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序.舞踏会の夜 ―求婚―


静かな夜風に、咲き初めの薔薇が(かぐわ)しく匂い立つ。


それは、月の美しい夜だった。

冴え冴えとした月の光が、八條家の広い庭園をほの白く照らし出している。


その月明かりの下。


「――……っ」


くちなしは、暗闇を求めて無我夢中で走っていた。

喉が熱い。

痛くて、苦しくて、呼吸すらままならなかった。


どこへ向かったらいいのかもわからないまま、走って、走って、走り続けて。


……庭池のほとりに(たたず)む、西洋風の東屋(あずまや)

その柱に勢いよく頭からぶつかったのは、それからまもなくのことだった。


ぐらぐらとした目眩(めまい)に耐え切れずに、その場に膝から座り込む。


くちなしの手から滑り落ち、地面に転がり落ちたのは、無惨に歪んで真っ二つに割れた、小さなロケットペンダント。


蓋部分の薔薇のカメオが砕けているのを目にした瞬間、くちなしはもう、我慢することができなくなった。


「……あ、あぁ……う、ああぁっ……!」


ペンダントは、くちなしが八條家に引き取られてくる前から持っていた、とても大切な品だった。


虐げられ続けるくちなしにとって、たった一つしかない宝物。


だから、ずっとずっと、大切にしてきたのに。


……従姉(いとこ)に、見つかってしまった。

何度も靴底で踏みにじられ、もう自分では修繕のしようがないほどに、無惨に壊されてしまった……


もう、どうしたらいいか、くちなしにはわからなかった。


他のことだったら、どんな仕打ちでも耐えられた。

どんなに打たれ、罵られても、ペンダントさえあれば耐えられた。

ペンダントを握りしめて眠れば、かつての幸せだった記憶を思い浮かべ、ほんの一時でも自分を慰めることができたのに。


けれど、そんなささやかな慰めを得ることすらも、もう二度と許されなくなってしまったのだ。


暗がりに身をひそめ、声を押し殺して泣き崩れる。


屋敷のある方角からは、楽団の奏でる優雅な音楽が流れてきていた。

そこには、今宵の舞踏会に招かれた紳士淑女達の笑い声も混じっている。


誰も、こんなに暗い庭の隅まで足を向けるはずはない。

だからくちなしは、誰にも気づかれることなく、しばらくの間ずっと泣き続けることができたはずだったのだ。


それなのに。


「こんばんは。白銀の髪のお嬢さん」

「…………!」


突然耳に飛び込んできた声に、くちなしは(はじ)かれたように振り返った。


「こんなにも美しい夜に、貴女(あなた)はなぜ、悲しげに涙に暮れているのかな?」


絹地を思わせるような深く(つや)やかな声が、あたりの宵闇を震わせて響く。


「――……」


思わず、言葉を失ってしまった。


月を背にして立っていたのは、あまりにも美しい男だった。


呆気に取られたせいで、つかの間、それまで泣いていたことすら忘れ去ってしまったほどに。


満月の下、ほのかな銀光をまとっているように見えるのは、濡れ羽色をした流れるような長い髪。


その瞳の奥底には、彼岸花のような真紅が揺らめいているように見える。


あでやかな美貌は浮世離れしていて、そこはかとない色香を漂わせていた。


(この方は……)


仕立てのよい夜会用の洋装は、彼もまた、今宵の舞踏会に招かれた客であることを意味していた。


問いに答えることもできずに座り込んだままでいると、彼はくちなしの前に屈み込み、ロケットペンダントを拾い上げて差し出してくる。


「これは貴女の落とし物なのかな。どうやら壊れているようだが」

「……すみ、ません」


掠れた声をどうにか絞り出し、ペンダントを受け取る。


手のひらになじんだ、ひんやりとしつつも温かな金属の感触に、また目頭が熱くなってくる。


(そうよ。完全になくなってしまったのではないわ……)


捨てられてしまったわけではない。

形は歪んで蓋もしめられなくなってしまったけれど、それでも、ペンダントは確かにここにあるのだ。


もう二度と、奪われてはいけない。


ぎゅっとペンダントを握りしめていると、再び彼の声が聞こえてくる。


「……そのペンダントは、貴女にとって、とても大切なものなんだね」


口を開けば嗚咽(おえつ)を堪えきれなくなりそうで、声を出すことができない。


その代わりに、俯いたままうなずいて返事をした。


すると、彼は続けて尋ねてくる。


「貴女が泣いているのは、そのペンダントが壊れていることと関係があるのかな?」

「…………」


くちなしの沈黙を、青年は肯定と解してくれたようだった。

少し考え込むような間があった後に、彼は切り出す。


「そうか。ならば、もし、そのペンダントがもとのように直ったならば、貴女はもう、悲しまなくてよくなる。泣き止んでくれる……ということになるのだろうか」

「…………!」


思わずはっとして顔を上げてしまった。


ほろりと涙が零れる。

視線がぴったりと重なる。


けれど、彼の瞳からは、その真意を読み取ることはできなかった。


彼はくちなしのそばに(ひざまず)いて目線を合わせ、優しく微笑んで名を告げた。


「私の名は(たかむら)紅月(こうげつ)。通りすがりの、しがない絵描きだよ」

「篁、さま……?」


くちなしは耳を疑った。

しがない絵描き、なんてものじゃない。


篁紅月。

さして美術に造詣(ぞうけい)が深いわけではないくちなしでさえ、その名を耳にしたことがある。


帝都中の娘たちにとっての、高嶺の花――


紅月が数年間の留学を終えて帰国したのは、つい一年ほど前だという。

()つ国で画家として大成した彼の描く絵は、どれも優美で幻想的。

まもなくこの国でも話題となり、多くの人々の知るところとなった。


そんな絵を次々と発表する紅月が、とても美しい人だとは聞いていた。


けれど、実際に会ってみて、それは間違いだったと思い知らされる。


……だって、美しい、だなんて言葉ではとても足りない。


彼はまるで、遠い昔に読んだお伽噺から飛び出してきた、夜の精霊のようだ――


呆然として何も答えられずにいれば、紅月はさらに、くちなしが予想だにしなかった言葉を告げてくるのだった。


「私は貴女に、取引を持ちかけたいんだ。貴女が私の願いを叶えてくれるというのなら、私は貴女の大事なペンダントを直してあげよう」

「願い……ですか?」

「そうだ。貴女にしか叶えられないことなんだよ」


わけもわからず問い返せば、彼は冷え切ったくちなしの手をそっと取った。


それから、長い睫毛(まつげ)に縁取られた目を細め、笑みを深めて、


「月の女神もかくやあらん、白銀の髪の麗しきお嬢さん。貴女には、私の妻になってもらいたいんだ」


それは、聞き間違えるはずもない――

くちなしに対する、求婚の言葉だった。




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