て取れた。
この数日、彼女は紅月のことで、どれほど悩み続けていたのだろう。
(もう、久しく……彼女が笑っているところを、見ていないな。悲しそうな顔ばかりだ。……私のせいだ。私が、不甲斐ないせいで)
屋敷に戻ってきてからずっと、梔子がくれた言葉が頭から離れなかった。
『どうか、お一人で抱え込まないでください。これからのことは、どうか……私にも一緒に、悩ませてください……!』
いずれ自分の夫となる男が、稼ぎを得る術を失った。
紅月は今や、描くどころか、彼女を苦しませ、悲しませるばかりの最低の無能に成り下がってしまった。
それなのに彼女は、嫌な顔一つ見せることはなかった。
それどころか、一緒になって悩み苦しみ、紅月を支えようとしてくれていた――
(ありがとう。……ありがとう、梔子)
言葉などでは、言い尽くせない。
今日だけの話ではない。
梔子がくれた言葉に、行動に、紅月は今まで、どれほど救われてきたことだろう。
……幸せになってほしい。
心からそう思う。
もう泣かないでほしい。苦しまないでほしい。悲しまないでほしい。
いつだって、梔子には笑っていてほしい――
だから。
紅月のすべきことは、もう決まっていた。
本当は、自分が、梔子を幸せにしたかった。
これからもずっと、彼女のそばで、彼女の一番近くで、その笑顔を見続けていたかった。
……けれどそれは、彼女に悲しみや苦労ばかり与えてしまう自分には、許されない望みだ。
「……すまない」
消え入りそうな声で口にしたのは、謝罪だった。
眠る彼女の耳には、届かない。
だから、告げる。
あたりを包む暗闇に、託すように。
「すまない、梔子。私はね……貴女にふさわしい人間では、なくなってしまったんだよ」
今にも溢れ、零れてしまいそうな想いを込めて。
梔子を起こさないように、そっと、静かに。
彼女の唇に口づける。
(梔子。これからもずっと……貴女だけを、愛している。だから、私は……)