十五.私はもう屈しない ―3
*
それは、真冬の寒い朝だった。
梔子はその日も、まだ暗いうちから寝床を出て、屋敷の掃除を始めていた。
ほんのわずかな朝焼けの光を頼りに、霜の張った窓を雑巾で拭っていく。
凍った窓を拭くその手は霜焼けとあかぎれだらけで、傷のないところを見つける方が難しいほどだ。
薄闇の中で、吐き出す息が白くけぶる。
(終わらせ……ないと。皆さまが、起き出す前に……)
使用人達が目を覚ます前に窓を拭き終えていなければ、梔子を待つのは折檻だ。
(急がなくては……)
窓を拭いて。食事の下ごしらえをして。
けれど、どんなに身を粉にして働いても、梔子は愚図だからどうしても失敗してしまう。
「またお前なの、口無し! 毎日毎日、お前は何の役にも立たないねぇ!」
「申し訳、ございません」
ずぶ濡れになった廊下に額ずいて、許しを請う。
近くには空っぽになった桶が転がっている。
梔子は廊下の水拭きをしていた。
けれど、水をためた桶を置く位置が悪かったようで、他の女中が足を引っかけて倒してしまったのだ。
他の使用人達が通りかかるたびに、梔子を見下ろしてくすくすと笑っていく。
……桶は、わざとひっくり倒されたのかもしれない。
けれど、そんなのはいつものことだ。
言い返したところで打たれるだけ。
だからその日も、梔子は床に額を擦りつけてひたすらに謝罪する。
誰かが呼んできたのだろうか。
やがて頭上に聞こえてきたのは、鞠花の声だった。
「あら、お前……またみんなに迷惑をかけているのねえ」
「聞いてくださいよ、お嬢さま! この汚い廊下、誰がやったとお思いになります?」
いつの間にか周囲には人だかりができていて、廊下を囲んでいる。
皆、梔子が罰を受けるのを見物するため、集まってきたのだろう。
「……そう。話はよくわかったわ。出来の悪い子には罰を与えないといけないわよね。顔を上げなさい、口無し?」
ここで顔を上げれば、打たれるだけ。何度も、何度も。
それでも、逆らうことなど梔子にできるはずもなく。
勢いよく打たれ、水浸しの廊下の上に崩れ落ちる。
倒れ伏した梔子にかけられたのは、桶の中に残っていたらしい冷水だった。
真冬の冷えた水を浴び、肌は焼けただれたようにひどく痛む。
「申し訳……ございません」
「は? 何言ってるの、この山姥。何も聞こえないんだけど」
「申し訳ございません。……申し訳ございません」
廊下中に響き渡るのは高笑いだ。
どこにも、梔子に味方してくれる人なんていない。
蔑まれ、あざ笑われ、踏みにじられ。
これからもずっと、永遠に。
梔子は死ぬまで、耐え忍んで生きていくしかないのだと思っていた。
……だって私は、化け物だから。
何もかも、愚図で、役立たずで、皆を不快にさせてしまう自分が悪いのだから――
ふいに光を感じた気がして、梔子は瞼を震わせた。
(今のは、夢……?)
目を覚ましてようやく、今まで見ていたのは夢だったのだと気づく。
八條家で虐げられていた頃の夢。
紅月とともに暮らすようになってからも、幾度となく梔子を苛んできた夢だ。
……最近は、ほとんど見なくなっていたのに。
思えば、ここ数か月。一度も見ることがなかった悪夢だ。
それなのに、なぜ今、梔子はかつての日々を思い出させる夢を見てしまったのか――
霞がかっていた視界がはっきりとした途端、全身が総毛立った。
心臓がぎゅっと竦み上がり、壊れそうなほどに激しく脈打つ。
この場所を、梔子は知っている。
しみだらけの壁に立てかけられた竹の棒。
無造作に引っかけられた、身体を拘束するための荒縄。
ここはかつて、何度も、何度も梔子が放り込まれた、八條家の――
「やっと起きたのね、口無し。まったく、手間をかけさせてくれたわねえ」
「…………!」
こうして顔を合わせるのは、もう何か月ぶりになるだろう。
声の聞こえた方にいたのは、兼時、弥生子、そして鞠花。
かつて梔子を虐げてきた、八條家の面々だった。
「どう……して……?」
いったいなぜ、梔子は八條家にいるのか。
今さら梔子に、いったい何の用があるというのか――
今すぐに逃げ出したい衝動に駆られる。
けれどまもなく、嫌でも自分が置かれている状況を思い知らされる。
……手足を、縛り上げられている。
どうしてかはわからない。
ただ、藤川邸から梔子をさらい、連れ出したのが八條家の人々なのだということだけは、この上もないほど理解できた。
凍てついた部屋だ。この仕置部屋はいつもそうだった。
ほとんど日が差さないから、真冬ともなると凍えるように寒い。
寒さのせいで、恐怖のせいで、歯の根が合わない。
意思の力だけではどうしようもないほどに、手足が震える。
それでも。
尋ねなければならないと思った。
苦い味のする唾を飲み込み、痙攣する喉に力を込めて、梔子は言った。