十三.聖なる夜の誓い ―6
その夜は、先に紅月が入浴することになった。
彼が風呂から上がってくるのを待つ間、梔子は居間にいた。
居間には電気が通してあって、夜でも電灯をつけて明るく過ごすことができる。
今夜も外は雪が降っていた。
それでも、炬燵に入っているおかげで身体はぽかぽかと温かい。
近頃の梔子は、すっかり炬燵が気に入ってしまっていた。
しばらく待っていると、入浴を終えた紅月が居間に戻ってくる。
「上がったよ。今夜は一段と冷え込んでいるからね。湯が冷めないうちに、早く入った方が……」
言いかけた紅月がじっと視線を向けてきたのは、梔子の手元にある蜜柑だ。
ふっと微笑んで、彼が言う。
「また食べてる」
思わず頬が染まってしまった。
静貴から箱いっぱいに入った蜜柑が送られてきたのは、つい一週間ほど前のことだ。
以来、炬燵の上に置かれた籠には、常に蜜柑が入れてある。
最近は炬燵で休んでいると、ついつい蜜柑に手が伸びてしまうのだ。
「なら、私もひとかけらもらおうかな。いいかい」
「はい、どうぞ」
剥いた皮の中から蜜柑の果肉を一つ取って、紅月の手のひらの上に差し出そうとする。
けれど彼は蜜柑の果肉ではなく、梔子の手首に触れ、
「…………!」
「……甘いな。ん……、甘すぎるくらいだ。とてもおいしい」
指先から直接蜜柑を食べられて、沸騰しそうなくらいに顔が熱くなる。
しかも紅月は、ただ蜜柑を食べるだけでは満足しなかったらしい。
指先についたわずかな果汁までも味わい尽くすように、彼は指に口づけてくる。
そのたびにかすかに立つ濡れた音が、余計に梔子の意識を乱れさせた。
「…………ぁ……っ」
また、びくりと身体が反応して、震えてしまう。
これ以上は、もう、堪えられない。
声に甘やかな響きが滲み出そうになるのを必死に堪え、梔子は言った。
「お……お風呂、を……。お風呂をいただいて、きます。いい、ですか……?」
「ん……。ああ、そうだね。わかった。ほら、行っておいで」
ひとしきり梔子の指に口づけた紅月は、とても満足そうだった。
梔子は慌てて立ち上がり、居間を出る。
夜になり、廊下はすっかり冷え込んでいるけれど、火照った頬の熱はなかなか冷めてくれない。
着物を脱ぎ、湯気でけぶる浴室に入って。
浴槽に浸かると、身体の芯までじんわりと温かさが染み渡っていくようで、思わずほうっとため息が零れ出る。
……今日は、なんだか、忙しかった。
朝は紅月を起こすことから始まって、二日酔いを引きずる彼のために市へ行ったり、料理をしたりして。
そしてまだ酔いが抜けきっていなかったせいなのか、今日の彼はいつにも増して梔子を求めてきたような気がする。
けれど。
……満たされている。
心の底から、そう思えた。
湯を手のひらで掬い、肩にかける。
手足や、胸。鏡を使わなければ見ることのできない、背中にも。
湯に浸かった肌には、虐げられていた間にできた古い傷跡が、数えきれないほどあった。
深い傷跡だ。おそらくこれから先も、消えることはないだろう。
それでも、手に触れた肌は今はもうしっとりとして、血の滲んだ傷など一つもない。
紅月が迎えに来てくれる前。
つい半年ほど前までは、この身体には、打たれた時の痣や生傷が数え切れないほどあった。
皆が使った後の濁った湯に浸かるたび、湯が傷に沁みて、ひどく痛むことは日常茶飯事たったというのに。
今では、心も身体も、ぽかぽかと温かかった。
何もかも満ち足りていて、明日を心待ちにしながら、眠りにつくことができる。
もう梔子は、寒さにも寂しさにも怯えなくていいのだ。
(……全部)
今日、彼に幾度となく口づけられた手を、包み込むように握り合わせる。
(全部、紅月さま……あなたのおかげです)
彼が毎日、梔子を必要としてくれるおかげで。
愛してくれるおかげで。
虐げられていた頃の地獄のような日々は、もう済んだこと、過ぎ去ったこととして、少しずつ遠ざかっていくように思えた――
湯浴みを終えて浴室を出ると、居間がまだ明るいことに気づいた。
紅月はまだ居間にいたのだ。
「紅月さま。お風呂、いただいてきました。まだ、お休みには……」
言いかけた言葉を途中で飲み込んだのは、彼が炬燵の天板の上に突っ伏し、うたた寝をしているようだったからだ。
……あのまま眠っては、風邪を引いてしまう。
梔子は居間には入らず、紅月の部屋に向かった。
箪笥にしまってあった綿入れ半纏を取り出して、居間に戻る。
呼吸に合わせて上下する背に半纏を着せかけながら、彼に声をかけた。
「紅月さま。お背中を冷やしてしまいますから。炬燵は、温かいですけれど……ここで眠ってはいけませんよ」
「ん……」
梔子の呼びかけに、紅月はぼんやりとした声を上げた。
すると彼は梔子の腰に手を伸ばし、自分の隣へと引き寄せてくる。
「あ、あの」
「……もう少しだけ。貴女と一緒にいたい」
「…………」
「……だめかな?」
寂しさを帯びた声で、少し不安そうに尋ねられれば、抗うことなどできなかった。
「い……え」
ふるふると頭を振って、答える。
「私も……もう少しだけ、あなたのおそばにいたいです」