十五.私はもう屈しない ―5
(……紅月さまが、教えてくださった)
――梔子。それが、この花の名だよ。
周囲を不快にする化け物なんかじゃない。
初夏、美しく花開き、甘やかな香りで人を癒やす、梔子の花のように。
梔子は、喜びや幸せをくれる存在だと。
そう言って、彼は梔子の存在を求めてくれた。
だから――ここで、あきらめるわけにはいかない。
梔子は視線を上げ、はっきりと答えた。
「……その話は、お受けできません」
「なっ……!」
まさか、梔子がきっぱりと断るとは思わなかったのだろうか。
目を見開き、声を上げたのは鞠花だった。
「口無し、お前……自分が何を言っているか、わかっているの!? お前が最上さまの求婚を断れば、この家は潰れるのよ!?」
「…………!」
その言葉で、ようやく今置かれている状況が理解できた。
――最上伊佐治。
梔子に惚れ込んだこの男は、八條家に取引を持ちかけたのだ。
梔子を花嫁としてもらい受ける見返りに、没落寸前の八條家を援助する。
おそらくは、そんな内容の取引を。
だから鞠花達は、今になって梔子を八條家に連れ戻した。
紅月との婚約を破棄し、最上伊佐治の花嫁となれ。
そう、梔子に命じるために。
……だったら、なおさら。
なおさら、従うことなど、できるはずがなかった。
ついに痺れを切らしたのだろう。
伊佐治の前に出て、鞠花が胸ぐらを掴み上げてくる。
「…………っ!」
「お前に断る権利などないのよ、口無し! お前は篁さまとは離縁して、最上さまと婚約を結ぶの! 私達に従えないとでも――」
「いいえ。これから先もずっと……私の夫は、あの方だけ。紅月さま、ただ一人です」
「は……?」
こんな弱々しい声では、だめだ。
どんなに打たれようと、罵倒されようと、踏みにじられようと。
……もう、この人達には屈しない。
「お断りします。私は、約束したのです。これからもずっと、あの方のおそばを決して離れないと! もう、二度と……私は、あなた達の言うことになど従いません!」
紅月のもとに帰るためなら、耐えてみせる。
どんなに恐ろしい苦痛にも、屈辱にも。
――そう、思っていたのに。
「……はは」
その瞬間。
「ははははは、はは、ははは、ははははははははっ……!!」
仕置き部屋に響き渡ったのは、天井を突き破らんばかりの高笑い。
唖然として立ち尽くす八條家の面々の前で、最上伊佐治は高らかに笑っていた。
梔子はただただ、伊佐治を凝視することしかできない。
伊佐治は手を叩きながら、いつまでも笑っていた。
「ああ……、はははっ! いいですねえ、梔子さん! 俺はあなたみたいに意志の強い女性が大好きなんですよ。ますますあなたが欲しくなった。……その美しい顔が絶望に歪むところを、見てみたくてたまらない」
「…………!?」
「梔子さん。あなたは相当にあの先生に心奪われているようだ。ならば今、会わせて差し上げましょう。……お前達、もういいぞ。中に篁先生をお連れしろ」
がらっと勢いよく扉が開いて。
その向こうに見たものに、梔子はたまらずひゅっと息を吸い込んだ。
血の気が引き、身体が一気に冷たくなる。
口から零れ出たのは、ほとんど吐息に近い声だった。
「…………。紅月、さま……?」
「連れてきましたぜ、旦那。こいつ、さんざん手こずらせてくれやがって」
仕置き部屋に漂い始めたのは、濃密な血臭。
(あ……あ、ああ……あ)
床に投げ出されるようにして倒れたその人物の姿に――傷だらけになり、固く目を閉ざした紅月を前に、梔子は理性が弾け飛ぶ音を聞いた。
「紅月さま――……っ!!」
なぜ、ここに、彼が。
なぜ、どうして、こんな姿に。
何度も執拗に殴られ、打たれ、暴行を受けたのか。
梔子の前に倒れ伏す紅月は、全身に血を滲ませ、ぼろぼろの姿になっていた。
気を抜けば、倒れそうになる。
意識を手放してしまいたくなる。
それでも必死に気を保って、梔子は伊佐治を睨みつけた。
「な……にを。あなたは、紅月さまにいったい何をしたのですか!?」
「安心してください。命までは取っていませんよ。さすがに殺してしまっては後が面倒なのでね。ただ、まあ……死なないぎりぎりのところまではやりますよ。それもこれも、すべてあなたを手に入れるためですから」
「今すぐにこの縄を解いてください! それ以上、紅月さまに触らないで!」
力いっぱい手足に力を入れるが、縄はびくともしなかった。
今すぐ、紅月のところに行きたい。
命までは取っていない、と伊佐治は言った。
けれど紅月の姿は、命があるのが不思議なほどにひどい有様だ。
目を閉ざしていて、微動だにすることはない。
今すぐに、彼が生きていることを確かめたい。手当がしたい。
そうでなければ、今にも気が狂ってしまいそうだというのに――