十五.私はもう屈しない ―1
夜になると、部屋には静貴が顔を出してきた。
眠っている紅月を起こさないよう、彼は幾分ひそめた声で梔子に尋ねてくる。
「梔子さん。今日はきみのところに、警察の人間が聴取に来ただろう。特に何事もなかったかね?」
「はい。いろいろと尋ねられましたが、特に問題もなく終わったと思います」
「ならばよかった。後は早いところ、警察が犯人を捕まえてくれるよう祈るほかないな……」
警察から人が来ることは、静貴から前もって知らされていた。
その時だけ紅月にも起きてもらい、二人で聴取を受け、襲われた時の状況や去っていった人物の特徴などを答えた。
静貴はほっと一息つくと、ベッドで眠る紅月を一瞥して言った。
「見たところよく眠っているようだが……紅月の具合は大丈夫そうかね。医者によれば心配はないそうだが、薬を飲んでも熱や痛みが収まらなければ知らせてほしいと言われていたものでね」
静貴の視線をたどり、梔子も紅月を見つめた。
飲んでもらった薬が効いてきたおかげか、彼は苦しそうな表情を見せることもなく眠っている。
昼に比べれば、顔色もよくなっているように見えた。
「今は、落ち着いていらっしゃいますが……薬の効き目が切れてくると、どうしても傷が痛むのだと仰っていました。食事も、ほんの少ししか口に入れられないようでしたから……」
「そうだな。もう一度、医者に診てもらった方がいいかもしれん。明日の早いうちに来てもらえるように連絡しておこう。そうすればきみも安心できるだろう」
「はい。ありがとうございます、静貴さま」
「さて、今日は一日ずっと看病を続けて、疲れたことだろう。紅月のことは気がかりだろうが……奴は、ああ見えて身体は丈夫だ。できる限り、きみもゆっくり休むといい」
そう言って、静貴は部屋を出て行った。
その後まもなく使用人が訪ねてきて、風呂を使わせてくれるということだった。
厚意に甘えて温かな湯に浸かると、不安でこわばっていた身体がほぐれていくのを感じる。
とはいえ、やはり部屋にいる紅月のことが心配だった。
手早く入浴をすませて部屋に戻る。
彼が眠り込んだままでいるのを見て、ひとまず胸を撫で下ろした。
……今夜はもう、休もう。
部屋の明かりを消そうと、切替釦のある壁際へ足を向けた時だった。
部屋の外。扉のすぐそば。
ノックもないのに、誰かがそこにいるような気配がした。
「…………?」
誰だろう。静貴だろうか。
夜はもう更けていた。
使用人達も、ほとんどが彼らの寝起きするための別棟に引き上げているのか、藤川邸は昼間とは打って変わってしんと静まり返っている。
なぜだか、胸騒ぎがした。
紅月のそばに寄り、息を凝らして、食い入るように扉を凝視する。
けれど。
しばらく待ってみても、扉を叩かれることも、外から声がかかることもなかった。
(気のせい……だったのかしら)
気づけば心臓は早鐘を打つように拍動していた。
夜になり、風が出てきたのだろうか。
外から吹きつけてくる風で、時おり窓の軋む音がする。
……どうしてか、扉の外が気になって仕方がなかった。
背筋を冷や汗が伝っていくような心地がする。
それでも、一度確かめないことには、落ち着いて眠ることもできないと思った。
ここは藤川邸だ。
悪意を持って近づいてくる人間など、そもそも存在するはずがない。
そう自分に言い聞かせ、意を決して、扉の取っ手に手をかける――
そうして、ついに扉を開いた瞬間。
「―――……」
頬を撫でていったのは、冬の夜の冷えた空気だった。
扉の外には、誰もいなかった。
そこにはただ、明かりを消された暗い廊下があるだけ。
あたりを見回してみても、見える範囲には誰の姿も見受けられなかった。
……やはり、気のせいだった。
ただ、梔子は疲れていただけだ。
だからおそらく、廊下に隙間風が吹いたのを、誰かが扉の前に立った気配だと勘違いしたのだろう。
それがわかると、恐怖に竦んでいた身体の力が一気に抜けていくようだった。
……今度こそ、もう寝よう。
そうして、梔子は最後にもう一度、紅月が穏やかに眠りについているのを確認する。
それから明かりを消し、ベッドの中に潜り込んだ。
――異変が起きたのは、真夜中。
誰もが寝静まった頃のことだった。
誰かが、梔子の眠るベッドのそばに立った。
その気配で、梔子は目を覚ます。
(紅月さま……?)
何かあったのだろうか。
すぐに起き上がろうとして、しかし、
「――……!?」
口を封じられ、身体を上から強く押さえつけられて、一切の身動きができなくなる。
(何が、起こって……!?)
何者かが、梔子を襲っていた。
必死に振りほどこうと身体を捩るが、相手は男らしい。
抵抗すればするほど、相手は梔子の身体を押さえる力をいっそう強めてきた。
(紅月さまは……!?)
まさか、紅月も襲われているのだろうか。
隣のベッドで眠る彼は、今、どうなっているのだろう――?
けれど、それを確かめることはできなかった。
口に当てられている布から、つんとする苦い香気が鼻の奥まで這い上ってくる。
何もわからなくても、嗅いではいけないものだと本能的に感じる匂い。
頭の中に、急速に暗い靄が広がっていく。
(紅月、さま……)
霞み、揺らぐ視界の向こうに、眠る紅月の姿を最後に目にして。
梔子の意識は暗闇の底へと引きずり込まれていった。