十一.追想 ~会いたい~ ―2
七年ぶりに見る町は、ずいぶんと様変わりしていた。
見慣れない立派な建物が増え、道路は以前よりも広く、走りやすいように整備されている。
馬車や人力車は普通に走っているが、以前より車の数が多くなっているように見える。
(変わったな、この町は……)
そして、きっと……彼女も。
……まずい。
馬車を捕まえようとしたのに、気づけば紅月は路地裏に身を隠し、しゃがみ込んでいた。
あまりの緊張に、呼吸が速くなる。
手が震え、汗が滲んで、もはや馬車に乗るどころの話ではなくなっていた。
馬車が去っていくのを眺めながら、紅月はまたしても自己嫌悪に陥った。
懐中時計はもう、昼下がりの時刻を示している。
乗ろうと思っていた馬車をこうして見送るのは、これで三度目だった。
(情けないな……私は)
もう何年も梔子に会いたくてたまらなかったというのに、いざ帰ってきてみると、喜びよりも圧倒的に恐怖が勝った。
……もし、彼女が紅月のことなど覚えていなかったら、どうしたらいいのだろう。
あれから七年。
梔子はきっと、美しく成長していることだろう。
七年もあれば、さまざまな人との出会いがあったはずだ。
そして、美しく心優しい彼女に惹かれる男は、大勢いたはず。
だから、もし、彼女が紅月のことなど忘れ、他の男と想いを通じ合わせていたら。
もうとっくに、他の男のもとへ嫁いでいたら……
必死に否定しても、頭に浮かんでくるのは、他の男に微笑みかける梔子の姿ばかりだ。
どれだけ打ち消したくても、悪い妄想はどんどん現実味を帯びていく一方だった。
もし、別の男と一緒にいる彼女の姿を見たなら、今度こそ紅月は立ち直れない。
……どうしたらいい。
梔子のいる葉室医院に向かうのが、どうしても恐ろしくてならなかった。
(落ち着け。落ち着くんだ……)
せっかく帰ってきたというのに、いつまでも怖じ気づいていては話にならない。
(……梔子は、言ってくれていたじゃないか)
紅月の帰りを、ずっと待っていてくれると。
……そうだ。
優しく誠実な彼女を疑うなど、あってはならないことだ。
今、彼女の言葉を信じなくて、いったいどうする……
深く、深く、息を吐いた。
手の震えも、どくどくと高鳴る心臓の鼓動も、やはり収まらない。
けれど――もう、行くと決めた。
意を決して、紅月は路地裏を出て、馬車を捕まえた。
馬車に乗り込み、御者に行き先を告げる。
しかし。
御者から返ってきたのは、思いもよらない反応だった。
「葉室医院だって?」
御者が見せたのは、困惑した表情だった。
「お客さん、知らないのかい? あの病院は……」
そうして、御者が告げた言葉に。
頭が、真っ白になった。
馬車から降りるなり、紅月は走った。
だって、信じられるわけがない。
(……嘘だ)
御者が紅月に教えてきたのは、想像もしなかった話だった。
『葉室医院はもうとっくになくなってる。あそこの先生が死んじまったんだよ。今から五、六年は前だったかな』
御者が言っていたのは、きっとたちの悪い冗談だ。
(智行先生が……、死んだ……?)
そんなことが、ありえるはずがない。
焦燥に駆り立てられるがまま、紅月は病院に続く路を駆け足で進んでいく。
この路は、昼間は患者や見舞い客の往来があったはず。
それなのに今、紅月は誰ともすれ違うことがなかった。
不気味なほどあたりは静かで、どこまで行っても、風や蝉の声しか聞こえてこない。
やがて、紅月がたどり着いたのは。
「―――……」
目に飛び込んできた光景に、ただただ、立ち竦むことしかできない。
夏だというのに、身体が芯から冷え切っていく。
……そこには、何も、なかった。
かつて病院のあった場所には何もなく、ただ、丈の長い草が茂っているばかりだった。
(嘘だ……、嘘だ。いったい、なぜ……?)
やがて紅月は、竹藪の中に紛れるようにして立つ墓石の存在に気づく。
ふらつく足取りで墓石に近づいていき、そこに刻まれていた名に、いよいよ正気を失いそうになった。
梔子の両親は……智行と佳江は、すでに亡くなっている。
悪い夢を見ているのだと、そう思いたかった。
今、見ているものは、すべて夢だ。
本当は、紅月はまだ船に乗っていて、ひどい夢を見てしまっただけ。
ならば、早く、早く、目を覚まさなければ……
けれど、どれほど願おうと、目の前の悪夢が覚めることはなく。
つうっと冷えた汗が、こめかみを流れ落ちていった。
その冷たさに、紅月ははっと我に返った。
「梔子は……?」
彼女はどうしたのだろう。
墓石に刻まれていたのは、智行と佳江の名だけだった。
ならば彼女は、今、どこにいるというのだろう。
居ても立ってもいられなかった。
来た路を引き返し、人を探す。
この町に知り合いはいない。
とにかく、すれ違う人を捕まえ、話を聞いていくしかなかった。
「昔、葉室医院にいたお嬢ちゃんかい? 外国の人みたいな色の髪をした……」
「そうだ。梔子……彼女がどこにいるか、知らないか?」
何人も呼び止め、梔子の行方を尋ねた。
――確か、子どもは助かったって言ってたかな。でも、どこに行ったかまではわからないねえ……
――汽車の事故に遭ったって聞いてたよ。家族で出かけて、その先で……
その日のうちに得られた情報は、それだけだった。
智行と佳江が事故で死んだことは、皆知っている。
けれど梔子の消息だけは、どういうわけか、誰一人として知っている者がいないのだ。
(……どうなっている。梔子……貴女は今、いったいどこにいるんだ……?)
眠れぬまま、宿で夜を明かした。
翌日も、その次の日も、紅月は梔子の行方を知る人を探し、方々を訪ね歩いた。
そうして、一週間以上も経った頃のことだろうか。
紅月と話がしたいと言って、宿を訪ねてきた人がいた。