十五.私はもう屈しない ―7
……その日。
八條家から救い出された直後のことを、梔子はほとんど記憶に残していなかった。
兼時に打たれた傷のある梔子も、重傷を負った紅月とともに病院に運び込まれることになり。
夕刻。
気づくと、梔子はもう治療を終えた後で、病院の廊下にある長椅子に力なく座り込んでいた。
「……梔子さん」
誰かに名を呼ばれた。
ぼんやりと見上げれば、そこにいたのは静貴だった。
彼は何かを言いたげに口を動かしていたが、やがてあきらめたのだろう。
黙って梔子の隣に腰掛ける。
「……この場所は、冷えるな」
やがて、静貴はぽつりと言った。
廊下を挟んだ向かい側、手術室につながる扉を見遣り、彼は続けた。
「紅月は、まだ……?」
おもむろに頷き、梔子は冷え切った手を握りしめた。
ここで待ち始めてからもうずっと、手の震えが止まらないのだ。
「……梔子さん」
「静貴さま。私は……、私は、どうしたらよいのでしょうか」
隣に、梔子と同じように紅月を案じている人がいる。
そう思うと、一度溢れ出した言葉はもう止まらなかった。
「どうしたらよいか……わからないのです。紅月さまが、もし……っ」
……助からなかったら。
そう口にすることなど、できなかった。
言葉にすれば、奈落に突き落とされるような最悪の未来が、現実になってしまいそうで。
言葉の代わりに、また目の縁が潤み出す。
もうすでに、涙が涸れるくらいに泣いたはずなのに。
言葉を詰まらせ、顔を手で覆った梔子に、静貴がハンカチーフを差し出して言った。
それは、確信に満ち満ちた、強い口調で。
「大丈夫だ。心配する必要などない、梔子さん」
「…………っ」
「紅月がどれだけきみを愛しているか、きみだってよく知っているはずだ。大丈夫。あの男は、きみ一人を残して勝手に死ぬような奴じゃない。絶対に」
病院に運ばれた後。
全身を負傷し、瀕死の重体とみなされた紅月は、すぐに手術を受けることになった。
もうすでに日が沈み、外はすっかり暗くなっていた。
どうやら、また雪が降っているらしい。
部屋の扉の向こうから時おり医者達の声が漏れ聞こえてくる以外は、あたりはしんと静まり返っていた。
「……先ほど、警察に行って話を聞いてきた」
やがて、静貴が教えてくれたのは伊佐治と八條一家のその後だった。
八條家と最上伊佐治は、取引を交わし、結託していた。
伊佐治は自分で語っていた通り、梔子を己の花嫁として迎えたいと考えた。
「梔子さん。きみは今や、この帝都でも随一の美女と言われていて、紅月に並ぶ有名人だ。だから最上は、何としてもきみを自分のものにしたいと目論んだのだ。きみの存在は、奴の目には価値ある宝玉や勲章のように映ったのだろう。きみを妻にして、周囲に己の成功や地位を誇示したかったのだろうな」
伊佐治は兼時に取引を持ちかけた。
梔子を差し出せば、八條家を没落の危機から救ってやると。
しかし梔子は紅月と婚約し、すでに八條家から離れてしまっている。
今さら婚約の破棄を願い出ようが、紅月が梔子を手放すはずがない。
いつまでも手をこまねいていた兼時達に、痺れを切らしたのだろう。
梔子を手に入れるために、伊佐治はついに、自らが動くことにした。
藤川家で働く使用人をひそかに懐柔し、梔子を誘拐した。
紅月をおびき出し、梔子との婚約破棄を無理やり認めさせるために――
「……最上伊佐治。ここ数年の間に、破竹の勢いで名を上げてきた実業家だ。だが、その勢いの陰には、常に裏の人間達の暗躍があったようだな。今後、余罪も含めて捜査を進めていくと言っていた。八條家も……最上の悪事に荷担し、犯罪に手を染めたのだ。財政の立て直しはむろん不可能。爵位の剥奪も免れないだろうな」
最上伊佐治は実刑を受けることになり、八條家は没落の運命が決まった。
もはや彼らに、梔子と紅月に危害を及ぼす力はないと、そう静貴は締めくくった。
……けれど。
彼らが紅月に負わせた傷は深い。
彼らが捕まろうが、どれだけ落ちぶれようが、その傷が癒えることはない。
目を閉じれば、ありありと思い出してしまう。
梔子を救うために、紅月は自ら手を傷つけた。
その手に刻まれた傷の深さを。
とめどなく流れていた血の赤さを。
……どうか。
どうか。
握り合わせた両手に力を込め、ただひたすらに、紅月の無事を祈り続け――
手術室の扉が開かれたのは、それからどれほど時が経った頃のことだろう。
疲弊しきった様子で現れた医者に、梔子は俯かせていた顔を跳ね上げて駆け寄った。
「先生。どうなのだ、紅月の容態は――」
すかさず問いつめた静貴に、医者は答えた。
「ひとまず、峠は越しました。もう命を落とすことはないでしょう。……ですが」
そうして、重々しい表情を浮かべたまま。
言いにくそうに、医者が告げたのは――