十四.ここにいて ―5
それは、紅月が外で見せる余裕のある姿からは想像もつかない、胸を掴まれるような切実さを帯びた声だった。
そんな声で頼まれたら、断ることなんてできるはずがない。
もちろん頷こうとしたけれど、それよりも早く、「いや」と紅月が言葉を続ける。
「私は何を言っているんだろうね。今のは、気にしないでくれるかな。ただの、冗談だから――」
「……冗談には、聞こえませんでした」
「…………」
「冗談では、ないですよね?」
言葉を詰まらせた紅月に、確信を持って尋ねる。
返事はない。
けれど、その沈黙が答えだった。
「今、そちらに行きますから」
床に足を下ろし、ベッドを出る。
紅月のいるベッドまで向かうと、彼は迷った様子を見せながらも、身体を片側に寄せて梔子のための場所を空けてくれた。
「……ありがとう」
「いいえ」
「安心して。何もしない。ただ、貴女のそばにいたいだけだから」
紅月の隣に身を横たえると、ふわりと毛布をかけられた。
梔子の身体が冷えないようにと、彼はかけた毛布を念入りにととのえてくれる。
毛布は紅月の体温で温もっていて、冷えていた身体がじんわりと温まっていく。
……否。
梔子はすぐに考え直した。
温もっている、どころの話ではない。
温かすぎる。
「……あの。失礼します」
一言断って、梔子は紅月の額に手を伸ばした。
案の定だった。
額はうっすらと汗が滲んでいて、熱湯を注いだ湯呑みに触れた時のように熱い。
「……嘘を、仰いましたね。まだ、少しも薬が効いていないではありませんか」
「それは」
「本当のことを仰ってください。本当は、まだ……」
紅月は目をそらし、すぐには答えてくれなかった。
それでもあきらめずに視線を送り続けていると、彼はやがて言いにくそうに打ち明けてくる。
「……薬は、効いていないと思う。これから少しずつ効いてくるのかもしれないが。正直……傷は痛いし、かなり……苦しい。だが」
そっと、抱き寄せられた。
梔子の背や腰に触れる手も、つむじを掠めていった吐息も、いつもよりずっと熱い。
「こうして、貴女が近くにいてくれると……それだけで、とても楽になるような気がする」
ふいに思い出したのは、夏の終わりの日々だった。
雨の降り止まない晩夏。
寝込んだ梔子を紅月が看病してくれた時の、記憶。
気づけば梔子は、口を開いていた。
「私も……同じことを、思っていました」
「同じこと……?」
「はい。前に、私が風邪を引いて倒れた時、紅月さまがずっとそばにいてくださった。その時に……私も、同じことを思ったのです。あなたがいてくださったおかげで、つらさが和らいだのだと」
「…………」
「私が、お役に立てているのなら……それであなたの苦痛が和らぐのなら。私はずっと、おそばにいます。あなたが私にしてくださったように……私も、あなたのお力になりたいから」
「…………。……梔子」
長い、長い沈黙の後に、紅月が言った。
言葉の一つ一つを、噛みしめるかのように。
ぎゅっと、抱きしめる腕の力が強くなった。
「貴女に出会えて……よかった」
「……いきなり、どうなさったのですか?」
驚いて尋ねると、紅月は苦笑した。
「いきなりじゃないよ。いつだってそう思っている。今も、かつても……貴女がいてくれたから、私は生きていられたんだ。だから……ありがとう」
「紅月さま。私はずっと、ここにいますから。ですから、もうお休みになってください」
もう、無理に話をする必要はないと思った。
こうして身を寄せ合っていれば、互いの体温で温め合える。
外がどんなに静かで冷えきっていても、寂しさに打ち震えることはない。
だからもう、言葉は要らない。
そう思えたのだ。
紅月はやがて、頷いた。
「わかった。貴女のおかげかな……。なんだか、今度は……眠れるような気がする」
その言葉の通りに。
少しずつ、梔子の髪を撫ぜていた手の動きが、ゆるやかになっていく。
そしてついにその手の動きが止まると、すぐそばから聞こえてきたのは、深く、安らかな寝息だった。
どうやら紅月は、やっと眠りにつくことができたらしい。
(よかった……)
それからしばらく経っても寝顔は穏やかなままで、悪夢に苛まれるような様子もない。
ほっと胸を撫で下ろしていると、思い出したのは眠る前に紅月が言っていた言葉だった。
『貴女に出会えて……よかった』
今になって、後悔する。
梔子も、すぐに同じ言葉を彼に返していればよかった、と。
(……私もです。紅月さま)
だから、言葉の代わりに、紅月を起こさないよう、そっと彼に身を寄せて。
(私も、あなたに出会えてよかった。あなたのおかげで……あなたがいてくださったから、私は今、こんなにも幸せなのです)
そう、心の中で、呟いた。
次第に、梔子のもとにもようやく眠気が訪れてくる。
温かな暗闇の中に、ゆっくりと、梔子の意識は浚われていった――