十.追想 ~喜びをくれた花~ ―23
「ほんの少しですけど、その……。お弁当を作ったんです。今朝、何も食べていらっしゃらないのなら、ちょうどよかった。お口に合えば、よいのですけれど」
「お弁当……。貴女が……?」
つかの間、紅月はどういう反応をしたらいいかわからなかった。
……あまりにも、嬉しすぎて。
梔子はやがて、紅月が困惑しているものと思い込んだらしい。
顔を真っ赤にして、弁当の入った包みを取り戻そうと手を伸ばしてくる。
「ご、ごめんなさい! やっぱり、ご迷惑でしたよね。それは持ち帰りますので――」
「いや、待ってくれ梔子。まったく迷惑なんかじゃないよ。むしろ、嬉しかったんだ。貴女が、私のために作ってくれたんだと思うと……」
まるで……夫婦、みたいで。
(……いや、私はいったい何を考えているんだ)
つい頭の中で膨らんでしまった妄想を振り払い、必死に平静を装った。
梔子と想いを確かめ合って、まだ数か月しか経っていない。
しかも紅月はまだ十七で、学生の身だ。
自分で稼ぎを得る術すら身についていない。
それなのに、まさか彼女との結婚を夢想してしまうなど、さすがに浮かれすぎているんじゃないのか。
けれどまもなく、紅月は気づく。
巴里で多くの経験を積み、画家として身を立てられるようになるのが、この留学での目的だった。
……だから、もし、紅月がこの国に帰ってくるとしたら。
それはいったい、何年後になるのだろう。
五年か、十年か。
あるいは、もっとかかってしまうのか――
いずれにせよ、ここに戻ってくるとしたら、紅月はもうとっくに大人になっているだろう。
梔子も、結婚を考えるような年齢になっているはずだ。
それなら……
「……梔子」
「はい」
心を決め、紅月は切り出した。
「私は、貴女をどれほど待たせることになるかわからない。もうずっと何年も、ここには帰ってこられないかもしれない」
「……はい」
留学の目的についてや、何年後に帰国できるかわからないことは、もうすでに梔子には伝えてあった。
彼女は頷き、まっすぐに紅月を見つめてくる。
「それでも……待っていてくれるだろうか。私は必ず、外つ国で名を上げてここに帰ってくる。その時は、どうか」
……どうか。
梔子の手をとり、ありったけの勇気を奮い起こして、紅月は告げた。
「貴女に……結婚を申し込んでいいだろうか」
「…………!」
……言ってしまった。
言ってから、猛烈な後悔に襲われた。
やっぱり、どう考えても気が早すぎる。
紅月は、梔子が好きだ。
彼女への想いは日に日に強まっていくばかりで、いずれ結婚するとなったら、相手はもはや彼女以外には考えられないほどだった。
けれど、梔子はどうだろう。
彼女にとっては、紅月の想いは重荷にしかならないのではないか……?
梔子は、目を大きく瞠って紅月を見ていた。
彼女の唇は、震えていた。
やがて今にも消え入りそうな小さな声で、彼女は紅月に尋ねてくる。
「……しで……いいのですか……?」
「梔子……?」
「私で……いいのですか? 私を、あなたの……お嫁さんにしていただけるのですか……?」
……かつて、こんなにも全身が幸福に満たされたことがあっただろうか。
自惚れなどではない。
梔子は、紅月の申し出を受け入れてくれていた。
紅月と同じ想いを抱いてくれていたのだ。
そう思えば、また我慢ができなくなる。
「――……ん……っ……」
梔子の肩を抱き寄せ、頬に触れて、唇を重ねた。
彼女が堪えきれずに漏らした声が、耳朶を甘やかにくすぐってくる。
……これが、最後。
船に乗ればもう、再びこの地を踏むまで、彼女と触れ合うことは一切できない。
そう思えば、たった一度の口づけだけで足りるわけがなかった。
「あ……、紅月、さん……っ」
唇を長く、深く触れ合わせる。
何度も、何度も、角度を変えて。
そうして口づけを繰り返せば繰り返すほどに、彼女に対する熱情にも似た欲求は、収まるどころか手がつけられないほど強くなるばかりだった。
……残酷だ。
心からそう思う。
これから何年も、梔子に触れるどころか、言葉を交わすことすら許されないなんて。
他のすべてを忘れ、ただひたすらに彼女を求め続ける。
梔子は、懸命に紅月に応えてくれた。
時おり聞こえてくる彼女の声はけなげで、どうしようもなく可愛らしくて、それがますます欲情を煽った。
ようやく我に返ることができたのは、彼女が必死な表情で紅月の胸を押し返してきたからだ。
「……ん、んっ……っ! ……だ、だめです、紅月さん。もうすぐ……船が、行ってしまいますから……!」
「あ……」
梔子の言うとおりだ。
出航の時はもうまもなく。
彼女が止めてくれなければ、紅月は危うく船に乗り損ねるところだった。
「……ありがとう、梔子。つい……夢中になってしまった」
「い、いえ……」
今になってやっと、自分がどれほど我を忘れて彼女を求めていたかに気づいて、急速に顔が赤らむのを感じる。
「……迎えに行くよ。この国に戻ったら、真っ先に貴女を迎えに行く。貴女を……私の、花嫁として。その時は、どうか」
「……はい」
梔子は、両の瞳を潤ませながら、頷いてくれた。
「はい。紅月さんのこと……ずっと、ずっと、お待ちしています」
……そうして、紅月は梔子と別れた。
彼女は波止場に立ち、姿が見えなくなるまで船を見送ってくれていた。