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十一.追想 ~会いたい~ ―1


紅月(こうげつ)にとって、巴里(パリ)での日々は苦難の連続だった。


まず、予想していた通り、なかなか言葉が通じない。

発音が間違っているせいでこちらの意図が伝わらないのは日常茶飯事。


笑われたり、白い目で見られたりしたことは数知れなかった。


買い物に出れば言葉巧みに騙され、法外な金額を要求されたり、金銭を盗まれたことすらある。


問題なく会話ができるようになり、生活に馴染めたと思えたのは、巴里で過ごすようになって一年も経った頃のことだった。


そして苦労したのは、言葉ばかりではない。


芸術の都と呼ばれる巴里には、己の理想を追い求めて情熱を燃やし、才能溢れる人々が大勢集まってきていた。

同じ年頃でありながら、紅月より何歩も先を歩いているような優れた学生も多く、彼らの絵を見るたびに、紅月は刺激を受けつつ、焦りにも駆られた。


……本当に、ここで頭角を現すことなどできるのだろうか。

自分には、大した才能などなかったのではないか。

他の若者達が描く絵に比べたら、自分の描くものなど、陳腐でつまらないものばかりなのではないか……


眠れぬ夜を幾度となく乗り越えることができたのは、梔子(くちなし)のおかげだ。

孤独に打ちひしがれ、心が折れそうになるたびに、紅月を支えてくれたのはいつも彼女がくれた言葉だった。


――大丈夫ですよ。紅月さんなら、絶対に。今日までずっと……あなたが寝る間も惜しんで努力してこられたのを、私は見ていましたから。

――どうか、ご無理はなさらないで。私はここで、紅月さんのお帰りをずっとお待ちしています。


……そうだ。

紅月の帰りを、梔子は待っていてくれている。


また、彼女に会いたい。

国に帰ったら、彼女は喜んでくれるだろうか。

優しく、涙もろい彼女のことだ。

彼女なら、泣いて再会を喜んでくれるかもしれない。

そうしたら、彼女の涙を拭って、この腕に抱きしめて、そして……


(梔子に……彼女に、会いたい)


彼女のためなら、どんなことでも耐えられた。

人からどれほど笑われようと、思うように結果の出ない日々が続こうと、挫けるようなことはなかった。


寝食を忘れ、身を削るようにして、毎日、毎日描き続けた。


描くことに夢中になるあまり何日も食事を抜き、静貴に介抱されたことは数知れない。

ひとたび集中してしまうと、他の何もかもを差し置いて描くことに没頭してしまう。

そんな紅月の性格を案じてか、静貴はたびたびアトリエに顔を出してきたからだ。


「紅月……。きみはいったい、何度アトリエで餓死しかければ気が済むんだね。毎度毎度、床で気絶しているきみに出くわす僕の身にもなってくれないか」

「……うるさい。別に、お前には関係ないだろう。もっと小さい声でしゃべってくれないか。頭に響くから……」

「いつか国へ帰って、恋人に会うんだろう」

「…………」

「彼女に会う前に身体を壊したら、元も子もないだろう。いいか紅月、きみはもっと、自分で自分をいたわりたまえ! だいたいにしてだね、きみはいつも……」


ぼうっとした頭で静貴の説教を聞き流しながら、考えるのはやはり梔子のことだった。

ここにいるのが、彼女だったら。


(彼女も……きっと怒るだろうな)


梔子は控えめで大人しいけれど、主張すべきことはきちんと主張する、芯の強さを持った少女だった。


さすがに疲れすぎたせいだろうか。

聞こえてきたのは、幻聴だ。


退院後まもなく、身を粉にして日々を過ごしていた紅月に、梔子がかけてくれた言葉。


――紅月さん。だめですよ、そんなに無理をしては……。お願いですから、もっとご自分を大切にしてください。


……会いたい。

泥のような眠りに落ちながら、ただ、それだけしか考えられなかった。


会いたい。

会いたい。

梔子に、会いたい……




そうして、がむしゃらに絵に向き合ううちに、月日は流れていき……

紅月が巴里の地に降り立ってから、七年もの月日が過ぎ去っていた。


はじめこそ孤独だった紅月だが、今ではずいぶんと友人も増えた。

血の滲むような努力の成果も徐々に現れ、仕事の依頼が次々と舞い込むようになったし、展覧会での上位入選も幾度となく果たした。


ようやく紅月は、画家と名乗れるだけの技術や実績を得ることができたのだ。


(やっと……やっと、ここまで来た)


静貴の協力や、巴里で出会った同郷の画家の伝手を頼り、国に戻った後に着手する仕事の目途も立った。


この分ならば、国に帰っても画家として暮らしていける。

梔子を迎えても、不自由のない暮らしをさせられるはずだ。


(やっと……彼女に、会える)


友人や仕事仲間に惜しまれながらも、紅月は巴里を去った。

船に乗り、向かうのは祖国。

――彼女が待つ、あの町だ。



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