十一.追想 ~会いたい~ ―5
その翌日。
花と線香を手にして、紅月が訪れたのは梔子の故郷。
葉室医院の跡地だった。
昨晩に続き、朝からよく晴れた日だった。
周囲の木々から雪解けの雫の滴る音が、ぴちょん、ぴちょんと聞こえてくる。
奥にある墓へと、紅月は歩みを進めていく。
墓は雪を被っていた。
布を使って雪を取り去り、持ってきた寒菊を花立てに飾る。
線香を供え、手を合わせて祈り……
「智行先生。佳江さん」
墓の下に眠る彼らに、紅月は呼びかけた。
「お久しぶりですね。私は……七年前、智行先生にお世話になった、篁紅月です」
当然ながら、返事はない。
それでも、どこかで彼らが聞いてくれていることを願いながら、紅月は墓石に向かって語りかける。
「私はかつて、梔子に……彼女に、助けてもらいました。彼女がいなければ、私はきっと自暴自棄になったまま、今頃はもう、とっくに自分で命を絶っていたかもしれません」
梔子がいなければ、今の紅月はない。
そして、紅月は、
「私は……彼女を、愛しています」
それは、たとえ彼女がどんな姿をしていても、紅月のことなど微塵も覚えていなくても、永久に変わることのない想いだった。
「本当は私にそんな資格がないことはわかっています。私は、彼女の苦しみに気づくことができなかった。彼女を助けることができなかった。だからもし、これから先、彼女を心から大切に想い、幸せにしてくれる誰かが現れたなら、私は身を引こうと思います。……それでも」
紅月はそこで言葉を切った。
いつの間にか、あたりには風が吹いていた。
ついさっきまで、ほとんど風のない朝だったにもかかわらず。
雪が舞う。
木々が、ざわめく。
意を決し、紅月はその先の言葉を紡いだ。
「梔子がこれからは誰にも傷つけられず、安らかに過ごせるように……何があっても彼女を守り、愛すると誓います。だから、どうか……彼女に結婚を申し入れることを、私にお許しください」
ただ、それだけを、一心に希った。
いくら待てども、智行達の声が聞こえてくるわけはない。
……ただ。
ふと、墓石の傍らに、小さな黄色い花が咲いていることに気づく。
ついさっきまで墓石の手入れをしていたはずなのに、まったく気づかなかった。
それにその花は……福寿草の季節は、まだひと月は先のはずだ。
きっと、偶然気づかなかっただけ。
たまたま一足先に花を咲かせただけだろう。
それでも。
智行が、佳江が、結婚を許してくれたのだと信じたかった。
もう一度、紅月は瞑目し、その場に跪いて手を合わせる。
再び立ち上がった時、紅月の瞳には強固な決意が宿っていた。
――八條家の令嬢、鞠花の誕生日を祝う夜会が開かれる。
その知らせを受けたのは、それから数か月後、葉桜が涼風に青々と光り始めた頃のことだった。
それはまさしく、紅月が何よりも待ち望んでいた好機だった。
その頃になると、紅月の画家としての地位は確立し、社交界や市井に名が響くようになっていた。
それまでに着実に築いてきた人脈や伝手を頼り、紅月はついに、八條家からの招待状を手に入れる。
これでようやく、紅月は堂々と八條家の門をくぐることができるのだ。
……この時を、ずっと待っていた。
やっとだ。
やっと、彼女を助け出せる。
やっと、彼女に会うことができる――
夜会の場では大勢の人々に話しかけられたが、そつなく平然と会話をこなしつつ、頭の中は梔子のことでいっぱいだった。
彼女は、この屋敷のどこかにいるはずだ。
……どこだ。
彼女はいったい、どこにいる――?
会場となっているホールに梔子の姿はなかった。
ならば厨房か、ホールの外で仕事をさせられているのかもしれない。
懐中に忍ばせていた時計を見る。
夜会の終わりの時間が迫るにつれ、紅月の焦りは増していった。
今日、彼女に会うことができなければ、次はいつ八條家に接触できるかわからない。
一日でも早く、彼女をここから連れ出さなければ。
何としても、今夜のうちに彼女を見つけ出さなければならないというのに……
……冷静になれ。
改めて、ホール全体をちらと一瞥する。
このままこうしていても、梔子に会うことはできない。
ならば、どう出るか――
考えを巡らし始めた、その時のことだった。
何かが視界の隅で光ったような気がして、無意識に視線を向ける。
それは、窓の外だった。
紅月ははっと息を詰め、視線の先に見えたものを――月夜に銀色の髪を光らせながら走っていく娘の姿を、食い入るように見つめる。
「篁殿?」
「……失礼。この続きは後日にしていただけますか」
それまでの会話を中断し、足早にホールを後にした。
廊下に出ると駆け足になった。
庭に通じる扉を急いで見つけ、外へと飛び出す。
初夏の夜風が吹き寄せてきた。
薔薇の香りのする風だ。
きっとこの庭のどこかで、薔薇が咲いているのだろう。
……月の明るい晩で、よかった。
彼女の姿は、庭池のすぐそば、東屋の近くですぐに見つけることができた。
聞こえてきたのは、嗚咽だった。
聞いているこちらまで胸が苦しくなってくるような泣き声だ。
――梔子が、泣いている。
すぐに駆けつけていって、彼女を抱きしめ、慰めたいと思った。
けれどまもなく、紅月は思い出す。
……そうだ。
今の梔子にとって、紅月はこれまでに会ったことも話したこともない、ただの赤の他人なのだ――
全身を襲ったのは、言いようのない寂しさだった。
かつての触れ合いも、交わした言葉も、彼女の中には一切残っていないのだ。
……それでも。
(……構わない)
また信頼してもらえるよう、一から関係を築き直せばいいだけのこと。
今はただ、梔子をここから助け出す。
感傷に浸る時間など、紅月に許されるものではないのだから。
だからこれからは、過去のことはすべて、なかったことにして。
彼女をむやみに驚かせてはいけない。
怯えさせてはいけない。
(……梔子)
彼女に伝えることのできない想いを、心の中で呟かずにはいられなかった。
(遅くなってしまって、すまなかった。ずっと貴女を助けられなくて……貴女をたった一人で苦しませてしまって、すまなかった。これからはずっと、貴女をそばで守り抜くと誓う。だから、どうか)
どうか、この手を取ってくれ――
月明かりの下、泣き崩れる彼女のそばに立つ。
深く息を吸い、微笑んで、紅月は告げた。
「こんばんは。白銀の髪のお嬢さん。こんなにも美しい夜に、貴女はなぜ、悲しげに涙に暮れているのかな?」