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十一.追想 ~会いたい~ ―3


「久しぶりね、紅月くん。しばらく見ないうちに、ずいぶん背が伸びて、立派になって……」

「貴女は……」


紅月の前に現れたのは、見知った人物だった。


葉室医院に入院していた頃、紅月の担当をしてくれていた、(みね)という名の看護師だ。


「梔子ちゃんのことを捜している人がいるって、人づてに聞いたのよ。あなたが退院して留学に出て行ってから、もう七年にもなるわよね。あなた、今までずっと、あの子のことを忘れないでいてくれたのね……」

「ありがとうございます。わざわざ訪ねて来てくださって。……知っていることがあれば、どんなことでもいいので教えていただきたいんです。大勢に聞いたが……なぜか、誰も、梔子がどうしているのかを知らないんだ」

「……そう。そうよね、当然だわ。そんなことじゃないかと思ってたのよ」


そうして峰は、重い口を開き、語り出した。



六年前の事故の折。

智行と佳江の亡骸、そしてたった一人生き残った梔子を引き取ったのは、当時医院で働いていた医者や看護師達だったのだという。


「智行先生には、連絡の取れる親戚がいなくて……私達でお墓を立てて、弔うことにしたのよ。梔子ちゃんには、先生や佳江さんが亡くなったことは、何も知らせないようにして……」

「知らせないように……? それは、どういう……」


わけがわからず問うと、峰はなぜか口をつぐんだ。

眉をひそめ、目をそらし、できることならこの先は話したくないといった風だ。


「峰さん」

「……あの子は、失ってしまったのよ。事故に遭う前の記憶を……すべて」

「…………!」


息の根を止められたかのようだった。

梔子は……紅月のことを、覚えていない。

ぐらりと、目の前が傾いで見える。

気を抜いた途端、膝から崩れ落ち、そのまま立ち上がれなくなってしまいそうだった。


「紅月くんのことも、きっとみんな忘れてしまっている。再び会ったところで、あの子はあなたのことがわからないのよ。それでも――」

「構いません」


内から突き上げる衝動に急き立てられるように、紅月は峰を問いただした。


「梔子に会うことができれば……それで構いません。どうか、彼女の居場所を教えていただけませんか」




その日のうちに、紅月は汽車に乗り、帝都に移動していた。


目的はただ一つ。

梔子を捜すためだ。


……峰は、知りうる限りのことを紅月に教えてくれた。


『梔子ちゃんのことは、怪我もしていたし、医院で面倒を見ていたんだけど……しばらくして、あの子の身内だと名乗る人が訪ねてきたの。先生が亡くなったのを新聞で知って、それで来たのだと言っていたわ』


梔子を引き取りに来たのだというその人物は、決して名乗ろうとしなかった。

むろん、誰だか知れない人物に、梔子を渡すわけにはいかない。

医院側はそう主張し、両者で話し合いの場が持たれることになった。


『副院長が、話し合いに出て……その後、梔子ちゃんはその人に引き取られていくことになったわ。でも、副院長は私達にはほとんど何も教えてくれなかった。強く口止めされたそうよ。ただ、帝都に暮らす高貴な方で、身元は確かだったからと……』


今となっては、その副院長も高齢のために亡くなっており、話を聞くことはできないという。


――身寄りのない梔子を引き取っていったのは、帝都にいる高貴な人物。

峰が知っていたのは、そこまでだった。


梔子は、帝都にいる。

それを知ることができただけでも、前進した。

とはいえ、帝都には数百万もの人々が暮らしているのだ。

そこから、どうしたら一人の娘を捜し出すことができるのか……


(……どうしたらいい)


弱気や焦燥を必死に抑え込み、努めて冷静であろうとした。


焦っても、どうにもならない。

着実に、梔子の行方を突き止めていかなければ……


彼女を捜すためにも、ひとまず居所を定めなければならない。

さっそく帝都に家を借り、紅月は行動を始めた。


唯一わかっているのは、梔子が高貴な人物のもとにいる、ということだ。


(高貴な人物……。まさか、華族か?)


……わからない。

ただ、可能性があるのなら、調べなければ。


とはいえ、やみくもに華族の屋敷を訪ね回って情報を聞き出すわけにもいかない。

紅月はまだ、この国では画家としてまったくの無名だ。

今のまま華族と接触を試みたところで、話をさせてもらうどころか、門前払いを食らうのが落ちなのだから。


そのため、まず予定通り、紅月はこの国で画業を始めることにした。

ひとたび評判をとれば、屋敷に飾るための風景画や肖像画が欲しいと、上流階級から依頼が入ることもあるだろう。


情報を集めるには、そこを起点にするほかない。


幸い、巴里にいるうちから同郷の画家に働きかけ、少しずつ築いていった人脈のおかげで、続けざまに仕事の依頼を受けることができた。


二、三か月も画業を続けると、紅月の絵は徐々に評価されるようになり、華族に近しい客層からの依頼も入るようになった。


しかし、そう簡単に目的の情報を得られるわけはなく。


……本当に、これで梔子の居所はつかめるのか。

疑心暗鬼に囚われながらも、紅月は毎日、梔子を探し続けた。


街を歩けば、華やかな服装をした娘にすれ違うたび、梔子ではないことに落胆する。


華族の邸宅が並ぶ住宅街にも足を運んだ。

偶然に彼女を見かけることがあるかもしれない。

どんなにわずかな希望だったとしても、縋らずにはいられなかった。


あっという間に夏が過ぎ、秋が来て、冬の足音が近づいてきた。

何の手がかりも得られないまま、時だけが虚しく過ぎ去っていく。


その日も情報は得られず、借家に帰るなり、紅月は畳の上に力尽きたように倒れ伏した。


……疲れた。

とても、とても……疲れた。


こんなにも疲れているのに、留学を終えて帰ってきてからというもの、紅月は少しも眠れなくなっていた。


けほ、と咳が出た。

喉がむずがゆく、身体は泥のようにずっしりと重い。


(風邪か……。何年ぶりだろう)


紅月はもともと身体が丈夫な方だった。

風邪など、物心ついた頃からほとんど引いたことはなかったのに。


……今は、寝込んでいる場合ではない。

それなのに、こんな時に限って、なぜ。


咳は止まらず、冬に差し掛かっているのもあって、凍えるような寒さが骨身に沁みた。


……けれど。

休むわけには、いかない。


どうにか起き上がり、明かりをつけて、向かうのは作業台だ。

今夜のうちに、図案をいくつか描いておかなければならない。

明日は、物語本の装幀について、名のある作家と打ち合わせをすることになっていた。


作家は、華族の出だった。

打ち合わせをする中で情報を聞き出す、その好機を逃すわけにはいかないのだから……


……寒い。苦しい。

悪寒は収まらず、咳もひどくなるばかりだった。

それでも、絶対に伏せるわけにはいかなかった。


(梔子……)


梔子に、会いたい。会いたい。

彼女に……会うんだ。

熱に浮かされながら、考えるのは彼女のことばかりだ。


いつか必ず、彼女を見つけ出す。

彼女を見つけて、会って。

そうしたら、紅月は……




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