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二.優しさといたわりと ―4


たどたどしいながらも、今、心の中にある言葉を精一杯、声に出して紡ぐ。


「梔子……」


やがて、紅月が浮かべたのは、屈託のない笑みだった。


「そうか。よかった……」



……美しい人。

それが、梔子が抱いていた篁紅月への印象だった。


あまりにも美しく、それゆえに他人を寄せつけない怜悧(れいり)さをも秘めているように思えていたのは、彼が兼時達に向けた眼差しが、今も梔子の目に焼きついているためだ。


『兼時殿。聞けば、あなた方はずいぶんと資金繰りに苦労していらっしゃるようだ。あなた方が彼女にしてきた仕打ちを思えば、結納の品など一切贈りたくはないが……これだけあれば、ご満足いただけるかな。だがその代わり、もう二度と彼女には関わらないでほしい』


あの舞踏会の夜から数日後のこと。


目録に記された金額に絶句する兼時。

そんな兼時に向けられた紅月の視線は、そばにいた梔子ですら畏怖を覚えるほど鋭く冷ややかなものだった。


『篁さま。お話、父から伺いましたわ。私の従妹……梔子と婚約なさりたいと。でも、あの子はその、こういう言い方ははばかられますけれど、見た目が悪いですし、ろくに人と話すこともできませんのよ。あんな子を妻にだなんて……』

『鞠花嬢。私は他でもない、あなたの従妹君を妻にすると決めたんだ。これ以上彼女を悪しざまに語るというなら、それは彼女と婚約を結んだ私の判断への侮辱(ぶじょく)とみなすが?』

『……! いいえ、そんなつもりでは……』


紅月を呼び止めた鞠花はびくりと震え、それ以上何を言うこともできずに引き下がっていた。



……それなのに。

今、梔子に接する紅月は、


(この方は……こんなふうに笑うのね)


目尻が下がって、心の底から嬉しそうな。

それは、褒められて喜ぶ無邪気な少年を思わせるような、そんな、純粋ささえも感じさせる笑み方だったのだ。


梔子に向けられるこの笑顔を見ていると、八條家で見た彼の一面は夢か幻だったのではないかとすら思えてくる。

あの日の真冬のように冷ややかな印象が、今の彼からは一切感じられなかったのだ。


……穏やかな食事の時間は、そうして過ぎていって。

空になった膳を片付けようとする紅月に、梔子は慌てて声を上げた。


「あ、あの、紅月さま。せめて、片付けは私にお任せいただけませんか」


紅月から教えてもらったわけではないけれど、昨日、今朝と過ごして、梔子は察していた。


この家には、使用人がいない。

紅月以外に住んでいる人もいないようだ。


彼は手を止めると、首を横に振って言う。


「環境が急に変わって、疲れているだろう。貴女はまだ休んでいなければ」

「いえ、そういうわけには……」


昨日から、何もかも紅月に任せきりだった。

梔子は客人ではないのだ。

これ以上彼に頼りきりになってしまったら、さすがに居たたまれなくなる。


食い下がった梔子に、しばらくして紅月はようやく折れてくれた。


「……わかったよ。ありがとう、梔子。それなら手伝いを頼もうか」


台所の流しで、紅月が皿を洗う。

彼は石鹸を泡立て、汚れ一つ残さず皿を洗い上げていった。


梔子に任されたのは、洗い終えた皿を籠から取り、布巾で水気を拭き取っていく仕事だ。


皿を拭きながらも、梔子はつい、紅月の手元に目を奪われずにいられなかった。


手際よく洗い物を進める姿からは、彼がこうした家事に慣れていることがはっきりとわかる。


改めて、思う。

やはり紅月は、変わった人だと。


だって、一家の大黒柱であるはずの人間が自ら家事を(にな)おうとするなど、梔子は聞いたことがない。

それどころか(ちまた)には、妻の家事に少しでも不手際があれば、罵声を浴びせ手を上げるような男さえいると聞く。


しばらくの間、迷った。

けれど思い切って、紅月に尋ねてみる。


「紅月さまは……」

「なんだい」

「いつも……ご自分で、身の回りのことをなさっていたのですか?」

「身の回りのこと?」


水切り籠の中に洗い終えた小鉢を入れながら、紅月は「ああ……」と声を上げた。

梔子の問いの理由に思い至ったらしい。


「自分でやるのに慣れているんだ。私は少し前まで外つ国に絵を学びに行っていたが、下宿先では自分の世話は自分でしなければならなかった。国に帰ってきてからは、遠出して描くことがたびたびあってね。よく家を空けるから、仕事がよほど立て込むようなことでもない限り、人を雇うこともなかったんだよ」


そうして二人で洗い物を終えると、紅月が梔子を呼び止めた。


「少し、ここで待っていてくれるかな」


そう言って洗い場を去った紅月は、薬箱を手にして戻ってくる。

彼が中から取り出したのは、薬瓶と包帯だ。


「あ、あの……?」

「手を出して。怪我をしているだろう。手当をしておかなければ」

「え……。い、いえっ! 大丈夫です、平気ですから……」


思わず遠慮の言葉を発すると、紅月は少し(とが)めるような口調で言った。


「そんなに痛々しい手をして何を言っているのかな。ほら、言うとおりにして」


そうしてじっと見つめられては、いつまでもためらってはいられなかった。


(汚い手なのに……)


長年にわたって虐げられたきたために、梔子の手は爪が割れて、つぶれた肉刺(まめ)やあかぎれだらけだ。

誰が見たって顔をしかめるような醜い手だと思う。

だから、紅月にはあまりこの手を見られたくなかったのに。


おそるおそる、広げた手を彼の前に出す。

恥ずかしくて、すぐにでも手を引っ込めてしまいたくなる。


そしてついに、緊張と恐れで小刻みに震える梔子の手に、紅月の手が触れた。

彼は瓶からすくい取った軟膏(なんこう)を、そっと梔子の手に塗り込んでいく。


水気のある軟膏に、乾いていたかさぶたの一部が溶けて、肌の上に赤く広がるのが見えた。


このままでは、紅月の綺麗な手が梔子の血で汚れてしまう。


梔子は慌てて声を上げたが、紅月は耳を貸そうとはしなかった。

彼は梔子の訴えなど軽く聞き流し、てきぱきと手当てを進めていく。


「も……もう、大丈夫です。紅月さまの手が、血で汚れてしまいますから」

「薬はしみないかい? 痛くなったら、すぐに言うんだよ」

「…………」


いたわりに満ちているが有無を言わせぬ声音に、それ以上は何も言えず黙り込むしかなかった。


梔子が羞恥に耐えている間にも、紅月は一つ一つの傷に丁寧に薬を塗り込んでいく。


「……貴女の手は、美しい手だよ」

「え……?」


それはまるで、梔子の胸中を見透かしたかのような。

思わず息を呑んで顔を上げれば、彼は再び口を開く。


「他の誰より懸命に働いてきた、綺麗な手だ。貴女がたとえどう思おうとも、貴女の手は綺麗だよ」


頬が熱くなるのを、梔子は感じた。

けれどもう、羞恥のせいではない。

胃の腑がきゅっと縮むまでに募っていたはずの恥じらいは、どこかに溶け消えていた。


「そ、んなこと……」

「ん?」

「そんなこと、言われたのは……、初めてです」

「そうかい? それなら、今まで貴女のまわりにいたのは、よほど見る目のない人間ばかりだったんだね」


そう言いながら、紅月は包帯を広げ、梔子の手に巻いていく。

ふわりと香った薬箱の匂いが、どこか懐かしく、優しかった。




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