十六.別離、そして希望 ―2
*
それは、昨夜のこと。
仕事を終えて藤川邸に戻ってきた静貴に、梔子は呼び出された。
「梔子さん。今日も紅月のところへ顔を出したんだろう? 明日、ようやく退院だが……どうだった、あの男の様子は」
「お元気そうになさっていました。お医者さまも、この分なら普段通り家で過ごして問題ないと。ただ……」
「手のことを、奴にいつ伝えるか……だな」
眉をしかめ、苦しげに言った静貴に、梔子は頷いた。
(どうしても……伝えられない)
梔子を救うために紅月が右手に負った怪我は、骨や神経をもひどく傷つけるものだった。
傷が癒えたとしても、紅月は今後、右手を使うことができない。
利き手を使えなければ、彼はこれから先、画業に携わることができないのだ。
静貴はしばらくの間、深く考え込むように黙り込んでいたが、やがて言った。
「……梔子さん。僕はもう何年も、画家としての紅月を援助してきた。世間的に見れば、僕と紅月はパトロンとその支援を受ける芸術家というわけだが、それ以前に僕は、紅月を親友だと思っている。奴が僕のことをどう思っているかは知らないがね。だからもし、紅月が画業を続けられなくなったとしても、僕はあの男と縁を切るようなことはしない。僕はこれまで通り、きみ達の力になるつもりだ」
「静貴さま……」
梔子も、静貴も、紅月に右手のことは伝えることができていなかった。
せめて、彼の傷が癒えて退院できるまでは後遺症のことは伏せておこうと、そう決めてあったのだ。
ただ。
今後も右手が使えるかどうかは、紅月自身が一番、知りたい事柄に違いない。彼は必ず、右手のことを尋ねてくるだろう。
その時は、訓練次第で手はまた使えるようになる――そう伝えようと、静貴と口裏を合わせておいてもいた。
(けれど……紅月さまは)
苦い表情を浮かべ、静貴は言う。
「……不気味なくらい、今、あの男は落ち着きすぎている。本当は、我々の考えていることなどとっくに見抜かれているのではないかと……そう思わずにいられないのだ」
「…………」
静貴の言葉は、梔子がこの頃、紅月の近くにいて抱えている不安そのものだった。
必ず、紅月は右手のことを訊いてくると思っていた。
けれど、彼は一度も、梔子にも静貴にも、怪我のことを尋ねてはこなかったのだ。
他ならない彼が、一番知りたいことのはずなのに。
「紅月さまは……本当は、もうお気づきになってしまっているのでしょうか。それとも、最初からこうなることを……」
紅月が自ら手を傷つけた時のことを思い返さずにいられない。
あの時、梔子を救うために、彼は何もかもを覚悟したような眼差しをしていた。
その覚悟が、彼が全人生を賭けてきた生業を失うことにまで、及んでいたのだとしたら。
描けなくなるかもしれないと、そう知った上で、彼が刃を握ったのだとしたら……
「……梔子さん。きみは、あの男がかつてしでかしたことは……」
紅月がかつてしでかしたこと。
梔子は無意識のうちにきゅっと手を握りしめ、頷いた。
おそらく、静貴が言いたいのは、紅月の過去のことだろう。
彼がかつて、慕っていた兄の死に直面して、自ら命を絶とうとしたこと――
「そうか。きみも知っているのなら、話は早い。前にも、僕はきみに言ったと思うが……僕の目から見ると、紅月はひどく厄介なところがあるのだ。ひとたび一人で思いつめると、何をしでかすかわからない危うさがある。僕の思い過ごしであればいいと思う。だが、どうしても、胸騒ぎがするのだ。僕には、今、奴が何を考えているかわからない……」
「静貴さま。それは……、まさか……」
その先を口にするのは、恐ろしくてならなかった。
静貴の胸騒ぎ。
それは、彼が危惧しているからだろう。
思いつめた紅月が、十年前と同じように、死を選ぼうとするのではないかと――
鏡を見なくても、自分の顔からさあっと血の気が引いていくのを感じる。
とっさに首を横に振り、否定せずにはいられなかった。
それでも、指先の震えがどうしても収まらない。
「いいえ……! 紅月さまは、私に約束してくださいました。これからもずっと、そばにいてくださると……。紅月さまが、そんなことをするはずがありません。以前、静貴さまだって、そう言ってくださったではありませんか……」
「梔子さん。落ち着いてくれたまえ。僕だって、まさか奴が死のうとするなどとは思ってはいないさ。十年前と違い、今はきみの存在があるのだから」
そうきっぱりと言った上で、ただ……と静貴は言葉を続ける。
「紅月は、生業を失ったのだ。長年想い続けてきたきみと再会して、やっと夫婦になれるというこの時にだ。それなのに描けなくなって、結婚したところできみに苦労をかけるかもしれないと考え出すようなことがあったら、あの男は……」