表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
132/161

十五.私はもう屈しない ―3


          *


それは、真冬の寒い朝だった。

梔子はその日も、まだ暗いうちから寝床を出て、屋敷の掃除を始めていた。


ほんのわずかな朝焼けの光を頼りに、霜の張った窓を雑巾で拭っていく。

凍った窓を拭くその手は霜焼けとあかぎれだらけで、傷のないところを見つける方が難しいほどだ。


薄闇の中で、吐き出す息が白くけぶる。


(終わらせ……ないと。皆さまが、起き出す前に……)


使用人達が目を覚ます前に窓を拭き終えていなければ、梔子を待つのは折檻だ。


(急がなくては……)


窓を拭いて。食事の下ごしらえをして。

けれど、どんなに身を粉にして働いても、梔子は愚図だからどうしても失敗してしまう。


「またお前なの、口無し! 毎日毎日、お前は何の役にも立たないねぇ!」

「申し訳、ございません」


ずぶ濡れになった廊下に額ずいて、許しを請う。

近くには空っぽになった桶が転がっている。


梔子は廊下の水拭きをしていた。

けれど、水をためた桶を置く位置が悪かったようで、他の女中が足を引っかけて倒してしまったのだ。


他の使用人達が通りかかるたびに、梔子を見下ろしてくすくすと笑っていく。


……桶は、わざとひっくり倒されたのかもしれない。

けれど、そんなのはいつものことだ。

言い返したところで打たれるだけ。


だからその日も、梔子は床に額を擦りつけてひたすらに謝罪する。


誰かが呼んできたのだろうか。

やがて頭上に聞こえてきたのは、鞠花の声だった。


「あら、お前……またみんなに迷惑をかけているのねえ」

「聞いてくださいよ、お嬢さま! この汚い廊下、誰がやったとお思いになります?」


いつの間にか周囲には人だかりができていて、廊下を囲んでいる。

皆、梔子が罰を受けるのを見物するため、集まってきたのだろう。


「……そう。話はよくわかったわ。出来の悪い子には罰を与えないといけないわよね。顔を上げなさい、口無し?」


ここで顔を上げれば、打たれるだけ。何度も、何度も。

それでも、逆らうことなど梔子にできるはずもなく。

勢いよく打たれ、水浸しの廊下の上に崩れ落ちる。


倒れ伏した梔子にかけられたのは、桶の中に残っていたらしい冷水だった。

真冬の冷えた水を浴び、肌は焼けただれたようにひどく痛む。


「申し訳……ございません」

「は? 何言ってるの、この山姥。何も聞こえないんだけど」

「申し訳ございません。……申し訳ございません」


廊下中に響き渡るのは高笑いだ。

どこにも、梔子に味方してくれる人なんていない。


蔑まれ、あざ笑われ、踏みにじられ。

これからもずっと、永遠に。

梔子は死ぬまで、耐え忍んで生きていくしかないのだと思っていた。


……だって私は、化け物だから。

何もかも、愚図で、役立たずで、皆を不快にさせてしまう自分が悪いのだから――




ふいに光を感じた気がして、梔子は瞼を震わせた。


(今のは、夢……?)


目を覚ましてようやく、今まで見ていたのは夢だったのだと気づく。


八條家で虐げられていた頃の夢。

紅月とともに暮らすようになってからも、幾度となく梔子を苛んできた夢だ。


……最近は、ほとんど見なくなっていたのに。

思えば、ここ数か月。一度も見ることがなかった悪夢だ。


それなのに、なぜ今、梔子はかつての日々を思い出させる夢を見てしまったのか――


霞がかっていた視界がはっきりとした途端、全身が総毛立った。

心臓がぎゅっと竦み上がり、壊れそうなほどに激しく脈打つ。


この場所を、梔子は知っている。


しみだらけの壁に立てかけられた竹の棒。

無造作に引っかけられた、身体を拘束するための荒縄。


ここはかつて、何度も、何度も梔子が放り込まれた、八條家の――


「やっと起きたのね、口無し。まったく、手間をかけさせてくれたわねえ」

「…………!」


こうして顔を合わせるのは、もう何か月ぶりになるだろう。


声の聞こえた方にいたのは、兼時、弥生子、そして鞠花。

かつて梔子を虐げてきた、八條家の面々だった。


「どう……して……?」


いったいなぜ、梔子は八條家にいるのか。

今さら梔子に、いったい何の用があるというのか――


今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。

けれどまもなく、嫌でも自分が置かれている状況を思い知らされる。


……手足を、縛り上げられている。

どうしてかはわからない。

ただ、藤川邸から梔子をさらい、連れ出したのが八條家の人々なのだということだけは、この上もないほど理解できた。


凍てついた部屋だ。この仕置部屋はいつもそうだった。

ほとんど日が差さないから、真冬ともなると凍えるように寒い。

寒さのせいで、恐怖のせいで、歯の根が合わない。

意思の力だけではどうしようもないほどに、手足が震える。


それでも。

尋ねなければならないと思った。


苦い味のする唾を飲み込み、痙攣する喉に力を込めて、梔子は言った。



評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ