十五.私はもう屈しない ―2
*
瞼の裏が、ぼんやりと明るい。
(朝、か……?)
相変わらず全身に怠さを感じながら、紅月はゆっくりと目を開けた。
熱と眠気のせいで、意識はぼうっとしている。
(梔子は……)
藤川邸で療養するようになってからというもの。
梔子は紅月が目を覚ますとすぐに気づき、声をかけてくれていた。
どうやら彼女は、つきっきりで紅月の面倒を見てくれているようだ。
ほとんど眠りの中にいるような状態でも、梔子がそばにいることはわかっていた。
彼女はずっと手を握ってくれていた。
紅月の身体に滲んだ汗をこまめに拭き、水を飲ませ。
怠さや傷の痛みに苦しんでいると、苦痛が和らぐまで身体をさすってくれた。
ここに来てから、どれだけ彼女の存在に心を救われてきただろう。
けれど、今。
あたりを見渡す。
部屋のどこにも、梔子の姿が見当たらない。
はじめは、何か用事があって部屋の外に出て行ったのだろうかと思った。
しばらくの間、待ってみる。
しかしそれでも、彼女が戻ってくることはなく。
……おかしい、と思った。
なぜなのかは、わからない。
ひとたび芽吹いた悪い予感は瞬く間に膨れ上がり、強烈さを増していく。
扉を叩く音がした。
けれど部屋に入ってきたのは、梔子ではなく。
「静貴……」
「起きていたか、紅月。今朝の体調はどうだ? 念のため、午前中にもう一度医者を呼ぶことになっている。その時に気がかりなことは相談を――」
今は、とてもそれどころではない。
静貴の言葉を遮り、紅月は焦りに駆り立てられながら尋ねた。
「静貴。お前は、梔子の姿を見ていないか?」
どうか、この胸騒ぎが、ただの気のせいであってくれれば。
しかしそんな願いは、あっけなく打ち砕かれる。
静貴は首を傾げ、答える。
「梔子さん……? いや、僕は見ていないが」
「……彼女がいない」
「何……?」
まもなく静貴は異変に気づいたらしい。
梔子が使っていたベッドに触れ、目を見開く。
「……冷えている。それに、これではまるで……」
枕の位置は大きく傾き、掛け布団は荒々しくめくられて。
それは明らかに、何かが起こったことを窺わせる状況で――
「すぐに捜させる! きみはそこで待っていたまえ!」
静貴はそう言い放つと、血相を変えて部屋を出て行った。
待っていろと静貴は言った。
しかしじっと待っていることなど、できるはずもない。
身体がふらつくのも構わず、ベッドから起き上がる。
すると、かさりと音を立て、何かが床に落ちた。
見覚えのない紙切れだ。
(これは……)
折りたたまれた紙切れを広げた、その瞬間。
全身の血が沸騰したかのようだった。
何かを考える余裕など、あるはずがない。
「お待ちください、篁さま!」
部屋を飛び出して走る紅月を、途中で何人もの使用人が止めようとしてきた。
けれど、落ち着いて事情を説明している暇などない。
「邪魔だ、どいてくれ!」
使用人達を押しのけ、向かうのは邸の外。
紅月の車が駐めてある場所だ。
車に乗り込み、急発進させる。
車内に血臭が広がったのは、藤川邸の広々とした敷地を抜け、道に出てまもなくのことだった。
どうやら、急に激しい動きをしたことで傷が開いてしまったようだ。
けれどむろん、傷の痛みなど、少しも気にかかることはない。
(……またなのか)
ぎりぎりと、爪が食い込むほどにハンドルを握りしめる。
煮えくり返るほどの憤激で、怨嗟で、憎悪で、全身がはち切れそうになる。
(また、お前達は……彼女を、地獄の底まで引きずり込もうというのか――!?)
途中で誰かを轢かなかったのが奇跡と思えるほどの速度で車を走らせ、紅月が向かったのは見慣れた屋敷だった。
来客用の洋館と、純和風の屋敷。
かつて紅月が過ごしていた、篁家の邸宅を思わせる造り。
もうここに来ることはないと思っていた。
その建物こそ、八條家の人々が住まう屋敷だった。
紅月がこの場所を訪れた目的は、ただ一つ。
梔子を助け出すためだ。
……藤川邸の客室。
紅月の目につくよう、残されていた紙切れ。
そこに挟まれていたのは、見間違えるはずもない、彼女の銀色の髪の一房だった。
そして紙切れに書かれていたのは、梔子を無傷で返してほしければ誰にも知らせずに交渉の席につくよう命じる内容。
その文末に捺されていたのは、梔子を極限まで虐げ、苦しめ続けた、八條家を示す印だったのだから――
紅月の身から立ち昇る殺気のためか。
あるいは、腹に鮮血を滲ませた姿に恐れをなしたのか。
慌てて迎え出た使用人達は、悲鳴を上げながら道を空けていく。
やがて紅月の前に立ち塞がったのは、八條家当主の兼時でも、その妻子である弥生子や鞠花でもなく。
「おやおや。そちら、どなたですかな。見たところ、お怪我をなさっているようだ。早く手当をさせないと」
そこに立っていたのは、見知らぬ男だった。
巌のような体躯に、一目で舶来品とわかる最上級の洋装をまとっている。
やたらに目立つ金色をあしらった意匠の腕時計に、ベルト。磨き抜かれた靴。
(成金か……)
身分制度が廃されてからというもの、庶民の身分から財を成し、世間に羽振りを利かせる人間が増えた。
紅月の得意客にもそういう人々はいるから、わかる。
彼らの中には、誰の目にも高価な品とわかるものを、これ見よがしに身につけたがる者が多かった。
しかし、この男はいったい何者なのか。
なぜ今、この屋敷の主も同然に、紅月の行く手に立ちはだかっているのか――
ただ、一つだけわかるのは。
「……? どうなされましたかな。失礼ですが、お名前をちょうだいしても……?」
男は、薄笑いを浮かべていた。
大柄な男だ。長身の紅月でさえ見下ろされてしまうほどに。
眼力は強く、鋭く、ただそこに立っているだけで他者をねじ伏せるような圧がある。
……この男だ。
天啓が下ったかのように、紅月は理解した。
この男こそが、彼女を――
「……篁紅月」
「おお! その名はよく存じておりますよ! 貴殿があの篁大先生か! なるほど、そのたぐいまれなる美貌……噂どおり、いや、それ以上のお方だ。血濡れた姿もまた恐ろしく美しい……」
頭の中で、何かが弾け飛ぶ音がした。
気づけば紅月はその男の胸ぐらを掴み上げ、地を這うような声で問い質していた。
「黙れ。貴様だとわかっている。梔子を……私の妻を連れ去ったのは貴様だろう!?」
「おおっと。いったい何を仰いますかな。まあまあ、ひとまず落ち着いて。この手を放していただけますかな。話なら、そのお怪我の手当が済み次第いくらでもお伺いしますのでね」
「とぼけるな! 今すぐに彼女を」
「おや、聞こえなかったのかな。……放せって言ってるんだよ。ね、篁先生?」
どっ、と。
重い打撃音が聞こえたかと思えば、突如、視界が暗転した。
遅れて、頭の後ろに鮮烈な痛みが走る。
ぐらぐらと目眩がした。
もはや立っていることすらできず、紅月は崩れ落ちるようにしてその場に倒れる。
目を閉ざす直前。
最後に見たのは、鉄の棒を持ち、紅月を見下ろしてにやにやと笑う男だった。
紅月を待ち構えていた男とは、別の人間だ。
一見しただけで闇に生きる者だとわかる、粗野で危険な風貌の――
視界も聴覚も、急速に暗闇に塗り込められていく。
「お連れしろ。……せっかくご足労いただいたんだ。存分に歓待して差し上げなければ」
そこで、紅月の意識は完全に途絶えた。