十五.私はもう屈しない ―8
*
……どこからか、声が聞こえた気がした。
名を呼ぶ声だ。
聞き間違えるはずがない。
それは、紅月を呼ぶ、梔子の声だった。
どれほどの間、紅月は眠り続けていたのだろう。
全身がずっしりと重く、自分の身体ではないかのようだ。
「――……」
「……! 紅月さま……?」
薄い靄のかかっていたようだった視界が、少しずつはっきりとしていく。
真っ先に見えたのは、梔子の姿だった。
彼女は堰を切ったように涙を溢れさせると、たまりかねたように紅月に身を寄せてくる。
「……っ、紅月さま……っ、紅月さま……!」
「梔子……」
彼女が泣き崩れる姿に、記憶が一気によみがえる。
囚われた梔子を助け出すために八條家の屋敷へ向かい、最上伊佐治の罠にかかったこと。
梔子との婚約破棄を迫られ、拷問にも等しい暴行を受けたこと。
今度こそ、紅月は死を覚悟していた。
もう二度と、大切な人を守れずに悔いるのは、絶望するのは嫌だ。
たとえ命を落とすことになったとしても、今度こそ梔子を守り抜くのだと。
けれど今、そんな考えはあまりにも愚かだったことを、間違っていたことをこれ以上ないほどに思い知らされた。
包帯に覆われた右手を、梔子の頬へと伸ばす。
紅月はいったい、どれほど眠り続けていたのだろう。
その間、どれほど彼女に心配をかけたことか。
「……ありがとう、梔子。貴女は……ずっと、そばにいてくれたんだね」
梔子を、たった一人にせずにすんだ。
今、自分が生きていることに、心の底から安堵が広がっていく。
(……そうだ。私は……)
まだ、死を受け入れていいはずがなかったのだ。
だって紅月は、誓っていたのだから。
たとえ、この先何があったとしても。
これからもずっと、梔子を守り、愛すると。
忌まわしい境遇の中でも懸命に生きてきた彼女が、これからはずっと安らかに、笑って過ごせるように。
他の誰でもない、自分が、彼女を幸せにするのだと。
……けれど。
気づいたのは、まもなくのことだった。
今、確かに彼女に、触れているはずなのに。
包帯の下。
まるで手首から先がなくなったように、右手に何も感じない。
感覚ばかりではなかった。
力を入れてみても、指先一つ動かすことはできず――
(そう……か)
覚悟していたことだった。
彼女を守るためにしたことだ。後悔など、一つもない。
それでも。
失われたものを知った時、紅月を襲ったのは、全身から一気に力を奪われていくような、底なしの空虚だった。
*
それから三日。
紅月の容態が安定するまでの間、梔子は同じ病室で付き添わせてもらっていた。
怪我の治癒経過は順調で、このまま十日もすれば、退院して屋敷で静養できるようになるらしい。
「……そろそろ、時間かな」
病室の壁にかかっていた時計を見て、紅月が言った。
言われて、梔子もあっと気づく。
時が過ぎるのを、うっかり忘れていた。
もう少しで、藤川邸から迎えの来る時間だった。
今日から紅月が退院できるまでの間、梔子は再び、静貴のいる藤川邸で寝起きさせてもらうことになっていたからだ。
「明日もまた来ます。何か、必要なものはありますか。あれば、お持ちしますが」
「……そうだな。貴女のいない時間は暇だし、明日からは何か本でも読んでいようかな。静貴に言えば、借りられるはずだから」
「わかりました。それでは明日、何冊かお持ちしますね」
名残惜しく感じながらも、紅月に別れを告げ、病室を出る。
……出て、まもなく。
「……っ」
堪えきれずに手で口元を覆い、嗚咽にも似た声が出るのを抑えた。
(どうしても……紅月さまに、伝えられなかった)
耳の奥からは、どうしても、医者から告げられた言葉が焼きついて離れない。
『十中八九、紅月殿の右手には後遺症が残ります。残念ですが……今後も彼が画家として活動していくのは、きわめて難しいでしょうな』