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十一.追想 ~会いたい~ ―4


吐く息が、白くけぶる。

見上げた空は、乳白色の雲に覆い尽くされていた。


ちらつく雪の中を、身なりのよい人々を乗せ、車が走り去っていく。

年の瀬の街は、どことなく忙しない空気が流れていた。


もうじきに、年が明ける。

梔子に……彼女に、会うことができないまま。


時間ができれば、紅月はこうして街に繰り出し、人波の中に梔子の姿を捜していた。


何度、何日、何時間、こうして捜し続けただろう。


どんっ、と肩がぶつかった。

ぼうっとしていたせいで、前をよく見ていなかったせいだ。

苛立たしげに眉をひそめた男が、ちっと舌打ちをしながら紅月を睨みつけて去っていく。


ふいにまた疲れが押し寄せてきて、紅月は路地の隅に寄った。


久しぶりに引いた風邪は、思いのほか治りが悪かった。

最初に熱を出した日からもう一週間は経つのに、いまだに身体の怠さが抜けない。


……疲れた。

物売りの客引きの声。行き交う人々の明るい話し声。絶え間ない足音。人いきれ。


何もかもが、どこか遠くに感じられる。

まるで紅月だけが、世界の何もかもから見放されたかのようだ。


(このまま……終わるのか)


このまま一生、紅月は梔子に会うことができないまま――


「こんな年の暮れに何をしに来たんだ! あんたみたいな化け物に売る品なんかないよ!」

(化け物……?)


突然聞こえてきた罵声に、紅月は何とはなしに視線を向けた。


紅月が立っているのとは反対側にある店先だ。

紅月と同じように何人かの人々がそちらに目を向けていたが、すぐに興味を失ったのか、皆、足早に立ち去っていく。


雑踏がほんのわずかに途切れる。

見えたのは、地面に這いつくばる老婆だった。


「さあ、さっさとそこをどきな! 商売の邪魔なんだよ。あんたみたいな山姥(やまんば)が店の前にいたら、お客さんが近寄ってこられないだろ」


そう言って、店先に出ていた年配の女は棒を持ってきて、うずくまったままでいる老婆を何度も叩きのめす。


……ずいぶんとひどい仕打ちだな、と思った。

あんな弱々しい老婆相手に暴力まで振るうとは何事だろう。

それを、誰も止めようとはしないのも。


老婆の見た目は、まるで浮浪者のようだった。


ぱさついた白髪はぼうぼうに伸びていて、俯いた顔を隠している。


雪が降り、凍てついた風が絶えず吹きつけてくるというのに、老婆が着ているのは夏に使うような薄手のお仕着せだ。しかもひどく汚れて、繕いだらけだった。


老婆はよろよろと立ち上がり、店を離れた。

そうして歩き出した老婆だったが、ふらついた拍子に道行く人にぶつかってしまう。


「何しやがる、この化け物が! とっととどこかへ消え失せろ!」


顔を歪めた男が、怒鳴りながら老婆を突き飛ばした。

老婆はその場に踏みとどまってはいられず、勢いよく地面に叩きつけられる。


……もう、黙って見ているわけにはいかなかった。


人波をかき分けて、紅月は倒れ伏す老婆に近づいていく。


「大丈夫ですか」


老婆の身体を支え、助け起こす。

しかし。


「……申し訳ありません。ありがとう……ございます」


その瞬間。

雷に打たれたような衝撃が、紅月の全身を貫いた。


老婆の声は、驚くほど若々しかった。

まるで年頃の娘のように。


だが、紅月が愕然としたのは、そのせいではない。


だって、その声は。


眼前で起きていることを呑み込めずにいるうちに、老婆はふらふらと去っていってしまった。


「…………。梔子……?」


その声は、ずっと、もう何年もずっと、紅月が会いたかった少女の声に、あまりにもそっくりで……


衝撃のせいで動けずにいた自分を呪う。

考えるよりも早く、紅月は彼女を追いかけようとした。

けれどまもなく、背後から肩を掴まれてしまう。


「ああ、やっぱり篁先生だったか!」


驚いて振り返ってみれば、そこにいたのは見知った男だった。

これまでに何度も紅月に依頼を持ちかけてきた客の一人だ。

無視するわけにもいかず、できる限り早く話を切り上げられるように言葉を交わす。


しかし話を終えて再び捜そうとしても、老婆の姿はどこにも見えなくなっていた。


「……失礼。尋ねたいことがあるのだが」

「ん? なんだいあんた……って、あんた、もしかして、あの」


帰国してから、もうまもなく半年になる。

その間に、紅月の顔や名は、市井にも知れ渡るようになっていたらしい。


本当は、あの老婆を理不尽に叩きのめした女などと、口をききたくもなかった。


だが、情報を得るためだ。

怒りを押し殺し、当たり障りなく会話をこなす。


それから、知り合いを捜しているのだと言って、老婆について尋ねる。

女は、途端に鼻を鳴らし、嫌そうな顔をした。


「篁先生。ありゃ確実に、あんたの知り合いの婆さんなんかじゃないよ。だってあの山姥は、あの見た目でまだ二十歳にもなっていないっていうからね」


……二十歳にもなっていない。


心臓が重く鼓動を打つ。

冬だというのに、じっとりと冷えた汗が滲み出すのを感じる。


嫌だ。

……嘘だ。

なぜ、彼女が。

なぜ、彼女があんな姿に。あんなひどい仕打ちを。


やがて女は、侮蔑のこもった声で言い放った。


「口無しって呼ばれてるらしいよ、あの山姥。もとからそういう名前だったのかどうかは知らないけどさ。この近くの、八條(はちじょう)の伯爵さまのところにいるんだよ。まったく、あんな不気味な化け物娘、どこかへ放り出してやればいいのに。上の方々の考えってのはわかんないもんだね」




梔子が、八條伯爵家にいる。


それがわかれば、口さがない人々が語る話を通じて、流れ込むようにして情報は得られた。


葉室智行が、本当は高貴な生まれだったこと。


天涯孤独になった梔子が、八條家に引き取られることになった経緯。


そして……


――その日の夜遅く。

気づけば紅月は借家ではなく、竹藪の奥、小高い丘の上に来ていた。


雲のない夜だ。

うっすらと雪をかぶった竹林を、宵闇にぽっかりと浮かぶ月が煌々と照らし出している。


ここは、幼い頃、兄と一緒に何度も訪れた場所だった。


両親や使用人の目を盗み、夜中、ひそかに屋敷を抜け出しては、ここで夕弦(ゆづる)と語らった。

ここだけが、唯一、誰の目も気にせずに兄弟でいられた場所だった。


けれど今、思い出すのは、傷だらけの夕弦の姿ばかりだ。


癇癪(かんしゃく)持ちの弦月(げんげつ)は、何か気に食わないことがあるたびに夕弦を呼び出して暴力を振るった。

夕弦に対して当たりのきつい使用人もいて、何か少しでも失敗をすれば、兄は手ひどい罰を受けていた。


そんな兄の姿に、梔子が重なる。

あの雪の日に見た、変わり果てた梔子の姿が。


八條家に迎え入れられた梔子の境遇は、あまりに惨く、凄絶なものだった。


梔子を一族の厄介者と見なした八條家の当主は、彼女を人として扱わず、使用人よりも過酷な下働きを強いた。


八條家の家族と使用人らが皆で結託して、もう何年も彼女を虐げ続けてきたのだ。


周囲の人々もまた、極限まで傷つけられた彼女に手を差し伸べることなく、それどころか化け物と罵り、追い立てて――


ふつふつと、身体の奥底から激流のようにせり上がってくるのは、もはや何をしても抑えようのない怒りだった。


あんな姿になるまで彼女を虐使した八條家に。

彼女を助けるどころか、一片の優しさや哀れみさえ向けようとはしなかった周囲の人々に。


そして、何より、


「何が、助けたい……だ」


耳の奥に響くのは、かつての自分が梔子に言った言葉。


――私はもうずっと貴女に助けてもらってばかりだから……私に力になれることなら、貴女の助けになりたいんだ。


自分を殴り殺してやりたくなる。

紅月は、彼女を助けることができなかった。

彼女が一番苦しんでいる時に、助けを求めている時に、紅月は何一つ救いになることができなかったのだ。


兄の時と、同じだ。

紅月は、また――大切な人を守ることができなかった。


「あ、ああ……あ」


堪えることは、できなかった。

それは怒りか、憎悪か、絶望か。

燃え盛る炎のような激情が、全身を暴れ回り、喉を突き破って溢れ出す。


「あああああ、ああああああああああああああぁぁぁぁっ……!!」


……そうして、どれほどの間、絶叫し続けていただろうか。


声はとっくに()れていた。

凍てついた夜のはずなのに、額やこめかみからはとめどなく汗が流れ落ちていく。


怒りで自分を焼き殺すことができていたなら、どんなによかったことだろう。


殺してやりたい。


ありとあらゆる責め苦を与え、無惨に殺し尽くしてやりたいほど、自分が憎くてならなかった。


……それでも。

彼女を。


「……連れ出さなければ」


こんな自分に、梔子と会うことなど許されるわけがない。

彼女と話し、触れる資格など、紅月には微塵もない。心の底からそう思う。


けれどきっと、あの地獄から彼女を救い出してくれる者など、いくら待てども現れることはない。


紅月が連れ出さなければ、彼女は一生、あの地獄で苦しみ続けなければならないのだ。


どうしたら、彼女を八條家から引き離すことができるか。

方法は……一つしか、なかった。


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