この世界の組織
車に揺られること数十分。
渡されたシャツとジャケットを纏った紅華は、閑静な住宅街に見合わない厳かな屋敷に着く。
茗泽の日本拠点だ。
「嫌いなんだよな、この雰囲気」
重々しい門を潜ればそれはそれは素晴らしい日本庭園が両脇に広がっており、両脇の庭の中心に桜の樹が一本ずつ植えられている。
見る人が見れば絶賛ものらしいが、紅華にはよく分からない。
日本庭園を分断するように屋敷まで繋がっている道には両端に幾人ものの茗泽の手下が頭を下げている。
『おかえりなさいませ、紅華様』
『帰ってきた訳じゃねえ』
一番手前にいた男に言われて思わず反発する。
今日は報告に来ただけだ。好きでこんなところに来るほど紅華は趣深い人間ではない。
真っ直ぐ続く道を進めば、後ろで門が閉まる音がする。
その音を聞いてか否か、細身の銀縁眼鏡が屋敷から出てくる。景だ。
「おかえりなさいませ」
「だぁら帰ってきてねえって。ただの報告だろうが」
フフフと笑う銀文眼鏡の奥の眼を見て、紅華は眼鏡をかち割りたくなったが、なんとか理性が働いた。
この男は、この中じゃ上層部だ。下手に逆らえば茗泽に殺される。
「では、行きましょう。茗泽様がお待ちです。あと、分かってるとは思いますがここでは───」
「分かってると思ってんなら言うな。景さん、だろ」
「ええ、確認ですよ」
この世界、世間的には黒社会と呼ばれるアジアンマフィア。その一端を担う茗泽の組織は完全な縦社会だ。
ヒエラルキー上位に下位が逆らえば頭と首が簡単におさらばする。
紅華と景は、景の方が立場は上だ。
というか、紅華は茗泽の組織の直属の部下ではない。ただ傘下で茗泽達から依頼を受けているだけの謂わば取引先だ。
そうなると、直属の部下、茗泽の側近である景の方が必然と立場は紅華から見れば上になる。
紅華も景も、普段は気にしていないのだが、これだけの部下の目の前、景よりも下の人間に舐められた態度をとられては景の示しがつかない、というわけだ。
(力だと私の方が上なのにな)
見掛けを装うのは紅華の得意技だ。素直に従う。
紅華だって景に舐めてかかって、景を慕っている部下に首ちょんぱされたくはない。そういう状況になれば紅華もやり返したくなって、最終的に抗争になりかねない。
そんな人生の末を向かえるのは御免である。
仰々しい屋敷に入って、長く続く廊下を景に続いて進んでいくと、廊下の真ん中にある大きな扉の前に着く。茗泽の部屋だ。
『武器はこちらで預かります』
『はいはい。あ、ついでに直しといてくれます?』
『承知しました』
扉の警備についていたガタイのいい男がどこからか取り出した盆に、紅華が持っていた銃とナイフを渡す。
『確かにお預かりしました』
「では、入りましょうか」
扉に向き合っている景が扉をノックする。
「失礼します。紅華様をお連れしました」
気味が悪いほどの丁寧さと、周りから感じる緊張感。
紅華がこの屋敷を嫌う理由の一つだ。
中から低く渋い声が聞こえる。それを聞いて景は扉を開ける。
「やあ、待ってたよ」
「お待たせしました。この間振りですね」
「そうだね。まぁ、座って話そうか。飲み物は何がいいかな?」
至極穏やかに問いかける茗泽に、紅華は目を向ける。
葉巻を咥えて、なんとも偉そうに据わっている。もちろん声に出して言わないが。
促されるまま、いかにも高級なソファに座る。普段の癖で足を組まないように意識する。
「水で結構です」
「そうかい。景、頼めるか?」
「御意」
そう言ってすたすたと部屋の中にあるドリンクスペースに歩いていく。
「さて、話を聞こうか」
茗泽が紅華の後ろに目配せする。紅華の護衛と監視についていた男達を見ているようだ。
その目は圧力に満ちている。
後ろに控えていた男達は皆部屋を出ていき、部屋には紅華と茗泽と景のみになった。
扉が閉まる音がした瞬間、紅華は体制を崩して、背もたれに上半身の体重を預け、脱力した。
「話すも何も、ちっと息を吐かせてくれよ…あんな輩共に囲まれたら呼吸が出来んわ」
「そうかい?皆いい子達だよ」
「裏切られといて何言ってんだか」
今さっき殺してきた胡散臭い男こと船塚早春のことである。
大抵目処はついている。早春はもともと組織にいた人間だ。会ったことのない紅華でさえ名前を知っているほどの古株。そいつが直接対決を紅華に申し込んできた。
「どうせ、私をエサに釣ろうとしたんだろうな。浅はかの極み」
紅華をエサに茗泽、もしくは茗泽に近しい上層部を呼び出して、あわよくば亡き者にしてやろうだとか、早春が上に立とうだとか、そんな算段だろう。
この世界を舐めたやつの末路はこんなもんだろう。なんなら模範解答だ。
「早春であることに気付いたのは意外だったな」
「名刺の名前に見覚えあっただけ。殺してから知ったし」
「会ったことがない人の名前を覚えているだけ、及第点ですよ」
景がコップとカップをもって紅華たちの前に置く。
「誰かさんがずーっとそいつの話してたからだわ」
「あら?存じ上げませんね?誰でしょう?」
早春は景の育ての親的存在だ。
この世界のルールも、茗泽のことも、景は一つ一つみっちり教えてもらってきた。
景にとって思う部分があるとは思うが、如何せん笑顔の鉄仮面。何一つとて淀みを見せない。紅華も景の思惑は読めない。
「それで、どうだったかな?」
「ナイフ技だったな。銃はあいつの仲間が使ってた」
「そうですか。不思議ですね?早春さんは銃のほうが得意でいらっしゃったのに」
「殺り甲斐の問題だろ。近接戦のほうが戦ってる感じがして楽しいし」
ぐいっと出された水を飲む。
茗泽もカップを啜っている。中身はコーヒーだろう。
「紅華は楽しかったかい?」
「下の中。最下層じゃねぇけどあれぐらいなら美辰でもできる」
「そうかそうか」
茗泽はそこまで年はいってないはずだが、貫禄と落ち着いた低く渋い声のトーンが老いぼれの爺を彷彿とさせる。
「とにかく、今後はこんなことがないようにしたい。そうだろう、紅華?」
「……出来るのかよ」
紅華は内心、やっぱりな、と思っていた。
おかしいと思った。あんな仰々しく迎えられたのは初めてだったからだ。あれは多分、紅華の目を試した、というか使った。
紅華が持つ人を見る目を、今後謀反を起こす阿呆共の選定に。
「紅華はどう思うかね?」
「…さっき見た奴らだけでも、ざっと十五人はいたぞ。その仲間もいるとして…なんだ?戦争でもすんのか?」
「…帰り際、教えてくださいますか?」
「そうか…分かった」
茗泽と景が少し苦い顔をしている。
(相当荒れてんな)
紅華は手に持った水を飲み干す。
自分の役割は大抵理解できている。
紅華は殺し屋という殺すべき人間を殺すだけの至極簡単な仕事に就いているのだ。
来た時に通った長い廊下を歩いて、外に出る。
『紅華様、こちら直しておきました』
『おう、ありがとう』
渡していた銃とナイフを返される。
銃の修理を頼んだが、ナイフも心なしか研がれている。
「ほほぉ?いい仕事してますねえ?おたくの部下さんよお」
「それはそれは光栄です」
「んじゃ───」
目の前に広がる、来た時も見た長い道の両脇に並んだ男共を眺める。ニヤリと笑って景の方を見ずに問う。
「試し撃ちさせてもらっても?」
「……そこそこにしてくださいね」
その言葉を皮切りに紅華は引金に指を掛けて一人の男を撃つ。
鈍い音と男が倒れる音に周りが騒然とする。
「ほほっ!良いねえ!撃ちやすいわ!これ直したの誰だよ、今後も頼むわ!」
「……」
心の底から楽しそうな声を出す紅華に、景は呆れている。その後ろについている景の部下達は唖然としている。
『…貴方達が見るのは初めてでしたか。いいですか、これが早木紅華という人間です。一々動揺してては心臓と精神が持ちません。心配しなくても慣れますので大丈夫ですが』
冷静に説明する景を怪訝な目で見ている部下達。
「慣れる前に殺しちまうかもなぁ!さてとー?お次はー?お前だな」
景が説明している内にも次々と弾を放っている。
紅華はなりふり構わず人を殺すような人間ではないことを景は知っているが、いざ目の当たりにすると冷や冷やするものである。
最後の轟音が響き、止まる。
隅々まで丁寧に管理された日本庭園が所々赤く染まっている。
「よし、終わり」
「紅華さん、私は教えてくれと言ったのですが」
「分かりやすく教えてやったろ?」
「はぁ……片付けるの誰だと思って…」
「あと、こいつら説得してくれ、景さん」
いつの間にか銃口を八方から向けられている紅華。
道の両端に並んでいた、もとい、紅華が今殺した奴らのことを純粋に仲間だと信じていた奴らだ。
「…自業自得では?」
「ほお?私の遺体処理までしてくれるたぁ、手厚いね?」
「めんどくさいなぁ…」
景が一歩前に出て咳払いをする。
『銃を下ろせ。その方を殺せば、お前らも死ぬぞ。事情は後で話す。だから今は殺るな』
その言葉を聞いた男達が渋々銃を下ろす。
「今は、って。いつか殺す気かよ」
「遅かれ早かれ、いつかこちらで殺す気がしますよ」
「そりゃ嫌なこった。気を付けよーっと」
飄々と言う紅華を、嫌悪の目で見ている部下達。銃を下ろしたとは言えど、未だ囲まれたままだ。
『そろそろ帰りたいんだ。退いてくれるか?』
『……』
警戒心が解けない輩達は一向に退こうとはしない。その時、鶴の一声が掛かった。
『皆の衆、客人が困っている。退きたまえ』
茗泽が景の横から出てくる。
その声にはっとした様子で、それでも納得のいかないような顔で、ぞろぞろと道を開ける部下達。
『どうもありがとう』
「気を付けて帰りなさい。次来るときは明霞と太一くんも連れてきなさい」
「承知」
茗泽に向かって一礼して、開けられた道を進む。その方向には既に送迎の車が待機している。
車に乗り込む寸前、茗泽が紅華に手を振る。それに応えるように紅華も手を振って、車に乗り込み、発車する。
それを見送った景は、庭に倒れた十数名の死体を見る。他の奴らも同じようにしている。車の音が遠くなり聞こえなくなった庭はとても静かだった。
死体になった仲間の姿は綺麗だ。致命傷以外の無駄な傷がない。紅華が殺した人間は皆、こんな終わり方なのだ。
(裏切られるのは、心が痛いものだ)
景は拳をぎゅっと握る。
「……上帝祝福你。」
ポツリと溢した景の言葉は、人を侮った人間共に贈る言葉ではなかった。それでもその言葉に、周りは一層静まった。
その静寂を裂くように茗泽が声をかける。
『その者達を、片付けておきなさい』
『…どうして、そう冷静でいられるのですか』
景が茗泽の方を向いて苦しそうに尋ねる
『こんなこと、この世界にいてはザラにあるだろう。それに、紅華があんな子なのはお前が一番知ってるだろう』
なんの感慨もなく言う茗泽に、景は思う。
『この世界のこういう組織はこんなものだ』
どこか憂いを交えたような、いろんなものを見てきて染まった黒い瞳で惨劇を見つめている。
(この人はここに立つべくして立っているんだな)
分かってはいたが改めて痛感する。
『…片付けるぞ』
静かな庭に景が声をかけて処理を始めた。