十五.私はもう屈しない ―4
「なぜ……なぜ、私を……。ここへ、連れ戻したのですか……?」
「その話なら、もうじきここへ来られるお方が説明くださる。お前の馬鹿な頭にも理解できるようにな。……だが、その前に」
兼時はそう答えると、壁際へと歩いていった。
手に取ったのは、乾いた血がこびりついた竹の棒だ。
「…………!」
一瞬にして、全身が恐怖に支配された。
兼時は憤然とした歩調で近づいてくると、手に持った竹の棒を、梔子に向けて一気に振り下ろす。
「ああぁっ!」
爆ぜるような痛みに、たまらず悲鳴を上げずにはいられなかった。
兼時は恐ろしい形相で、何度も棒を振りかぶってくる。
「貴様だ……貴様のせいで、この家がどれほど物笑いの種になったと思っている!? 山姥の分際で、さんざん虚仮にしおって――!」
痛い。
痛い、痛い、痛い。
「お……やめ、くださ……っ」
「黙れ! この化け物が!」
目に涙が滲んだ。
痛くて、痛くてたまらない。
憎悪に目を血走らせた兼時は、一切の容赦をしなかった。
ほんの数分のうちに、梔子の身体はかつてのように、傷だらけになっていく。
気づけば打擲は止んでいた。
力任せに棒をふるい続け、疲労がたまったらしい。
兼時は棒を支えに立つと、こめかみからだらだらと汗を流している。
今にも気を失ってしまいそうなほどの痛みの中で。
やがて梔子が思い浮かべてしまったのは、藤川邸にいるはずの彼の名だった。
(……紅月さま)
梔子がいなくなったと知って、紅月はどうしているだろう。
脳裏によぎったのは、彼が伝えてきた言葉だった。
――ここにいて。ずっと、そばに……もう二度と、私のそばを、離れないで。
ずっと、紅月のそばにいる。
もう絶対に、彼のそばを離れたりはしないと。
梔子はそう、紅月の前で誓ったばかりだったのに……
わずかに疲れが癒えたのだろうか。
兼時が再び、棒を握り直したのがわかった。
(このまま……、私は)
終わるのだろうか。
もう二度と、紅月に会うことができないまま――
また、棒が迫ってくる。梔子の血に濡れた棒が。
来たるべき痛みに備えて、ぎゅっと目をつぶる。
……やがて。
聞こえてきたのは、棒が梔子を叩きのめす音では、なく。
「……困りますねえ、兼時殿。こんな勝手な真似をされちゃあ」
それは、聞き覚えのない声だった。
こわごわと目を開けると、視界に飛び込んできたのは、兼時の腕を掴み上げる大男の姿。
「も、最上くん……」
「兼時殿。貴殿は下がっていていただけますかな。俺はこれから、梔子さんと話さなければいけないのでね」
最上と呼ばれた男は兼時を押しのけると、屈んで梔子に声をかけてくる。
大仰に哀れむような表情を浮かべる一方、梔子を拘束する縄を解こうとはしない。
「ああ、可哀想に。こんなにも傷だらけになって……すぐに手当をして差し上げましょう。ですがその前に、梔子さん、あなたにはとても大切なお話があるのですよ」
「…………」
大切な話。
兼時が最上と呼んだその男は、見知らぬ人物だった。
梔子に何の話があるのかはわからない。
けれど、梔子をこんな強引なやり方で八條家に連れ戻した上での話だ。
それがいい話ではないことは、聞く前からわかりきっていた。
嫌な予感がする。
とても、とても、嫌な予感が。
やがて最上は、梔子の顎をとらえ、野卑な笑みを浮かべて言った。
「お美しい梔子さん。あなたには、俺の花嫁になっていただきたいのですよ」
「…………!」
背筋がぞっと凍りつく音を聞いた。
この人は、いったい何を言っているのだろう。
にこにこと笑って、最上は言葉を重ねてくる。
「いや、名も告げずに失礼。俺は最上伊佐治と申しましてね。会社をいくつか経営しているんですよ。実は俺、あなたに一目惚れをしてしまいましてね……。それで、こうしてあなたに求婚しているという次第です。どうですかね、梔子さん。受け入れてくださいますかな。なに、こう見えて俺は裕福でしてね。この手を取っていただけるんなら、生涯、暮らしに困らせることはしないとお約束しますよ」
呆然としたまま何も答えられずにいると、追い打ちをかけてきたのは鞠花だった。
鞠花は最上の後ろに立ち、梔子を鋭く睨めつけてくる。
「ねえ、お前。何とか言ったらどうなの? お前のような女に、最上さまが結婚を申し込んでいらっしゃるのよ。当然、お断りするだなんて言わないでしょうね」
「わ、たし……は」
やっと、声が出た。
……紅月と出会う前の梔子だったなら、きっと。
最上の申し出に、もうとっくに頷いていた。
逆らうことは許されない。
何かを得たいと思うことも。自分の意思を持つことも。
だって梔子は、口無しなのだから。
けれど。