十四.ここにいて ―8
「……いや、梔子。気持ちは、嬉しいが……大丈夫だよ。さすがに……そこまで貴女の世話になるわけには、いかない」
「紅月さま。でも」
「平気だ。そのくらいのことなら……貴女の手を煩わせるまでもない。着替えは、そこにある風呂敷の中かな。すまないが、貴女には少しだけ部屋を出てもらって……」
梔子が止めるよりも早く、紅月は起き上がり、ベッドの外に出て歩こうとする。
けれどまもなく、
「……っ」
傷が痛んだのか、目眩がしたのか。
紅月の身体がふらりと傾ぐ。
「紅月さま!」
とっさに手を伸ばし、その場に倒れそうになる彼を支えた。
熱を帯びた身体は濡れていて、吐息は不規則で苦しげだ。
「……、すまない……」
どうにかベッドの端に座ってもらうと、紅月は謝罪を口にした。
……まただ、と梔子は思った。
昨夜から、何か世話をされるたびに、彼は何度、梔子に対して謝ってきたことだろう。
そうすることに、迷いなどなかった。
紅月の隣に座り、彼の手の上に自分の手を重ねた。
それから、目を閉じて、謝罪を繰り返す彼の唇に口づける。
ただ触れ合わせるだけでは足りない。
今までに、彼が何度も梔子に教えてくれたやり方を真似て。
意を決して、薄く開いた彼の唇の奥へと、自分の舌を差し入れる。
よほど衝撃を受けたのか、それともやはり相当に具合が悪く、そんな余裕などないのか。
紅月は、梔子から仕掛けた口づけをただ受け入れるばかりだった。
いつもの彼ならば、ひとたび舌を触れ合わせたなら、何度も舌を絡ませてきて、気が遠くなるほど梔子を翻弄してくるというのに。
唇を離すのは、名残惜しかった。
けれど今の紅月は、こんなにも弱っている。
早く着替えて、休んでもらわなければ。
まだ驚きが冷めやらないらしい彼に、梔子はよく言い聞かせるように告げた。
「これは、罰です。紅月さま。その必要などないのに、あなたは何度も謝罪をなさるから。おわかりになりますよね」
「……梔子。貴女は……」
梔子を見つめる瞳が、揺らいだ。
何も言えずにいる紅月に、梔子は言葉を続ける。
「前に、あなたは私に言ってくださいました。妻が苦しんでいるのなら、看病をするのは夫として当然のことだと。ならば私も同じことです。妻として、あなたの看病をするのは当然のこと。あなたは、私にとって誰よりも大切な……旦那さま、ですから」
「…………」
「私は、あなたの妻です。ですから、私を……もっと、頼ってはいただけませんか?」
梔子の手の下で、紅月の手が震えた。
耳朶をかすめていったのは、かすかな笑い声。
泣き笑いにも似た表情を浮かべて、彼は言った。
「……本当に、負けてしまうな、貴女には。そんなことを言われたら、必死に虚勢を張っているのが、馬鹿らしくなってくるじゃないか」
梔子の手を乗せたまま、紅月の手が持ち上がる。
そのまま彼は、梔子の手の甲にそっと口づけた。
それが、彼の答えだった。
その後すぐに、梔子は藤川邸の使用人に声をかけ、手ぬぐいや湯を張った桶の用意を頼んだ。
待つ間、何の気なしに窓の外を見れば、また雪が降り始めていた。
昨日に引き続き、今日も冷え込みの強い一日になりそうだ。
それからまもなく、部屋に使用人が戻ってくる。
「お待たせしました。隣室に準備ができましたので、ご移動ください」
「わかりました。ありがとうございます」
手ぬぐいと桶は隣の部屋に用意してもらっていた。
紅月には、別室で着替えてもらう。
藤川邸の使用人が、その間にベッドのシーツの取り替えや、部屋の掃除をしてくれると申し出てくれたからだ。
「紅月さま。準備ができたそうです。お身体、起こさせていただきますね」
「……わかった」
ベッドで休んでいた紅月に手を貸して、起き上がってもらう。
梔子は横から彼を支え、隣の部屋に移動した。
隣室も客室らしく、梔子と紅月が使わせてもらっている部屋と同じ作りだ。
暖炉には赤々と火が燃え立ち、部屋は暖かくなっている。
湯気の立つ桶が、ソファのそばに用意されてあった。
梔子は着替えや包帯を手の届くところに置くと、ソファに座って待っていた紅月に向き直る。
「それでは、始めますね」
「ああ……」
寝間着を脱いでもらうと、包帯に覆われた上半身があらわになった。
傷を刺激しないように、少しずつ包帯を取っていく。
赤黒い血のついた包帯を目にすると、どこにも怪我などしていないのに、梔子まで傷が痛むような心地になった。
最後に包帯の内側にあったガーゼをそっと取り去ると、その下には血の滲んだ縫い傷があった。
ただ見ているだけで痛々しい傷だ。
医者からは三、四日も経てばほとんど塞がる傷だと言われたらしいが、梔子の目にはそうは見えなかった。
……いったいなぜ、紅月がこんな傷を負わなくてはならなかったのだろう。
気づけばそんな考えに囚われてしまう。
けれど今は、いつまでも打ちのめされている場合ではなかった。
手早く身体を拭いたら、すぐに着替えてもらわなければ。
手ぬぐいを湯に浸し、しっかりと絞る。
汗の滲んだ肌を丁寧に拭いていきながら、どうしても紅月の身体に見入らずにはいられなかった。
紅月の容貌は、かつて花街で芸妓をしていた母親によく似たのだという。
中性的な美貌に、すらりとした立ち姿をしていることもあって、彼は服を着ると細身に見えた。
しかし初めて何もまとっていない彼の身体を目にして、そんな梔子の印象はすぐに覆される。
腕も、背も、胸板も、男性らしいしなやかな筋肉に覆われていて。
そのあまりの美しさに、そんな場合ではないのに、頬が染まってしまうのを感じる。
……ふと、梔子は紅月の肩に大きな傷跡があることに気がついた。
皮膚を切り開き、縫い合わせたような傷跡だ。
よく見れば、肩だけではなかった。
胸や腕。ほとんど消えかけた傷跡まで含めれば、両手の指で数えられない数だった。
思わず手を止めてしまうと、紅月は不思議そうに梔子に目を向けてくる。