十.追想 ~喜びをくれた花~ ―22
それからも、時は飛ぶように過ぎていった。
画塾に復帰し、何もできなかった一年もの時間を取り返すように、ひたすら描くことに打ち込んだ。
そのかたわら、留学の準備も着々と進めていった。
もはや誰も住む人間のいなくなる屋敷を売却し、長年篁家に仕えてくれた廉寿にも、多額の退職金を渡して暇を出した。
廉寿は最後まで、紅月の身を案じていたものだ。
「紅月さま。最後にもう一度、あなたさまに謝罪させていただきたく存じます。私めはどうしても、己を責めずにはいられないのでございます。もし……もし、もっと早く、夕弦さまがご病気になられたことを、あなたさまにご連絡できていたらと思うと……」
夕弦が危篤に陥ったあの日。
画塾にいた紅月が夕弦のもとに駆けつけることができたのは、廉寿がくれた電報のおかげだった。
当時の使用人達の中には、両親から冷遇される夕弦を哀れむ者も多かった。
廉寿もまた、その一人だ。
けれど、当主である弦月の意向に逆らうことはできない。
そんな中、廉寿は弦月の目をかいくぐり、紅月に電報を打ってくれたのだ。
「廉寿。あの時、お前が知らせてくれたから、私は兄上を看取ることができたんだ。お前がいなければ、私は最期に兄上に会うことすらできなかった。だから、どうかもう自分を責めるようなことはやめてくれ。今まで本当にありがとう、廉寿。お前には、どれだけ感謝してもし尽くせないよ」
「紅月さま……」
そうして、廉寿は深々と頭を下げ、紅月のもとを去っていった。
日々はそのまま、目まぐるしく過ぎていき――
波の打ち寄せる音に混じって、鴎の鳴く声が響いている。
季節は夏。
空は高く晴れ渡り、青々と澄んだ海が目の前いっぱいに広がっていた。
……今日、ついに紅月はこの国を出る。
間近にした船は見上げんばかりに巨大だった。
これから何日もこの船に揺られ、海を渡って未知の国へと向かうのだ。
「……いよいよ、ですね」
「ああ……」
紅月を見送りに来てくれた梔子もまた、船の大きさに圧倒されているようだった。
退院してからというもの、ずっと忙しくしていた紅月だったが、そんな中でも時間を作り、梔子に会うために何度か帝都を出ていた。
絵の制作に、仏蘭西の言葉の勉強、篁家の私財の整理。
退院して早々、紅月は寝る間もほとんど取れないような日々に見舞われた。
何か月もの間、そんな過酷な毎日を乗り切ることができたのは、会って話すたびに梔子に癒やされていたおかげだった。
今振り返ってみれば、梔子は会うたびに紅月を気にかけてくれていた。
少しでも目の下に隈を作っていこうものなら、彼女は目ざとく気がついて叱ってきたものだ。
『紅月さん。昨日の夜は、ちゃんと眠りましたか? 日付が変わる前には寝ないと、身体を壊してしまいますよ』
『また寝ずに勉強をされていたのですが? だめですよ。紅月さんはそうやっていつも、すぐに無理をしてしまうんですから……』
梔子を心配させたくないと思いつつ、彼女がそうやって気にかけてくれるのが本当に嬉しかった。
そして今日もまた、寝不足のまま朝を迎えたことなど、彼女にはお見通しだったらしい。
「紅月さん。昨夜も、ほとんどお休みになっていませんよね?」
つい、ぎくりとなって苦笑いを浮かべてしまう。
やはり、彼女を前に隠し通すことはできなかったようだ。
「……相変わらず、貴女の目は欺けないな。どうしてそう、すぐに気づいてしまうのかな」
「何となく、そんな気がしたのと……それから、顔色があまりよくないように見えましたから。もしかして、今日は起きてから、何も食べていないのではありませんか?」
「…………」
本当に、彼女には何もかもお見通しだ。
観念して、紅月は白状する。
「……昨日は、なかなか寝付けなかったんだ。いよいよ明日、ここを出るのだと思うと、どうしても緊張してしまって」
梔子の前では、意地でもそんな素振りは見せるかと思っていたけれど。
……正直なところ、ここ最近、紅月は幾度となく緊張に押しつぶされかけていた。
何せ、巴里には世界中から才能溢れる芸術家達が集まってくるのだ。
そんな場所で、紅月の持つ技術は通用するのか。笑い者になりはしないか。
言葉も通じず、知り合いも誰一人としていない中で、本当に巴里でうまくやっていけるのか――
そんなことをえんえんと考えるのをやめられず、ようやく浅い眠りについた頃にはもう空が白み始めていた。
おかげで寝坊までしてしまって、出発の朝だというのに踏んだり蹴ったりだったのだ。
「……紅月さん。少しだけでいいですから。手を、出していただけませんか」
「手を……?」
梔子が何をしようとしているのかはわからなかったが、言われた通りに彼女の前に手を出した。
すると梔子は、紅月の手にそっと触れてくる。
どきりとして息を詰めると、彼女はそのまま包み込むように紅月の手を握り、心配そうに言った。
「手が、とても冷えています。それに……」
気づかれていた、と思った。
梔子の言う通り、紅月の手は今、真夏にもかかわらず氷のように冷え切っていた。
出発が近づくにつれ、冷えるばかりか、震えが止まらなくなっていたことにも、彼女にはとっくに気づかれていたのだろう。
これ以上はもう、梔子に情けないところは見せたくない。
そんな思いで、紅月は努めて明るい声を出そうとした。
「平気だよ、梔子。これは、たぶん……武者震いとか、そういうものだと思う。放っておけばそのうち――」
「大丈夫ですよ。紅月さんなら、絶対に。今日までずっと……あなたが寝る間も惜しんで努力してこられたのを、私は知っていますから」
「…………」
まるで紅月の不安を汲み取ったかのような梔子の励ましに、思わず言葉を失ってしまう。
「どうか、ご無理はなさらないで。私はここで、紅月さんのお帰りをずっとお待ちしています。またお会いできる時まで……どうか、お元気で」
「……まいったな。本当にかなわないよ。貴女には」
いつも、梔子にはこうして元気づけられてばかりだ。
彼女の手に温められたおかげなのだろうか。
いくら気を紛らわせようとしてもどうにもならなかった手の震えが、少しずつ収まっていく。
……梔子が、ここで待っていてくれる。
そう思うだけで、不思議と力が湧いてくるようだった。
たとえどんな困難があったとしても、紅月は挫けずに乗り越えていける。
そんな気がしたのだ。
そしてついに、船に乗る時間が訪れる。
「あの、紅月さん。よかったら、これを」
そう言って、梔子が差し出してきたのは小さな布包みだった。