十六.別離、そして希望 ―3
*
……そうして、昨夜は。
しばらくは、紅月の言動や様子を注意して見てやってくれ。
静貴はそう言って、梔子との会話を切り上げた。
「梔子」
「…………!」
隣から名を呼ばれて、梔子ははっと目を見開いた。
「ここは冷える。そろそろ中に入らないか。貴女も、久しぶりに家に帰ることができて、早くゆっくりしたいだろう?」
「あ……。は、はい。そうですね」
紅月は微笑んで、梔子に手を差し出してくる。
彼が浮かべているその微笑みに、翳りは少しも見出すことはできない。
紅月は本当に、怪我をする以前と何一つ変わらない様子で――
だからこそ、胸中の不安は、よりいっそうかき立てられるばかりだった。
その夜は、遅まきながら正月料理の支度をした。
本当なら八條家にいた頃にやっていたように、数日前から仕込みをして手間をかけて作りたかった。
けれど、今からそんなことをしていては正月が終わってしまう。
ありあわせの鰹節と昆布でだし汁を取り、急いで買い集めた具材と焼いた餅を煮込んで、雑煮を作った。
鍋からは、食欲をそそる醤油の匂いとともに、ほっこりと温かな湯気が立ち上っている。
おたまで味見をすると、甘じょっぱくて優しい醤油の風味に、思わず頬が緩んだ。
(これで……いいかしら)
久しぶりに市に顔を出した時に、厚意でお煮しめをおすそ分けをしてもらったから、それも小鉢によそって添えた。
急ごしらえではあるけれど、正月らしさを出すことはできたと思う。
……ようやく、完成だ。
思っていたよりも遅い夕餉になってしまった。
台所の明かりを消して、料理を載せたお盆を抱える。
退院はできたものの、しばらくは静養しているようにと言われたため、紅月は自室で過ごしていた。
食事もいつもの居間ではなく、彼の部屋に運んですませるつもりだったので、そちらへと向かう。
「失礼します、紅月さま。夕餉をお持ちしました。入ってもよろしいでしょうか」
障子戸越しに声をかける。
しかし、紅月からの返事はなかった。
「紅月さま」
慌てて障子戸を開けると、視界に飛び込んできたのは布団で休む紅月の姿だった。
(あ……)
思わずほっとして脱力してしまう。
もし、梔子の知らぬ間に彼が姿を消していたらどうしようかと思った。
……やはり、静貴の考えはただの杞憂だ。
改めてそう考えなおした梔子は、紅月を起こさないように静かに部屋に入り、お盆を卓上に置いた。
とは、いえ。
眠っている紅月を起こすのははばかられた。
料理は、彼が目を覚ました時にまた温め直せばいい。
そう考え直し、お盆を持ち直し、部屋を出ようとして。
「……梔子……?」
背後から声が聞こえて、梔子は障子戸に触れた手を止めた。
振り返れば、紅月が布団から起き上がるところだった。
「ごめんなさい。せっかくお休みになっていたところを、起こしてしまって」
「いや……」
眠気を引きずっているのかしばらく視線をさまよわせていた紅月だったが、やがて梔子が手に持っているお盆に目をとめた。
「もしかして、夕餉を持ってきてくれていたのかい?」
「はい。でも、もしまだお休みになるのでしたら、また後で温め直しますので」
「いや。今、食べてしまおう。梔子だって、お腹がすいているだろう?」
「……よろしいのですか?」
「ああ。待ちかねていたんだ。久しぶりに、貴女の手料理が食べられる」
そう言って紅月が嬉しそうに微笑むのを見ると、胸に巣食っていた不安は少しだけ和らぐようだった。
まだしつこく残っていた不安を無理やり封じ込めると、梔子は卓上に雑煮と小鉢を置いて、手を合わせた。
「いただきます」
食事を進めながら、梔子はちらと紅月の手元を一瞥する。
今も、紅月の右手は包帯に覆われたままだ。
彼は左手で匙をとり、少しずつ料理を口に運んでいる。
やがて、雑煮をすすった紅月がほっと息をつきながら言った。
「……おいしい。なんだか、やっと帰ってこられたような心地がするな」
「私もです。やっぱり……ここにいるのが、一番落ち着きますね」
聖誕祭の日からずっと、心を落ち着ける暇などなかった。
こうして二人で食事をとっていると、長い間遠のいていた安らぎがようやく戻ってきたような、そんな気がしてくるのだった。
温かな料理を食べたおかげで、冷えていた身体も次第にぽかぽかとしてくる。
それにしても、と紅月が言った。
「いろいろごたごたしているうちに、年が明けてしまったね。本当なら、三が日のうちに初詣にも行っておきたかったのだが。……いや、よくよく考えれば、三が日に慌てて行く必要もないのか。なら、明日にでも行こう、梔子。今年はいい年になるように、たくさん祈ってこなければ」
「いえ、だめですよ。お医者さまが言っていました。しばらくは部屋で静かになさっているようにと」
「傷はもう塞がっているよ。よほど大きな動きでもしない限り大丈夫だ」
「それでも、だめです。お願いですから、もうしばらくはここでじっとしていていただけませんか」
念を押すように言うと、紅月はそれでもしばらくは納得しない様子を見せていたが、やがてあきらめたらしかった。
困ったように笑って、彼は言った。
「……わかったよ。貴女にむやみに心配はかけたくないからね。でも、病院で許可をもらえたら、その日のうちにお参りに行くよ。それなら構わないだろう?」
「はい。その時は、喜んでご一緒させていただきます」
そうして、食事をしながら、ゆったりと時間は流れて。
空になった器を片付けながら、梔子は言った。
「この後は、もうお休みになりますか? でしたら、着替えをお手伝いしますが」
怪我が癒えるまで、紅月は湯浴みをすることができない。
そのため、梔子は病院で付き添っている間、彼が身体を拭いたり着替えをしたりするのを幾度となく手伝ってきた。
はじめこそ梔子は緊張し、紅月も遠慮をしていたものだが、何度か手伝ううちに、お互いに少しずつ慣れてきたものだった。
「そうだね。本当はまだ眠くもないし、かなうなら今すぐにでも描きたいが、この手ではどうにもならない。……すまないね。最近はずっと、貴女に頼りっぱなしだ」
「いいえ。私のことは、お気になさらないでください。…………」
本当は、今すぐにでも描きたい。
紅月がそう零すのを聞いて、また胸が痛む。
(いつ……紅月さまに、本当のことをお伝えしたらいいの……?)
彼が絵のことを口にするたびに、後ろめたさを感じて、どうしても苦しくなってしまう。
梔子は、彼に大きな嘘をついているのだから。
梔子はもう、紅月が今までどれほど描くことに身を傾けてきたかを知っている。
絵に向かい合っている時、どれほど彼が、真剣に、楽しそうにしているか。
紅月にとって、描くことは切っても切り離せないものだ。
それを知っているからこそ、どうしても、本当のことを伝えられなくなってしまうのだ。
……私は、どうしたら……。
「…………」
黙って梔子を見つめていた紅月が口を開いたのは、その時のことだった。
「……梔子」
「……! はい、どう……されましたか」
「貴女は……。……ここ最近、何か悩んでいることがあるんじゃないのかい?」
「え……?」
思わず器を片付ける手を止めて、顔を上げる。
紅月は憂いのある表情で、梔子に視線を向けていた。
とっさに梔子は首を横に振った。
今は、この場をごまかさなくてはいけないと思ったからだ。
「それは……。悩みは……、あります。紅月さまのお身体のことが、ずっと心配でしたから」
「……そうか。ありがとう。でも、本当にそれだけなのかな? 私には、日に日に貴女が思いつめていっているように見える」
「そんな、こと……そんなことは、ありません。……紅月さまの、思い違いです」
「……梔子」
「片付けを……してまいります」
これ以上問いただされたら、もう耐えられそうになかった。
手早く器を運び、水場で洗って片付ける。
幸い、その夜、紅月はもう梔子を追及してくることはなかった。
ただ、何となく会話は弾まず、ぎこちない空気が流れたまま……
「それでは、部屋で休ませていただきます。おやすみなさい、紅月さま」
「ああ。……おやすみ、梔子」
紅月の部屋を出て、冷え切った廊下を歩く。
自室にたどり着き、障子戸を閉めた途端。
糸が切れたように、梔子はその場に座り込まずにいられなかった。
……このままではいけないと、わかっていた。
けれど。
「…………っ」
梔子にはもう、どうしたらいいのかわからなかった。