十二.あなたとともに、これからも ―2
汽車に乗り、帝都に着いたのはその日の夜のことだった。
「すっかり遅くなってしまったな。疲れていないかい、梔子?」
「私は大丈夫です。あの……紅月さま。本当に、ありがとうございました。今までのことを、たくさん教えていただいて」
記憶は、戻らなかった。
紅月は思い出さなくてもいいと言ってくれた。
けれど、もしいつか、昔の記憶が戻ったならどんなにいいだろうと思う。
……それでも。
(私は、この方とともに生きていく)
少し前までは、自分なんかが紅月の妻になっていいのだろうか。本当に彼にふさわしいのだろうかと悩んでいた。
けれど今、梔子の心に迷いはない。
「どういたしまして。私の方こそ、貴女にお礼をしなければ。ありがとう。貴女に以前のことを話すことができて……貴女に知ってもらえて、嬉しかった」
そう言って、紅月は安らぎに満ちた微笑みを浮かべる。
彼がこうして梔子に微笑みかけてくれるたびに、心が温かくなる。
彼の隣が自分の帰る場所なのだと、心の底からそう思えた。
路面電車に乗り、屋敷の近くで降りたら、そこからは歩きだ。
月が明るいおかげで、街灯がなくても歩けるくらいにあたりはほの明るかった。
しばらくして。
冷たい風が吹いてきて、梔子は思わず羽織をかき寄せた。
秋、それも夜ともなれば、気温は低く、思わず身震いしてしまうほどだった。
隣を歩く紅月が自分の羽織を脱ごうとするのを見て、梔子はすぐに止めた。
「いえ、私は大丈夫です。あと少しで着きますし」
「だが」
「紅月さまのお身体が冷えてしまいますから。ですからどうか、その羽織はあなたがお使いになっていてください」
「……なら、もう少しくっついて歩こう」
「あ……」
肩を抱かれ、紅月のそばに引き寄せられる。
ほとんどぴったりと身を寄せ合うような格好になって、ほのかに頬が染まるのを感じた。
指を絡ませるように手をつなぐと、手のひらからじんわりと彼の体温が伝わってくる。
爪の先まで冷えた梔子の手と違い、紅月の手はとても温かかった。
「……温かい、です」
「それはよかった。それにしても、ここ最近でずいぶんと冷え込むようになってきた。もしかしたら、今年の冬はかなり寒いかもしれない。そろそろ、炬燵用の布団をどこかで買ってくるか……」
「炬燵……」
床に大きく穴を作り、底に設置した網の下に炭を入れて、そこに布団をかけた暖房器具だ。
冬になると、八條家でも使っていた。
もっとも、梔子は炭に火をつけて準備をするだけで、自分が使ってみたことはない。
あの中に足を入れて過ごせたら、とても温かいのだろうなと思ってはいたけれど……
「その反応だと、炬燵を使ってみたことはないのかな」
「はい。時期になったら炬燵布団を出したり、指示のあった時に温める準備は任されていたので、使い方はわかるのですが」
「そうか。なら、今年の冬は楽しみにしておくといい。炬燵は本当によいものだよ。とにかく温かいんだ。一度入ったらなかなか出られなくなる」
目を輝かせて語る紅月は、とても楽しそうだった。
「そんなによいものなのですか?」
「ああ。巴里にあった暖炉もよいものだが、やはり炬燵にはかなわないと思うね。炬燵に入って、温かい茶を飲みながら蜜柑を食べるんだ。貴女と炬燵を囲めると思うと、今から冬が待ちきれないな」
「…………」
声を弾ませて話す紅月に、梔子も想像する。
炬燵に入って冬を過ごすなんて、去年は夢に見たことさえなかった。
凍てついた隙間風の入る部屋で、しもやけだらけの手を吐く息で温めながら、擦り切れた綿入れ半纏と掛け布団一枚で寒さに耐える。
それが、梔子にとっての冬の凌ぎ方だった。
なのに今年は、炬燵で温まりながら冬を過ごすことができる。
それも、紅月と一緒に炬燵を囲んで……
「ん? どうしたのかな、急に黙り込んで」
「あ……いえ! その……想像したら、嬉しくて、楽しみで仕方がなくなって。炬燵……楽しみにしていますね」
本当に、なんて楽しみなのだろう。
あまりに幸福すぎて、恐ろしくなってしまうほどだ。
去年の自分が今の暮らしぶりを聞かされたら、きっと卒倒してしまうに違いない。
……ずっと、こんなふうに、彼とともに暮らしていけますように。
そんなことを願い、他愛のないことを話しながら夜道を歩いていると、屋敷まではあっという間だった。
屋敷を出たのは、昨日の朝だ。
家を空けていたのはたった一晩だけなのに、いろいろなことがありすぎたせいか、何日もの長い旅を経て帰ってきたような気分だった。
夜道を歩き続け、身体は冷え切っていた。
もう夜は遅くなっていたが、できれば風呂で温まってから休みたいということで、紅月と意見が一致した。
時々湯の温度や薪の様子を確認しながら待っていると、一時間ほどで風呂は温かくなる。
寒がりの梔子に早く身体を温めてほしいという紅月の強い勧めで、梔子が先に入浴を済ませることになった。
「失礼します、紅月さま。お風呂、先にいただきました。ごめんなさい、お待たせしてしまって」
入浴を終えた梔子は、居間で待っていた紅月のもとへ向かった。
「ああ、ありがとう。さて、それなら私も入ってこようかな。お休み、梔子。昨日と今日でずいぶん疲れているだろうから、今夜はゆっくり休むんだよ」
「はい。それでは紅月さま、おやすみなさいませ」
夜が明ければ、また日常が帰ってくる。
今日は早めに休んで、明日からは再び家事に精を出さなければ。
そう思って自室に戻り、布団を敷いて横になってみるものの、なかなか眠りにはつけなかった。
……眠れない。
きっと、昼間、紅月が話してくれた過去の話が衝撃的だったせいだろう。
(いつか……思い出せるかしら)
思い出せたなら、彼は喜んでくれるだろうか――
しばらく経ってもどうしても眠りにはつけず、梔子はあきらめて身を起こすことにした。
箪笥から半纏を取り出して寝巻の上に重ね着る。
確か、居間にやりかけの繕い物を置いていたはずだ。
眠くなるまで、部屋で針仕事をしていよう。
そう思って繕い物と裁縫道具を取って戻り、作業を始めてしばらくした頃のことだ。
「梔子? もしかして、まだ起きているのかい?」
「……!」
紅月の声がして、梔子ははっと顔を上げた。
彼の足音が近づいてくるのが聞こえてくる。
どうぞ、と言うと、引き戸が開いて紅月が顔を見せた。
風呂上がりのためか、彼はいつもは後ろでまとめている髪をそのまま背に流している。
「……ごめんなさい。どうしても眠れなくて、繕い物を」
「そうか。ありがとう。でも、夜に針仕事はだめだよ。針で刺して怪我をしてしまったら大変だからね」
そう言って、紅月は繕い物を持つ梔子の手に、自身の手を重ねた。
それから身を寄せてきて、そっと梔子の耳に口づけてくる。
「あ……」
……くすぐったい。
思わず小さく声を漏らすと、今度は唇を塞がれた。
「ん……、っ」
同時に頬や耳たぶを柔く撫でられると、触れられたところが瞬く間に熱を持つ。
何か話さなければ彼はきっと口づけるのをやめようとはしないし、このままでは羞恥で余計に眠れなくなってしまいそうだ。
そう思って、どうにか口づけの合間に顔をそらすと、梔子は慌てて声を上げた。