表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
123/161

十四.ここにいて ―3


          *


案内された部屋は、藤川邸の客室の一つらしかった。


広々とした洋室だ。

瀟洒(しょうしゃ)なシャンデリアの灯りが、舶来の家具で揃えられた優美な部屋を照らし出している。


部屋の隅に飾られた振り子時計は、すでに夜中の十一時を回っていた。

何事もなく屋敷に帰り着いていれば、もうとっくに就寝していたような時刻だ。


「……さて。これでやっと休めるな。お休み、梔子。今日はいろいろあって疲れただろうし、ゆっくり休むんだよ」

「はい。紅月さまも、早くお休みになってください。それから、何かありましたら、すぐに私に声をかけてください」


静貴も、紅月自身も、大した怪我ではないと言っていた。


けれど今も、彼の傷口から流れ出した血の赤さが、目に焼きついて離れない。

紅月に何かあったらと思うと、正直なところ、今夜はとても眠れる気がしなかった。


「大丈夫だよ。さっき言った通り、治療をしてくれた先生によれば、この傷は一週間も経てばほぼ治るものだという話だ。痛みもさほどではないし、心配する必要は少しもない」

「…………」

「私の言葉が信じられないかい、梔子」


本音を言えば。

紅月の言葉がいつでも信じられるものではないことを、この半年の間に梔子は幾度となく思い知らされてきた。


紅月は、問題事を一人で抱え込む人だ。

そして、大切な人間のためならば、一片の迷いもなく自分の身を犠牲にしようとする。

それこそ、息をするように、あっさりと。


大丈夫だ。何の心配も要らない。

たとえ彼自身がそう言っていたとしても、信じきることなど梔子には不可能だった。


「梔子」


何の反応もできずにいると、紅月はそっと梔子を抱き寄せてきた。

耳と頬に優しく口づけられれば、思わずぴくりと反応してしまう。

今はどう考えたって、甘やかされて喜んでいる場合ではないというのに。


「……っ」

「本当に、心配など要らないよ。それに、もし何かあったら、必ず貴女に助けを求めるから。それなら、貴女の気も済むかな」

「……本当に」


心が揺らぐ。

声が、つまりそうになる。


「本当に……本当に、その言葉を信じてもよいのですね?」

「ああ。誓って、本当だよ。私は貴女に、嘘は言っていない」


紅月にそうまで言われれば、もう梔子には食い下がることはできなかった。


紅月は怪我を負ったのだ。

これ以上問い質したところで、きっと彼は同じ言葉を繰り返すだけだろうし、何より、彼には少しでも長く休息の時間を取ってもらいたかった。


だから、不安は無理やり、胸の奥底にしまい込んで。

梔子はやっと、頷いた。


「わかり……ました。でも、本当に、何かあればすぐに私を起こしてください」

「そうするよ。ありがとう、梔子」


そうしてようやく、消灯した。

ベッドに横になってはみたものの、やはり眠ることなどできなかった。


(紅月さまは、お休みになったかしら……?)


しばらくすると、紅月が休む隣のベッドからは、穏やかな寝息が聞こえてきた。


どうやら彼は眠りにつくことができたようで、梔子はほっと胸を撫で下ろす。


外はまだ雪が降っていて、カーテンの隙間から見える空はほの明るい。


静かな夜だった。

振り子時計の音だけが、暗闇の中で規則正しく響いている。


……眠れない。

そのままどれほどの時間、まんじりともせず毛布にくるまっていただろう。


目を閉じてじっとしていると、かすかに声が聞こえた気がした。


(……?)


身じろぐ音がしたのは、すぐ隣からだった。

紅月が眠るベッドだ。

慌てて暗闇に目を凝らせば、見えたのは苦しげに身を(よじ)る紅月の姿だった。


「……っ」


苦痛を堪えるような声を聞いて、梔子は弾かれたようにベッドを飛び出す。

傷が痛み始めたのかもしれない。

けれど、やがて彼が口にした言葉に、そうではないと気づかされる。


「……あ……、に、うえ」

「……!」


荒く息をしながら、絞り出したような声で呟かれたのは、そばで聞いているだけでも悲痛な言葉だった。


「兄、上……。申し訳……ありません。申し訳ありません……」


すぐにわかった。

紅月は今、悪夢を見てうなされている。

これ以上は、見ていられない。

今すぐに起こさなければならないと思った。


「紅月さま」


彼の身体に手を伸ばし、思わず息を呑む。


(……熱い)


寝間着越しに触れてもわかるほどに、紅月の身体は熱かった。


ふと、梔子は思い出す。

確か、どこかで聞いたことがあった。

大きな怪我をして治療を受けると、身体が強く反応し、発熱することがあるのだと――


そういえば、紅月は医者から薬をもらったと言っていた。

部屋を見回すと、テーブルの上にその薬が置いてあることに気づく。


薬の入った紙袋を持って窓辺に寄り、雪明かりを頼りに記されている文章を読んでいくと、やはりその薬は解熱と鎮痛のためのものだということがわかる。


梔子は薬を持ったまま、紅月のいるベッドのそばまで戻った。

とにかく、早く彼を起こして、薬を飲んでもらわなければ。


「紅月さま。お願いです。起きていただけますか」


よほど悪夢に意識を奪われているのか、紅月はなかなか目を覚ましてはくれなかった。


腹部の傷に障らないように慎重に肩を叩き、できる限り声を張って、もう一度名を呼んでみる。


「紅月さま」

「…………!?」


すると、彼は息をつまらせ、びくりと身体を震わせた。

どうやら、やっと目を覚ましてくれたらしい。


「…………。梔子……?」

「ごめんなさい、起こしてしまって。でも……見ていられなかったので」

「…………」


こわばっていた紅月の身体から、少しずつ力が抜けていく。

やがて、呼吸が整った頃、彼は申し訳なさそうに梔子に謝ってきた。




評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ