表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
109/161

十二.あなたとともに、これからも ―2


汽車に乗り、帝都に着いたのはその日の夜のことだった。


「すっかり遅くなってしまったな。疲れていないかい、梔子?」

「私は大丈夫です。あの……紅月さま。本当に、ありがとうございました。今までのことを、たくさん教えていただいて」


記憶は、戻らなかった。


紅月は思い出さなくてもいいと言ってくれた。

けれど、もしいつか、昔の記憶が戻ったならどんなにいいだろうと思う。


……それでも。


(私は、この方とともに生きていく)


少し前までは、自分なんかが紅月の妻になっていいのだろうか。本当に彼にふさわしいのだろうかと悩んでいた。


けれど今、梔子の心に迷いはない。


「どういたしまして。私の方こそ、貴女にお礼をしなければ。ありがとう。貴女に以前のことを話すことができて……貴女に知ってもらえて、嬉しかった」


そう言って、紅月は安らぎに満ちた微笑みを浮かべる。

彼がこうして梔子に微笑みかけてくれるたびに、心が温かくなる。

彼の隣が自分の帰る場所なのだと、心の底からそう思えた。


路面電車に乗り、屋敷の近くで降りたら、そこからは歩きだ。

月が明るいおかげで、街灯がなくても歩けるくらいにあたりはほの明るかった。


しばらくして。

冷たい風が吹いてきて、梔子は思わず羽織をかき寄せた。

秋、それも夜ともなれば、気温は低く、思わず身震いしてしまうほどだった。

隣を歩く紅月が自分の羽織を脱ごうとするのを見て、梔子はすぐに止めた。


「いえ、私は大丈夫です。あと少しで着きますし」

「だが」

「紅月さまのお身体が冷えてしまいますから。ですからどうか、その羽織はあなたがお使いになっていてください」

「……なら、もう少しくっついて歩こう」

「あ……」


肩を抱かれ、紅月のそばに引き寄せられる。

ほとんどぴったりと身を寄せ合うような格好になって、ほのかに頬が染まるのを感じた。


指を絡ませるように手をつなぐと、手のひらからじんわりと彼の体温が伝わってくる。


爪の先まで冷えた梔子の手と違い、紅月の手はとても温かかった。


「……温かい、です」

「それはよかった。それにしても、ここ最近でずいぶんと冷え込むようになってきた。もしかしたら、今年の冬はかなり寒いかもしれない。そろそろ、炬燵(こたつ)用の布団をどこかで買ってくるか……」

「炬燵……」


床に大きく穴を作り、底に設置した網の下に炭を入れて、そこに布団をかけた暖房器具だ。

冬になると、八條家でも使っていた。


もっとも、梔子は炭に火をつけて準備をするだけで、自分が使ってみたことはない。

あの中に足を入れて過ごせたら、とても温かいのだろうなと思ってはいたけれど……


「その反応だと、炬燵を使ってみたことはないのかな」

「はい。時期になったら炬燵布団を出したり、指示のあった時に温める準備は任されていたので、使い方はわかるのですが」

「そうか。なら、今年の冬は楽しみにしておくといい。炬燵は本当によいものだよ。とにかく温かいんだ。一度入ったらなかなか出られなくなる」


目を輝かせて語る紅月は、とても楽しそうだった。


「そんなによいものなのですか?」

「ああ。巴里(パリ)にあった暖炉もよいものだが、やはり炬燵にはかなわないと思うね。炬燵に入って、温かい茶を飲みながら蜜柑を食べるんだ。貴女と炬燵を囲めると思うと、今から冬が待ちきれないな」

「…………」


声を弾ませて話す紅月に、梔子も想像する。


炬燵に入って冬を過ごすなんて、去年は夢に見たことさえなかった。

凍てついた隙間風の入る部屋で、しもやけだらけの手を吐く息で温めながら、擦り切れた綿入れ半纏(はんてん)と掛け布団一枚で寒さに耐える。

それが、梔子にとっての冬の凌ぎ方だった。


なのに今年は、炬燵で温まりながら冬を過ごすことができる。

それも、紅月と一緒に炬燵を囲んで……


「ん? どうしたのかな、急に黙り込んで」

「あ……いえ! その……想像したら、嬉しくて、楽しみで仕方がなくなって。炬燵……楽しみにしていますね」


本当に、なんて楽しみなのだろう。

あまりに幸福すぎて、恐ろしくなってしまうほどだ。


去年の自分が今の暮らしぶりを聞かされたら、きっと卒倒してしまうに違いない。


……ずっと、こんなふうに、彼とともに暮らしていけますように。


そんなことを願い、他愛のないことを話しながら夜道を歩いていると、屋敷まではあっという間だった。


屋敷を出たのは、昨日の朝だ。

家を空けていたのはたった一晩だけなのに、いろいろなことがありすぎたせいか、何日もの長い旅を経て帰ってきたような気分だった。


夜道を歩き続け、身体は冷え切っていた。

もう夜は遅くなっていたが、できれば風呂で温まってから休みたいということで、紅月と意見が一致した。


時々湯の温度や薪の様子を確認しながら待っていると、一時間ほどで風呂は温かくなる。


寒がりの梔子に早く身体を温めてほしいという紅月の強い勧めで、梔子が先に入浴を済ませることになった。


「失礼します、紅月さま。お風呂、先にいただきました。ごめんなさい、お待たせしてしまって」


入浴を終えた梔子は、居間で待っていた紅月のもとへ向かった。


「ああ、ありがとう。さて、それなら私も入ってこようかな。お休み、梔子。昨日と今日でずいぶん疲れているだろうから、今夜はゆっくり休むんだよ」

「はい。それでは紅月さま、おやすみなさいませ」


夜が明ければ、また日常が帰ってくる。

今日は早めに休んで、明日からは再び家事に精を出さなければ。


そう思って自室に戻り、布団を敷いて横になってみるものの、なかなか眠りにはつけなかった。


……眠れない。

きっと、昼間、紅月が話してくれた過去の話が衝撃的だったせいだろう。


(いつか……思い出せるかしら)


思い出せたなら、彼は喜んでくれるだろうか――


しばらく経ってもどうしても眠りにはつけず、梔子はあきらめて身を起こすことにした。


箪笥(たんす)から半纏を取り出して寝巻の上に重ね着る。

確か、居間にやりかけの(つくろ)い物を置いていたはずだ。

眠くなるまで、部屋で針仕事をしていよう。

そう思って繕い物と裁縫道具を取って戻り、作業を始めてしばらくした頃のことだ。


「梔子? もしかして、まだ起きているのかい?」

「……!」


紅月の声がして、梔子ははっと顔を上げた。

彼の足音が近づいてくるのが聞こえてくる。


どうぞ、と言うと、引き戸が開いて紅月が顔を見せた。

風呂上がりのためか、彼はいつもは後ろでまとめている髪をそのまま背に流している。


「……ごめんなさい。どうしても眠れなくて、繕い物を」

「そうか。ありがとう。でも、夜に針仕事はだめだよ。針で刺して怪我をしてしまったら大変だからね」


そう言って、紅月は繕い物を持つ梔子の手に、自身の手を重ねた。

それから身を寄せてきて、そっと梔子の耳に口づけてくる。


「あ……」


……くすぐったい。

思わず小さく声を漏らすと、今度は唇を塞がれた。


「ん……、っ」


同時に頬や耳たぶを柔く撫でられると、触れられたところが瞬く間に熱を持つ。


何か話さなければ彼はきっと口づけるのをやめようとはしないし、このままでは羞恥で余計に眠れなくなってしまいそうだ。


そう思って、どうにか口づけの合間に顔をそらすと、梔子は慌てて声を上げた。





評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ