十四.ここにいて ―9
「梔子……?」
「傷跡が……」
すると、紅月は「ああ」と納得したように言って、薄く笑った。
その笑みには、自嘲が滲んでいる。
「かつて、飛び降りて、骨を折って……手術をしてもらった時の傷だよ。医者からは……おそらく、一生消えない傷だと言われた」
「そんな……」
「すまないね。見苦しい身体だと、思っただろう。だから、貴女には……あまり、見せたくなかったのだけどね」
「……いいえ」
自分で自分を貶める紅月を、それ以上見ていられなかった。
無数の傷跡の中でも一番目につく、胸に刻みついた傷跡に触れる。
それから、その傷跡にそっと口づけた。
一度でやめたりはしない。
傷跡をたどるように、何度も、丹念に口づけていくと、やがて紅月が小さく声を漏らすのが聞こえた。
「……梔子。それは……罰の、つもりかい? 私が、また……謝ってしまったから」
「はい。でも、謝ったから、だけではありません。あなたがご自分のことを、見苦しいなどと仰るから」
ふいに思い出したのは、かつて紅月が梔子にくれた言葉だった。
――貴女がたとえどう思おうとも、貴女の手は綺麗だよ。
あの頃の、何もかもに傷つき疲れ果てていた梔子にとって、その言葉がどんなに嬉しかったか。
だから梔子も、彼に同じ言葉を返したいと思った。
「紅月さま。あなたのお身体は綺麗です。たとえあなたが、ご自分のことをどう思おうとも。この傷跡は、あなたが懸命に悩み、苦しみ、それでも生きてこられた証しではありませんか」
「…………」
紅月は何も言わなかった。
ただ、やがて彼は、耐えかねたように梔子を掻き抱いてくる。
まるで、必死に縋りつくかのような。
そんな荒々しさすら感じる抱擁に、梔子は慌てて声を上げた。
「紅月さま。だめです。傷口が開いてしまいますから」
「……そんなこと、知るものか。傷なんて、いくら開いたって構わない」
止めても無駄だった。
紅月はむしろ、ますます強く抱きしめてくる。
「……どうしたらいいか、わからないんだ」
これまでに聞いたことのないほど切実さのこもったその声に、心臓は痛いくらいに鼓動を打ち、瞬く間に心が掻き乱される。
「梔子。私は……どうしたらいい? 貴女が、愛おしくて……愛おしすぎて。貴女を、放せない。どうしたらいいかわからない。頭が……おかしくなってしまいそうなんだ」
「紅月、さま」
「ここにいて、梔子」
それは、息が止まってしまうほどに。
愛おしく、狂おしく、抗いがたい、懇願の言葉だった。
「……ここにいて。ずっと、そばに……もう二度と、私のそばを、離れないで」
*
桶の中に浸した手ぬぐいを絞って取り出す。
再び汗の滲み始めた額や首筋を拭うと、眠る紅月の表情は少しだけ安らかなものになった。
……今はとにかく、こうして休んでもらうしかない。
着替えを終えた後、紅月にはすぐにベッドに戻って休んでもらった。
それから数時間。
あれから紅月は、ほとんど目を覚ますことなく深く眠りこんでいた。
そろそろ外は日が落ちる。
夜を迎えて冷え込みが強まる前に、暖炉の薪を足しておいた方がいいかもしれない。
梔子は火が弱まり始めていた暖炉に向かうと、薪を数本追加した。
またもとのように赤々と炎が灯るのを確かめてから、紅月のもとに戻る。
それから、身体の熱に反して冷え切っている彼の手を、そっと包むように握りしめた。
「……紅月さま」
きっと、眠る彼の耳には、届いていないだろう。
それでも。
誓いを立てるように、梔子は告げた。
「お約束いたします。もう二度と……これから先、何があったとしても。私は、あなたのおそばを離れません。絶対に」
雪が降る。しんしんと降り積もる。
淡い夕暮れの光は、瞬く間に冬の夜の闇に溶けて消えていった。