十二.あなたとともに、これからも ―3
「あ、あの……紅月さまは、まだお休みにならないのですか……?」
「そうだね。たぶん、貴女と同じかな。疲れているはずなのに、まだ眠れそうにない。……そうだ。なら、眠くなるまでこうして話しているというのはどうだろう。今夜は、もう少し貴女と話していたい。いいかな?」
「…………」
すぐに返事ができなかったのは、きっと今の状況のせいだ。
いつもならとうに眠っている時間。
しかもお互いに風呂上がりだ。
しっとりと濡れた髪を下ろした紅月の姿は、信じられないほど艶めかしい。
彼はただ、話したいと言ってくれているだけなのに、こんなにもどきどきして、緊張してしまうのはなぜなのだろう。
「……? 梔子?」
「ごめんなさい、何でもございません。あの……私も、同じです。もう少しだけ、あなたとお話ししていたい、です」
どぎまぎしながらもそう答えると、紅月は嬉しそうに微笑んで頷いてくれた。
「じゃあ、少し待っていて」
そう言って、紅月は部屋を出て行った。
しばらく待っていると、彼は湯呑みを載せたお盆を持って戻ってくる。
甘く柔らかな香りのする湯気に、思わず心が浮き立った。
「甘酒……ですね」
「そう。貴女の大好物だ。これを飲ませると、貴女はよく眠ってくれていたからね」
紅月の言葉に、つい顔を赤らめてしまった。
梔子が夏風邪に倒れて起き上がれなくなった時、紅月はよく温めた甘酒を飲ませてくれていた――口移しで。
その時のことを、どうしても思い出してしまったからだ。
……まさか、と思う。
お盆に一つだけ載せられた湯呑みを見て、頬はさらに紅潮し、心臓の鼓動が速まるのを抑えられない。
間違いない。
彼は、梔子に――
「あ、あの……! 紅月さま」
「ん?」
「……その、甘酒は……私のために、用意してくださった……のですか?」
「……? その通りだが、どうかしたかな」
「あ……あなたの、分は」
「私の分? ああ、それなら気にする必要はないよ。貴女の分を少しだけ分けてもらおうと思っていたからね。だから一つしか用意しなかった」
「…………」
確信に至って、梔子はもう何も言えなくなる。
やはり、そうだ。
紅月は、夏風邪の時と同じやり方で、梔子に甘酒を飲ませようとしている……
「あ、あああ、あの! 今、もう一つ、湯呑みをお持ちしますから」
「そんなことをしていたら冷めてしまうよ? いいから、おいで」
「―――……っ……」
……恥ずかしい。
恥ずかしくて、頭がどうにかなってしまいそうだ。
紅月は微笑んだまま、梔子にじっと視線を送り続けている。
彼には一切、譲歩するつもりなどないらしい。
……あきらめるしかないのか。
そう考えかけた時、ふいに頭に浮かんだのは、常々考えていたことだった。
(……紅月さまに、何かお返しがしたい)
梔子は紅月に、どれだけ世話になったことだろう。
そして彼は、どれほど多くの苦難を越えて、梔子を助けに来てくれたことか。
そんな彼のために、ささやかでも、自分にできることは。
彼に、喜んでもらえるようなことは……
恥ずかしさは、薄れるどころかさらに増していた。
けれど、紅月に少しでも恩を返すなら今はそれしかないように思えて、梔子の心はすぐに決まった。
「……わかりました、紅月さま」
頷いて、一歩、彼に近づいた。
梔子の様子が変わったことに気づいたらしい。
紅月は不思議そうな眼差しを向けてくる。
「でも、私は……いつもあなたに、甘やかされてばかりですから。今日は私に、あなたのことを甘やかさせてください」
「梔子……? それは、どういう――」
怪訝そうにする紅月の前で、梔子は湯呑みを傾け、甘酒を口に含んだ。
ふんわりとしてまろやかな味と香りが、口いっぱいに広がる。
けれどそれを飲み下すことはしない。
心臓はかつてないほど鼓動を打ち、今にも弾けてしまいそうだ。
それでも、一度決めたことだから、やめるわけにはいかない。
(紅月さま。どうか……私の想いが、あなたに伝わりますように)
紅月のかたわらに膝立ちになり、梔子はそっと、彼の唇に口づけた。
つながりあった唇の合間から、少しずつ甘酒を移していく。
甘酒に酒精はないはずなのに、耳も頬も火がついたように熱く、目の前は滲んで、本当に酩酊したかのような心地になった。
「――……」
ゆっくりと唇を離すと、紅月は呆然と梔子を見上げていた。
吐息は湿り、甘く濃密な香りが立ち上って、次第に頭がくらくらとしてくる。
「……おいしかった、ですか? 紅月さま――」
言葉は続けられなかった。
腰を引き寄せられたと思うと、紅月の膝の上に抱かれ、身動き一つ取れなくなってしまったからだ。
「……いけない人だね、貴女は。いきなりそんなことをしたらどうなるか、もちろんわかった上でやったんだろうね」
「あ――……、ん、んんっ……!」
唇を押し当てられたかと思うと、そこから温かな甘酒を注ぎ込まれる。
紅月は梔子の喉元に触れ、梔子が甘酒を飲み込んだのを確認するなり、次の一口を含み、また深く口づけてきた。
「……っは……! 紅……月、さま……お願いです……。もう……もう、おやめください」
二口……三口。
こんなに濃厚で、酔わせてくる甘酒は初めてだった。
これ以上は本当に意識がとろけ、どうにかなってしまいそうなのに。
「嫌だ。残りをすべて飲ませるまで、やめてあげない。そもそも、貴女がいけないんだ。私を甘やかそうだなんて、悪いことを考えるから――」
「ん、ん……っ、んん……!」
その、言葉のとおりに。
湯呑みがすっかり空になるまで、紅月は口移しで甘酒を飲ませるのをやめてはくれなかった。
*
明るい晩だった。
満ちた月は、誰もが寝静まる時刻になっても、煌々と地上を照らし続けている。
「あれか。奴の言っていた屋敷は」
その屋敷は、立派な建物だった。
純和風の母屋と離れ。
宵闇の下、広々とした庭が月明かりにほの白く照らし出されている。
しんと静まりかえった夜の闇を、声が揺らす。
「――篁紅月」
声は低く笑いながら、言った。
「奪わせてもらうぞ。命より大事な、貴様の宝をな」