十五.私はもう屈しない ―6
「いいですよ。すぐに解いてあげましょう。……あなたが俺と結婚すると、約束してくださるんであればね」
凶悪な笑みとともに発せられた言葉は、まるで死の宣告のようだった。
「本当はね、俺としてももっと穏便にすませたかったのですよ。まずは篁先生を説得しようとしました。彼があなたとの婚約を破棄すると言ってくれれば、事は一番楽に収まるのでね。……でも彼は、どれだけ痛い目に遭おうとあなたを手放そうとはしなかった。それほど深くあなたを愛しておられるのでしょうね。馬鹿なお人だ。最初の脅しだけで屈してくれていれば、こんなに怪我をすることもなかったのにね?」
ぞっと、背筋が粟立った。
最初の、脅し。
ならば、あの聖誕祭の夜、紅月を刺したのは。
屋敷の玄関に鮮血を撒いたのは。
にやりと笑って、伊佐治は言った。
「……そもそもの話。彼がこんな目に遭っているのは、梔子さん、あなたのせいなんですよ?」
「え……?」
「そう、すべてはあなたのせいだ。可哀想にねえ……。あなたがいなければ、こんなに傷つくこともなかっただろうに。ねえ、梔子さん。これ以上、自分のせいで彼が傷を負うところは見たくないでしょう? あなたが取るべき方法は、一つのはずだ」
そう言って伊佐治が手にしたのは、短刀だった。
伊佐治はうつ伏せに倒れている紅月の上に馬乗りになったかと思うと、短刀の刃を紅月の右手に当てる。
……右手。
それは、紅月の利き手だ。
絵を生業とする彼にとって、最も傷つけられてはならない場所――
「やめて……お願い。もう……もう、やめてください……!」
「梔子さん。この意味、もちろんわかりますよね? このままあなたが我を通せば、彼はあなたのせいで生業を失うのですよ。画家としての篁紅月は死んでしまう。もう一度尋ねます。俺の花嫁になってくれますね?」
「…………っ」
梔子はもう、限界だった。
そばにいると誓った。
二度と、紅月から離れないと。
けれどその誓いが、これ以上彼を苦しめ、傷つけるというのなら。
画家としての彼を、殺してしまうというのなら。
――そんなことは、もう、耐えられない。
(……ごめんなさい)
深く項垂れた途端、涙が零れ散る。
(ごめんなさい、紅月さま。私は……約束を、守れなかった)
震える声で、梔子はついに告げた。
「……わかり、ました。私、は……っ、私は……!」
しかし、その言葉は。
突如として響いた声によって遮られる。
「――その先は言わないでくれ。梔子」
「紅月さま……!?」
ずっと聞きたかった彼の声に、梔子は弾かれたように顔を上げた。
そこには、伊佐治に組み伏せられたまま、梔子に視線を向けてくる紅月の姿があった。
彼は一瞬、苦痛に顔を歪めたが、まもなく梔子に目をとめて微笑む。
大丈夫だ、と。
それはいつも彼が、梔子を安心させようと向けてくれた時の、あの優しい眼差しとまったく同じで――
「おや。目を覚まされたんですね、篁先生。まだ眠ってくださっていてよかったのに」
「卑劣な男だ。私の腕を盾に取って、彼女を脅しつけたのか」
「紅月さま。私は……、もうっ……!」
「梔子。……大丈夫だ。心配しないで」
言い切る紅月に興味を引かれたらしい。
伊佐治は暗い笑みを深めながら、紅月に尋ねる。
「へぇ……何が大丈夫なのですかな。篁先生、あなたが目を覚ましたところで状況は何も変わらない。先生はただ、愛しい女性が俺の手に渡るのを、ただ指をくわえて見ているほかないのですよ」
「さて、それはどうだろうね。事は、そう容易く運ぶだろうか。私も彼女も、貴様の指図になど、従う気はさらさらないのに?」
「ほぉ……この状況で、まだ強がりを申しますか。懲りないお方だ。篁先生。もはやあなたにできることなど、何一つないのですよ」
「何一つない? ……いいや。今のこの状況でも、できることはただ一つだけ残っている。……最上殿。今から貴殿には、報いを受けていただこう。貴様は私の妻を傷つけ、苦しめ、彼女の自由を力尽くで奪おうとした。――その報いをね」
「何を……。……まさか」
不敵な笑みを見せ、はっきりと言い切った紅月に。
まもなく伊佐治は、紅月がしようとしていることを理解したらしい。
けれどもう、すべては遅かった。
彼の考えを察した梔子は、声の限りに叫んだ。
「やめて……っ、紅月さま、お願いです! どうかやめてください!」
「梔子」
紅月は、笑っていた。
彼の瞳には、一片の迷いすらない。
「……愛しているよ」
そう、告げて。
自らの手に突きつけられた鋭利な刃を、紅月は力のままに握りしめた。
梔子が、最上の命令に従わなくてもすむように。
彼は自ら、利き手を深く傷つけたのだ。
「な……」
彼の手から泉のように流れ出る血の、その赤さに。
堪えることはできなかった。
腹の底からせり上がってくる戦慄が、慟哭が、絶望が、喉を突き破って奔流のように溢れ出す。
「い、や……嫌、嫌ああああああああっ――――!!」
伊佐治がほんの一瞬気を抜いた隙に、紅月は刃を強く握ったまま起き上がり、伊佐治を突き飛ばしていた。
奪い取った短刀の柄を左手に持ち替え、彼は鬼気迫る表情で伊佐治に詰め寄る。
掴み上げた伊佐治の首筋に血濡れた短刀を突きつけるその姿は、凄絶なまでに恐ろしく。
「妻を、放せ……!」
「ああ、わかった。わかったよ。嫌だなあ、たかが小娘一人じゃないか。そ、そんなに怒ることはないだろう? だからさ、先生、そろそろ落ち着いて。とにかく、この手を放し――」
一転して命を狙われたことに恐れを成したか。
伊佐治はぶるぶると震え、冷や汗を浮かべ始める。
しかし紅月が短刀を握る手を緩めることはなかった。
その剣幕に、圧されたか。
「ひぃっ」
青ざめた伊佐治が、短く悲鳴を上げる。
部屋の外から、けたたましい音が聞こえてくる。
大勢の人間が一気に押しかけてくるような音だ。
勢いよく扉が開け放たれ、その向こうから現れたのはサーベルを装備した警官達だった。
「警察だ、そこを動くな!」
それからは、あっという間の出来事だった。
瞬く間に、警官達は仕置き部屋にいた人間を一人残らず捕まえていく。
それは、伊佐治の部下と思しき男達ばかりではない。
「何よっ……! 放して、放しなさいっ! 私は八條伯爵家の娘なのよ! あなた達、こんなことをしていったいどうなると思って――!?」
「黙れ! 八條兼時、ならびにその妻子、弥生子、鞠花! あなた方の身柄を拘束させていただく」
鞠花達もまた、警官達に手を縛られ、次々と連行されていく。
「梔子さん! 紅月!」
警官達の後から駆けつけたらしい。
聞こえてきたのは、静貴の声だった。
「静貴さま……!」
「今、縄をほどく! 少し待っていてくれ!」
「いいえ……! 私より、紅月さまが……っ、紅月さまが……!」
伊佐治達が連行されていったのを見届け、紅月は床の上に倒れ伏していた。
彼の身体からは今も血が流れ出し、床に染みを広げている。
縄が取り去られ、手足の自由を取り戻すと、梔子はすぐに紅月のもとへ走り寄った。
抱き起こすと、彼は再び目を閉ざしている。
血飛沫を浴びたその面差しはもはや、死を間近にした人間のそれのように青白く。
……死。
脳裏によぎったその単語に、梔子は泣き叫ばずにはいられなかった。
「紅月さま……! 起きて……。お願いです、目を覚ましてください……紅月さま……!!」
「…………。くち、なし……?」
「…………っ!」
やっと、紅月が言葉を返してくれた。
彼は薄く目を開くと、怪我をしていない方の手を梔子の方へと伸ばしてくる。
その手をすがるように握りしめると、こんな時でも、彼が真っ先に口にしたのは梔子を案じる言葉だった。
「……無事……だった、かい……? ……私は、今度こそ……貴女を、守れた、のかな……?」
「……はい」
身体が熱い。喉が熱い。
熱くて、熱くてたまらない。
ぽろぽろととめどなく溢れ出てくる涙が、頬を伝って紅月の顔まで濡らしていく。
「はい。私は、無事です。何ともありません。紅月さま、あなたが……守ってくださったから……!」
「そう……か」
紅月は微笑んでいた。
見たこともないほど、優しく、安らかで、満ち足りた笑顔を、彼は浮かべて。
「……そうか。よかった……、よかっ……、た」
「……紅月さま……?」
嘘だ。
……嫌だ。
眼前で起きていることが、信じられない。
紅月の瞳がゆっくりと閉ざされていく。
彼は長く、長く、息を吐いて。
梔子の手を握り返してくれていた手の力が、一気に弱まっていく。
「あ……」
必死につなぎとめるように、梔子は紅月の手を強く強く握りしめた。
それでも、彼はもう、何も答えてくれない。
「あ……あ、ああ……っ」
押し寄せる絶望に、全身の震えが止まらない。
動かなくなった紅月の身体を掻き抱き、梔子は絶叫した。
「嫌です……。こんなの、嘘です。起きてください……お願い、起きて……。私を、一人にしないで……。置いていかないでください、紅月さま――……っ!!」