十六.別離、そして希望 ―4
それは、その日。
夜遅くのことだった。
梔子は急に、浅い眠りから目を覚ました。
眠りから覚める直前、何か、かすかな音を聞いたような気がしたからだ。
(今、のは……?)
冷えた風が、頬を掠めていったような気がした。
時刻は、深夜。
あたりはしんと静まり返って、音一つない。
それなのに、なぜ梔子は、目を覚ましてしまったのか――
言い知れない胸騒ぎがして、暖かな布団の中から飛び起きた。
途端、無数の針で突きさされるような寒さが襲いかかってきたが、構っていられない。
……わからない。
なぜこんなに不安になっているのか、焦燥に駆られているのか、自分でもわからなかった。
根拠はない。
それでも、ここでじっとしていては、取り返しのつかないことになるような気がして。
気づけば梔子は、急いで半纏を羽織りながら部屋の外に出ていた。
この切迫した不安を一刻も早く消したくて、迷いなく向かったのは紅月の部屋だ。
足音を殺し、息をひそめて、部屋に近づいて。
耳を凝らす。
部屋からは、何も聞こえてこなかった。
身じろぐ音はおろか、寝息一つ、何も。
「紅月さま……!」
障子戸を開け、部屋に放った梔子の声は、誰にも受け止められることのないまま暗闇の中に吸い込まれていく。
紅月の姿は、なかった。
彼が休んでいたはずの布団に触れれば、すでに温もりは薄れ、冬の外気に晒されて冷えかけている。
背筋が凍り、血の気の引くような思いがした。
(紅月さまは、いったいどこへ行ってしまわれたの……!?)
痛いくらいに鼓動を打つ心臓に駆り立てられるように、離れへと走る。
紅月がアトリエとして使っているその部屋にも、彼の姿はなかった。
もう一度屋敷をくまなく見て回っても、どこにもいない。
……屋敷のどこからも、紅月がいなくなってしまった。
「…………!」
震えが止まらないのは、寒さのせいだけではなかった。
玄関に走り、外へと飛び出す。
夕刻、ちらついていた雪は止んでいた。
冬の夜空には月が出て、暗闇の中、雪をかぶった地上はほの白く浮き上がって見えて――
その途端、梔子ははっと息を呑んだ。
銀砂をまいたようにきらきらと光る地面に、足跡があった。
真新しい足跡だ。
目でたどっていくと、玄関から門の外へと続いている。
紅月は、少し前に、歩いてどこかへ出かけていったのだ。
足跡を追って、梔子は駆け出した。
門をくぐっても、足跡はまだ先まで見て取れる。
やがて梔子は足跡がどこへ向かっているかに思い至った。
屋敷から少し歩いたところには、林道の奥、小さな沼池のある場所がある。
普段足を運ぶことは少ないけれど、夏のある日、睡蓮の花が綺麗だからと紅月に連れて行ってもらったことがあるから、その場所は知っていた。
こんな時間に、紅月はどうしてそんな場所に。
逸る思いで林の中を抜けると、やがて視界が開けてくる。
その先に、見たものに。
思わず息をこらして、立ち止まってしまう。
銀色の、寒々とした月明かりの下で。
紅月は一人、沼池のそばに静かに佇んでいた。
彼は何をするでもなかった。
ただ、微動だにせず、薄氷に覆われた白い水面を見つめている。
その眼差しに光はなく、どんな感情も読み取れない。
「…………!」
次第に梔子を襲ったのは、得も言われぬ恐怖だった。
それほどまでに、今の紅月は、不吉を思わせる佇まいをしていて。
やがて、頭の中に響いたのは、静貴が口にしていた言葉だった。
『どうしても、胸騒ぎがするのだ。僕には、今、あの男が何を考えているかわからない……』
月に雲がかかったのか。
冴え冴えと明るかった沼池が、次第に暗くなってくる。
……このままでは。
このままでは、紅月が暗闇に呑まれて、消えていってしまう。
そんな、現実的に考えればありえもしない不吉な予感に、突き動かされて。
「――紅月さま!」
居てもたってもいられず林から飛び出し、声を張り上げる。
その途端、紅月が弾かれたように顔を上げる。
駆け寄せる梔子を見つめる彼の瞳には、一瞬で光が戻っていた。
「梔子……? どうして、ここへ……」
「何を仰るのですか。それは、私があなたに言いたいことです。なぜ、こんな時間、こんなところにいらっしゃったのですか。この場所は冷えます。あなたはまだ、部屋でお休みになっていなければならないのに、どうして……」
「…………」
語気荒く、問いつめずにはいられなかった。
突然現れた梔子に、紅月はまだ戸惑っているようだった。
彼は視線をそらし、言葉につまるような様子を見せる。
……どうして、紅月はこんな場所にいたのか。
今のこの状況で、その理由は一つしか考えられなかった。