二.優しさといたわりと ―1
どこからか鳥のさえずりが聞こえた気がして、梔子はふと目を開けた。
早朝の淡い光を透かす障子戸。
頬に触れる、清々しい朝の空気。
――近くの家で飼っているのだろうか、薄闇にはっきりと響き渡る雄鶏の声。
「――……っ!」
梔子は冷や水を浴びせられたように飛び起きた。
寝坊をしてしまった。
とっさにそう思ったからだ。
梔子の朝は、屋敷の誰よりも早い。
使用人達よりもずっと早く起きて水仕事や朝餉の下準備を進めていなければ、梔子を待っていたのは手ひどい折檻だったのだから。
急がなければ。
すぐに支度をしようとして、梔子はふと動きを止める。
周囲を見渡し、自分が今いる場所を確かめた途端、一気に力が抜けていく。
(ここは、八條のお屋敷じゃない。私はもう……)
身体はぽかぽかと温かい。
今、梔子が身にまとっているのは、真新しい香りのする清潔な寝間着だ。
もう何年も繕って使い続けたぼろぼろの着物ではない。
とっさに押しのけた布団も、色あせて黴の匂いのする代物ではなく、日なたの香りをはらんだ暖かくふかふかなものだった。
今、梔子がいるのは、八條家の物置部屋ではない。
ここは篁家の屋敷。
梔子は、篁紅月の婚約者になった。
もう、一挙手一投足をなじられ罵られながら、普通の使用人の倍ほども働かされるようなことはないのだ。
「おはよう、梔子。もう起きているかい?」
「は、はい! おはようございます、紅月さま。申し訳ありません、たった今起きたばかりで……」
その時ちょうど、戸の向こう、廊下から紅月の声が聞こえて、梔子は慌てて声を上げた。
すぐに彼の穏やかな声が返ってくる。
「そうか、ゆっくり休むことができたのならよかった。朝餉の支度ができたから、伝えに来たんだ。箪笥の中は見てくれたかな? 着替えが終わったら居間においで」
急がなくていいからね、と言いおいて、紅月の足音は遠ざかっていった。
(箪笥……)
紅月の言っているのは、鏡台の近くに置かれた桐箪笥のことだろう。
引き出しにそっと手を伸ばし、中を覗く。
たまらず目を瞬き、声を漏らしてしまった。
「……綺麗」
そこに入っていたのは、美しい着物だった。
触れてみるとさらりとしていて、麻で仕立てられていることがわかる。
白地に青い蝶が描かれた、夏らしく涼しげな一着だ。
あざやかな藍色に染め抜かれた帯も添えてある。
これから本格的に迎える夏の間、梔子が使う日常着として、彼が用意してくれたものなのだろう。
(ありがとうございます、紅月さま)
込み上げてきた深い感謝を心の中で告げながら、梔子は手早く着替えをすませた。
庭にある井戸へ行って顔を洗い、紅月が待っているであろう居間へと向かう。
けれど、急がなければいけないとわかっているのに、居間に近づくにつれて歩みは遅くなってくる。
理由ははっきりしていた。
紅月がくれた新しい着物をまとっているせいだ。
ついに居間の前までたどり着いてしまい、梔子は胸に手を当てた。
速まっていた心臓の鼓動を少しでも落ち着けようと、息をつく。
それから、思い切って引き戸に手をかけた。
「失礼いたします」
こわごわと顔を上げれば、縁側にいる紅月の姿が視界に映った。
その手元には書物。
梔子を待つ間、彼は読書をして過ごしていたらしい。
彼は梔子の方を振り返ると、一瞬大きく目を見開いた。
まもなく、端正な横顔にほっとしたような微笑みを浮かべて、彼は言う。
「よかった。よく似合っているよ、梔子。着心地は悪くないかな」
似合っている。
その一言に、それまでの緊張が一気に喜びに変わっていくのを感じた。
瞬く間に頬が熱を持つ。
なぜだかそれ以上紅月の顔を見ていられなくなって、梔子は思わず顔を伏せた。
……こんなふうになるのは、昨夜からだ。
どうしても、梔子が落ち着くまで紅月がそばにいてくれた、昨夜のことを思い出してしまう。