十四.ここにいて ―3
*
案内された部屋は、藤川邸の客室の一つらしかった。
広々とした洋室だ。
瀟洒なシャンデリアの灯りが、舶来の家具で揃えられた優美な部屋を照らし出している。
部屋の隅に飾られた振り子時計は、すでに夜中の十一時を回っていた。
何事もなく屋敷に帰り着いていれば、もうとっくに就寝していたような時刻だ。
「……さて。これでやっと休めるな。お休み、梔子。今日はいろいろあって疲れただろうし、ゆっくり休むんだよ」
「はい。紅月さまも、早くお休みになってください。それから、何かありましたら、すぐに私に声をかけてください」
静貴も、紅月自身も、大した怪我ではないと言っていた。
けれど今も、彼の傷口から流れ出した血の赤さが、目に焼きついて離れない。
紅月に何かあったらと思うと、正直なところ、今夜はとても眠れる気がしなかった。
「大丈夫だよ。さっき言った通り、治療をしてくれた先生によれば、この傷は一週間も経てばほぼ治るものだという話だ。痛みもさほどではないし、心配する必要は少しもない」
「…………」
「私の言葉が信じられないかい、梔子」
本音を言えば。
紅月の言葉がいつでも信じられるものではないことを、この半年の間に梔子は幾度となく思い知らされてきた。
紅月は、問題事を一人で抱え込む人だ。
そして、大切な人間のためならば、一片の迷いもなく自分の身を犠牲にしようとする。
それこそ、息をするように、あっさりと。
大丈夫だ。何の心配も要らない。
たとえ彼自身がそう言っていたとしても、信じきることなど梔子には不可能だった。
「梔子」
何の反応もできずにいると、紅月はそっと梔子を抱き寄せてきた。
耳と頬に優しく口づけられれば、思わずぴくりと反応してしまう。
今はどう考えたって、甘やかされて喜んでいる場合ではないというのに。
「……っ」
「本当に、心配など要らないよ。それに、もし何かあったら、必ず貴女に助けを求めるから。それなら、貴女の気も済むかな」
「……本当に」
心が揺らぐ。
声が、つまりそうになる。
「本当に……本当に、その言葉を信じてもよいのですね?」
「ああ。誓って、本当だよ。私は貴女に、嘘は言っていない」
紅月にそうまで言われれば、もう梔子には食い下がることはできなかった。
紅月は怪我を負ったのだ。
これ以上問い質したところで、きっと彼は同じ言葉を繰り返すだけだろうし、何より、彼には少しでも長く休息の時間を取ってもらいたかった。
だから、不安は無理やり、胸の奥底にしまい込んで。
梔子はやっと、頷いた。
「わかり……ました。でも、本当に、何かあればすぐに私を起こしてください」
「そうするよ。ありがとう、梔子」
そうしてようやく、消灯した。
ベッドに横になってはみたものの、やはり眠ることなどできなかった。
(紅月さまは、お休みになったかしら……?)
しばらくすると、紅月が休む隣のベッドからは、穏やかな寝息が聞こえてきた。
どうやら彼は眠りにつくことができたようで、梔子はほっと胸を撫で下ろす。
外はまだ雪が降っていて、カーテンの隙間から見える空はほの明るい。
静かな夜だった。
振り子時計の音だけが、暗闇の中で規則正しく響いている。
……眠れない。
そのままどれほどの時間、まんじりともせず毛布にくるまっていただろう。
目を閉じてじっとしていると、かすかに声が聞こえた気がした。
(……?)
身じろぐ音がしたのは、すぐ隣からだった。
紅月が眠るベッドだ。
慌てて暗闇に目を凝らせば、見えたのは苦しげに身を捩る紅月の姿だった。
「……っ」
苦痛を堪えるような声を聞いて、梔子は弾かれたようにベッドを飛び出す。
傷が痛み始めたのかもしれない。
けれど、やがて彼が口にした言葉に、そうではないと気づかされる。
「……あ……、に、うえ」
「……!」
荒く息をしながら、絞り出したような声で呟かれたのは、そばで聞いているだけでも悲痛な言葉だった。
「兄、上……。申し訳……ありません。申し訳ありません……」
すぐにわかった。
紅月は今、悪夢を見てうなされている。
これ以上は、見ていられない。
今すぐに起こさなければならないと思った。
「紅月さま」
彼の身体に手を伸ばし、思わず息を呑む。
(……熱い)
寝間着越しに触れてもわかるほどに、紅月の身体は熱かった。
ふと、梔子は思い出す。
確か、どこかで聞いたことがあった。
大きな怪我をして治療を受けると、身体が強く反応し、発熱することがあるのだと――
そういえば、紅月は医者から薬をもらったと言っていた。
部屋を見回すと、テーブルの上にその薬が置いてあることに気づく。
薬の入った紙袋を持って窓辺に寄り、雪明かりを頼りに記されている文章を読んでいくと、やはりその薬は解熱と鎮痛のためのものだということがわかる。
梔子は薬を持ったまま、紅月のいるベッドのそばまで戻った。
とにかく、早く彼を起こして、薬を飲んでもらわなければ。
「紅月さま。お願いです。起きていただけますか」
よほど悪夢に意識を奪われているのか、紅月はなかなか目を覚ましてはくれなかった。
腹部の傷に障らないように慎重に肩を叩き、できる限り声を張って、もう一度名を呼んでみる。
「紅月さま」
「…………!?」
すると、彼は息をつまらせ、びくりと身体を震わせた。
どうやら、やっと目を覚ましてくれたらしい。
「…………。梔子……?」
「ごめんなさい、起こしてしまって。でも……見ていられなかったので」
「…………」
こわばっていた紅月の身体から、少しずつ力が抜けていく。
やがて、呼吸が整った頃、彼は申し訳なさそうに梔子に謝ってきた。