十二.あなたとともに、これからも ―1
すべてを語り終えた紅月を、梔子はただただ、言葉もなく見つめた。
気づけばあたりは夕暮れ色を帯びていた。
風を受け、黄昏色に光りながら、大輪の彼岸花が揺れている。
紅月が打ち明けたのは、梔子の想像を遙かに超えるものだった。
これまでずっと、彼はどんな思いで梔子に接していたのだろう。
何もかも忘れてしまった梔子に、彼はどんなにか――
「……ごめんなさい」
きっと紅月は、謝るなと言うだろう。
それでも、謝罪をせずにいることなんて、梔子にはできない。
肩を震わせる梔子をなだめるように、紅月が手を伸ばしてくるのが見えた。
「ごめんなさい。私は、何もかも忘れて……今まで、何も知らずに……」
なんてひどい仕打ちをしてしまったのだろう。
紅月を待つと約束した。
それなのに、梔子は約束を守れなかったどころか、彼のことをすべて忘れ去ってしまった。
その上、こうして話を聞かされても、
(どうして……何も、思い出せないの……?)
自分で自分が、信じられない。
記憶は、戻らなかった。
どうしても、紅月から聞かされた過去の自分自身が、他人のようにしか思えないのだ。
かつて、彼の身の回りの世話をしたこと。
心を通い合わせたこと。
恋人どうしになり、結婚の約束をしたこと。
そのすべてを、梔子は何一つ、記憶にとどめてはいないのだ。
胸が狂おしいほどに痛くなる。
だって、彼が愛したのは……
紅月が梔子の肩を抱き、首を横に振って言う。
「梔子。いいんだ。どうか謝らないでくれ。前も言ったように、私は貴女がいてくれるのならそれだけで――」
「いいえ。私は……今の私は、あなたが愛してくださった梔子ではありません」
紅月は息をつめ、梔子を見つめていた。
目が潤みそうになるのを必死に堪え、梔子は言った。
「……何も、思い出せないのです」
胸が張り裂けそうに痛いのはきっと、自分で自分に嫉妬心を抱いたからだ。
紅月が愛したのは、過去の梔子だ。
決して、今の梔子ではない。
彼の眼差しは今もきっと、今の梔子の姿を通して、過去の梔子に向けられ続けているのだと。
「今の私には……何もありません。かつてあなたが愛してくださったものは、何も……。だから、私には――」
言葉が途切れたのは、唇を塞がれたからだった。
「……っ、ん――……」
それは、いつにも増して、長く、深く、優しい口づけで。
名残惜しむように、紅月は梔子の唇を甘く噛んだ。
それからゆっくりと唇を離し、彼は言う。
「それは違うよ。たとえ記憶が失われようと、同じ貴女だ。今の貴女も、かつての貴女も」
「紅月、さま」
「貴女の涙もろいところが好きだ」
「…………!」
堪えきれず、零してしまった涙の跡に、紅月の唇がそっと触れた。
彼はそのまま、跡をたどるように梔子の頬に口づけていく。
口づけの合間に、彼は言葉を続けていった。
「どんなにつらい目に遭おうと、前を向こうとしていたところ。私が心配になってしまうくらい、いつも一生懸命なところ。……こうすると、すぐに恥ずかしがって顔を赤くするところも、可愛くて仕方がない」
「あ……っ!」
やがて口づけは頬から首筋へと下りていった。
思わずびくりと身体を震わせると、さらに深く抱き寄せられ、身動き一つできなくなる。
唇で、舌先で、首筋の柔いところを、紅月は立て続けに口づけていく。
「私の想いは、今も昔も何も変わらない。梔子。貴女が好きだ。貴女のすべてが。……これでもまだ、信じられない?」
「……っ、いいえ……っ。いいえ」
嗚咽も涙も、止まらなかった。
どうして紅月はいつも、梔子がほしかった言葉を、こんなにも惜しみなく与えてくれるのだろう。
彼の言葉にも、口づけにも、偽りなど微塵もなかった。
疑うことなど、できるわけがない。
今も過去も関係なく、彼は梔子を愛してくれているのだと――
「私も……あなたが好きです。紅月さま」
伝えずには、いられなかった。
「あなたが好きです。あなたを、愛しています。記憶がなくても、私を……あなたのおそばに、おいていただけますか……?」
「何を言うのかな、梔子。そんなこと、当たり前じゃないか。もう二度と離れない。これからはもう、ずっと一緒だ」
口づけが降る。
降り注ぐ。
梔子を抱きしめ、頬に、耳に、唇に、首筋に、紅月は何度も口づけをくれた。
身体の内奥に火が灯り、甘い痺れが切ないくらいに胸を疼かせた。
――もう、何も、考えられなかった。
「……ん、んんっ、あ……っ……。こ……げつ、さま。紅月さま……!」
「愛しているよ、梔子。これからはずっと、貴女とともに生きていたい――」
どれだけ熱く、激しく口づけを交わしても、足りることはなかった。
濡れた吐息ごと、唇を貪られる。
飽くことなく互いを求め、名を呼び、唇を重ね合わせる。
夕日だけが、それを見ていた。
あたりには真紅の彼岸花が、燃えるようにあざやかに、美しく、風に揺れて咲いていた――
……やがて日が落ち、あたりがすっかり薄暗くなった頃。
「あの……紅月さま。ごめんなさい。また……お手を煩わせてしまって」
病院の跡地を出て、馬車を探す道すがら。
梔子は紅月に抱えられた状態で街を進んでいた。
口づけをしている最中にまたしても膝に力が入らなくなってしまい、立っていられなくなったからだ。
(どうして私は、いつも……)
そんなふうに自分を非難しつつ、けれど今回ばかりは全面的に紅月のせいだとしか思えなかった。
まるで、これまでに秘めてきた想いをすべてぶつけようとするかのように、彼は容赦がなかった。
あまりの甘さと激しさに意識が飛びかけ、限界を超えるまで、彼は梔子の唇を何度も求め続けたのだから。
それなのに、
「また謝ったね。あれほどキスしたのに、貴女はまだ足りないのかな」
「そ、そういうわけでは――、んっ」
再び落とされた口づけに、胸は歓喜で満たされる。
あんなにも愛し合ったのに、まだなお彼からの口づけをほしがり、喜んでしまう。
そんな自分もどうかしているとしか思えなかった。
「失礼。駅まで頼むよ」
馬車に乗ると、ようやくほっと息をつけた。
それもそのはず、梔子は紅月に抱き上げられた状態で、人の往来の多い通りを進んできたのだ。
集まる視線の量は尋常ではなく、もう少しで恥ずかしさに気を失ってしまいかねないところだった。
「紅月さま。ありがとうございました……ここまで運んでくださって。あの……たぶん、駅に着く頃には、歩けるようになっていると思いますので」
けれど紅月は馬車に乗っても、まだ梔子を離そうとしなかった。
しかも、梔子が話しかけても、彼からの返事はない。
怪訝に思ってもう一度声をかけようとした、その時だった。
「……っ!? 紅月さま……?」
紅月は梔子を膝の上にのせると、正面から深く抱きしめてくる。
彼のまとう白檀の香りが、甘く、優しく総身を包んだ。
「しばらくの間だけでいいんだ。しばらく……このままでいてくれないかな」
「…………」
それは、普段の余裕に溢れた彼からは想像もできない、寂しげで、どこか梔子に甘えるような声で。
「ずっと……もう何年もずっと、貴女と再び会って、こうして抱きしめることだけを夢見てきた。たまに、今が幸せすぎて……すべて夢なのではないかと思ってしまうことがあるんだ。何もかも、夢で。目が覚めれば、貴女はまたいなくなってしまうのではないかと……」
「……紅月さま。私は、ここにいます」
腕を紅月の背に回し、抱きしめ返す。
何年も、何年も、紅月は梔子に会うために、自分の身を削るような日々を送り続けてきた。
それを思えば、尽きることなく愛おしさが込み上げてくる。
そばにいたい。
身を寄せ合うことで彼の孤独を癒せるのなら、いつまでもこうしていたかった。
「私はもう、いなくなったりしません。ずっと……あなたのおそばにいます」
抱きしめる力が強くなる。
もう二度と、梔子を離さないというように。
そっと背を撫ぜると、彼の肩が震え、掠れた吐息の音が聞こえた。
駅に着くまで、二人はそのまま、抱きしめ合ったままでいた。