ハミルトン亭の愉快な人々 ピオーネさん 年齢:820歳 独身 種族:天使族 職業:迷惑天使の場合
短編シリーズ二作目です。
アラリア大陸。その大陸はそう呼ばれていた。そこでは人間、天使、魔族、あらゆる種族が住み、それぞれの勢力圏内で文化を育み、勢力を拮抗している。拮抗、というにはあまりにも互いが無関心で、どの種族にも国という概念があまり発達せず、争いが小競り合いですんでいるのが救いではある。
だが、文明が発達していないわけではない。ここ、大都ウルハスは、町を十字に走る河川を使った輸送が発達しており、まわりを森と、その中に多くある泉に囲まれているため、森と泉の都とも言われる。
あるいは、その位置が人類領域のちょうど終わり、天使、魔族の領域にほど近いことから、出会いと別れの都、あるいは始まりと終わりの都とも呼ばれている。
従って、ウルハスは大陸の都市の中でも、最も人類、天使、魔族が入り混じる、一風変わった都市として知られていた。
当然、絶対的な権力者は存在しようもなく、緩やかな合議制で街は運営されている。
それが故に、よくも悪くも、自由闊達な雰囲気が色濃い。
その大都ウルハスの南東部、いわゆる労働者達の住まいが立ち並ぶ地域のメインストリートから一本道を外れたところにその宿はあった。
屋号は、ハミルトン亭。小さな宿だが、昔から変わり者が集まると周囲では評判であり、そしてつい先日、大陸の外から流れてきた風来坊を居候させている、ということでさらに風評被害も深刻になりつつある宿。
その風来坊、レシウスは今日も今日とて、ダメ人間なのだった。
彼女は、花を眺めるのが好きだった。理由は簡単だ。花が美しいからだ。美しいものを嫌いな者などいない、というのが彼女の哲学でもある。
だから、長期に滞在しているこの宿の二号室――自分の部屋だ――にはウルハスの商店街で買ってきた花を飾ってあるし、亭主も花好きなため、一階の食堂にも上品に花が飾ってある。彼女がこの宿に滞在しているのも、そういった店主の感性というか、人柄を気に入ってのことである、と言い切ってしまっても過言ではない。
それくらい彼女は花を、そしてそれを愛する人々を愛していた。
彼女はその日も朝早く起きて、手早く身なりを整えると、朝食をとろうと部屋を出て、階段を下りた。残念ながら無料ではないが、この宿の食事は少年が作っているとは思えないほどいい味をしている。食事の前に顔を洗おうと思い、洗面台に向かうと、共同の洗面台には先客がいた。
「おはようございます」
彼女は先客に挨拶し、自分も隣に並んで鏡に向かった。汲んである水で手早く顔を洗い、歯を磨くと、自慢の金色の髪に櫛を入れる。誰に見せるわけではないが、身だしなみを整えるということは毎日を生きていく上で当然のことだ。それも彼女の、いわば人生哲学だった。
だが、鏡に映った隣の男はどう取り繕っても、身だしなみが整っているとは言いがたかった。
ぼさぼさの金髪を梳かそうともせず、本来ならば美しいだろう碧眼は、とてつもなく眠たげに見える。顔自体は整っている。磨けば光る原石、といったところか。だが、原石は磨かれない限り石ころに過ぎない。
長いことこの宿に滞在しているが、この男は初めて見る顔だった。かといって、一見客でもないだろう、と彼女は推測した。というのも、一見客はこの宿にあまり来ない。どちらかというと、夜の食堂で成り立っているこの宿に滞在するのは、長期、あるいは出入りを繰り返す常連だけといってもいい。
「お先」
男は彼女の視線を完全に無視して、瞼をこすりながら、ふらふらとタオルを首にかけて食堂の方へと歩いていった。
そのあまりのだらしなさに一瞬呆然としてしまったが、すぐに気を取りなおして鏡を見つめる。
丁寧に櫛を入れた長めの金髪を紐で縛り、緑色の瞳を大きく開く。自分の年齢は二十歳を過ぎた程度に見られるはずだ。もちろん、実年齢はそうではない。背中に生えた、大きな純白の翼が、自分を引き締めてくれる。
「さて、今日もがんばりますか」
彼女――天使ピオーネ――は鏡の自分に向かって呟いた。
ピオーネが食堂のテーブルに着くと、亭主であるミレアが声をかけてきた。ライトブルーの髪が美しい女性である。借金取りに狙われていて、ピオーネも何度かチンピラを説得したことがある。そのたびになんとかしてやりたいと思ってきた。しかし、仮にも天使が人間の法に逆らうわけにはいかない。彼女の借金は合法的なものなのだから。
だが、布教から戻ってきてみると、その問題はきれいに解決しているようだ。恐らくは――
「あ~。腹減った~。なあミレア、花食っていいか?」
「だめです」
恐らくは、自分の向かい側に突っ伏しながら、馬鹿なことを言ってミレアを苦笑させている、人間の男が解決したのだろう。ピオーネが布教で宿を開けている間に。
「マーク、この花ならただだろ? 炒めてくれ」
「兄ちゃん、止めたほうがいいよ……」
ミレアの弟で、料理担当の少年マークにまで苦笑されている。そのあまりにも憐れな様子に、ピオーネはその高い良心のおもむくまま、声をかけた。
「朝ご飯なら、わたしがご馳走してあげますよ」
「ほんとか?」
がばり、と身を起こす男。ピオーネは極上の笑顔で頷いた。男は泣き出さんばかりに感激して、言ってきた。
「ありがとな! あんた天使みたいだ!」
「えっと、比喩のつもりだと思うのですが……」
言いにくそうに突っ込むピオーネ。すると、男ははっとしたように背中から生えているものに視線をやり、恐れを含んだ声で呟く。
「あんた……まさか、コスプレマニアか? 天使の真似とはまたマニアックな……」
「違います!」
青い顔をして言ってくる男に、たまらずピオーネは叫び返した。そこをミレアがフォローしてくる。
「レシウスさん、この町では天使はそれほど珍しくはないんですよ」
「そうなのか?」
「え、ええ。布教のために、大きな町にはそれなりの数が派遣されますから」
やや困惑しながらも答える。レシウスという名らしい男は、ようやく眼を見開いた。つまり、眠気がとんだのだろう。
「そりゃすまないな。俺は最近大陸に渡ってきたばっかりなんでな」
「なるほど。そうでしたか。この宿で暮らしているのですよね? わたしはピオーネ。布教のためにここに滞在している天使です」
「ふーん。俺はレシウス。ただのごろつきだ」
「その自己紹介は正直どうかと思いますが、とりあえずよろしくお願いします」
ぺこり、と頭を下げるピオーネ。座ったままで。
当然、がつん! と派手にテーブルにダメージを与えた。
「……」
レシウスの瞳が、また半眼になった。
天使ピオーネ。人呼んで迷惑天使とレシウスの、これが出会いだった。
レシウスはつい二週間ほど前にウルハスにやってきたばかりである。それどころか、アラリア大陸に渡ってきてまだ半年もたっていない。特にあてのある旅をしているわけではないが、一か所に落ち着く気も起きずに、大陸の中へ中へと歩みを進めているうちに気がつけばここ、大都ウルハスにたどり着いていた。
たまたま持っていた食料が底をつき、宝石を換金する街もなく、浮浪者同然の様相で街外れにたどり着いたものの、そこで力尽きた。
故郷では世界最強の剣士、とまで言われていたレシウスであったが、餓死、という周囲の失笑をかいそうな――それでいて本人にはまったく深刻な――最期を迎えかねない状態となってしまったのである。
そこを通りがかったのが、ハミルトン亭の亭主、ミレアとその弟、マークだった。
彼女達は人並み外れて高い親切心を遺憾なく発揮し、レシウスにとりあえずの食事と寝る場所を提供した。
レシウスはその恩義に応えようと、ミレア達にしつこくまとわりつく借金取りの元へと単身乗り込み、その借金をうやむやにしてしまう。
借金自体は合法的なものであったが、借金取りそのものに後ろ暗い証拠が大量に出てきたおかげもあり、レシウスは奇跡的に釈放された。
その後、感謝するミレアの好意に甘え、ハミルトン亭に居つくことになったのであった――
と、これだけならば流れの男が一宿一飯の恩義を返すべく、健気な姉弟を救ったという、いわゆる『ちょっといい話』で終わるのであるが、レシウスには大きな問題があった。
それは、壊滅的に生活力がないということである。
そもそもこの世に生を受けて二十五年。故郷の群島ではあっという間にその剣技で頭角を現し、主君を変えながらも基本的には何不自由ない生活を続けてきていたのだから、当然ではある。
どちらかといえば、この半年で大陸内部まで一人で旅をしてこれたのが奇跡のようなものだった。
そんなレシウス(二十五歳独身)が早々に生活費にも事欠くようになるのは、火を見るよりも明らかと言えた。
もちろん、本人もそれでいいとは思っておらず、レシウスは朝食をピオーネにおごってもらい、そのお礼は適当にすませて、生活費を稼ぐ旅に出た。
いや、つまりはアルバイトをしているわけだが。
ウルハスの南東は労働者の住む地区になっているのに対して、北東は高級住宅街になっている。そのちょうど境界線上の通りは、常設のバザーが開かれている。
「えー、土偶いらんかね、土偶」
その通りで地べたにむしろを敷いて、その上に座り込んで土偶を売るアルバイトなのだが、金髪碧眼のレシウスがそれをやると異様であった。はっきり言って没落貴族以外のなにものでもない。その近くには土偶屋二号店と書いてあるのぼりが立っている。まわりはいかにもバザーらしく、食べ物の屋台や古着屋が出ている。最近、バザーで二ヶ所出店が認められたらしい。
レシウスにはまったく関心のないことではあるが、二ヶ所出店は実に十年ぶりの快挙であるらしい。
レシウスの何が主人に気に入られたのかは不明だが、今日からこうして仕事についているわけだ。
「売れんなー」
小一時間ほどたったのだが。
(あたりまえでしょうが)
傍らに置いてある相棒――といっても剣だが、一応は相棒である――ミラージュが呆れ声をあげている。レシウスにしか、聞こえない。
「うるせえな。売れるから二号店なんだろ?」
一応は反論してみる。
(やけくそとしか思えないけど)
「……」
同感だった。だが、働かないわけにもいかない。
「えー、土偶いらんかね、土偶」
当たり前だが、人の流れは無情に通りすぎていくばかりだった。
結局、午前中は一つも売れず、見に来たオーナーにこのままじゃ給料に響くぞ、と嫌味を言われてからレシウスは昼休みをとった。せっかくなので、バザーを見て回る。もしかしたら、いい古着があるかもしれない。宝石の残りは少ないが、仕方ない。
「しかし、案外人が多いよな」
(そうね。ちょうど区画の境界線上だから、どちらからも人が来るんでしょうね)
がぶり、とドネルケバブにかぶりつく。口の中に溢れる肉汁を堪能しながら、レシウスは傍らの店にふと眼を向けた。
そこには、妖しげな壷屋と、花屋が店を出していた。どちらにもレシウスは興味がない。視線が止まったのは、見知った顔がいたせいだった。
「ピオーネ?」
「あら、レシウスさん」
花屋は、ピオーネだった。
「何してるんだ?」
「見ての通りですよ。花屋です」
「いや、それはいいんだが…」
珍しく口ごもりながらレシウスは恐る恐る指を指した。指の先には、美しいピンク色の花がある。ただし、しゃげー、しゃげーと得体の知れない声を出していた。
しかしピオーネはレシウスの怪訝な視線に気づくことなく、朗らかに言ってくる。
「これですか? べグザイルという花ですよ。家に置いとくと、ねずみを食べてくれるんです」
「……肉食か?」
「油断すると、腕とかもかじられちゃいますけどね」
「待たんかい」
「あ、ひどいとか思っていますね! 動物を殺すのはひどいと! 確かにその通りです! でも、生きるためにはやむをえないことだってあるんです!」
「いや、なんつーか恐ろしく植物びいきな気が」
半眼になりうめくが、ピオーネは激しい口調で反論してきた。
「そんなことはありません! 人間がすべてでは決してないんです!」
「いや、お前天使だろ……ってそんなことじゃないくらい大事なことが抜けてる気が……」
何を言っても無駄なように思えてきたので、レシウスは話題を変えようと隣を見た。隣の壷屋はこちらを気にすることなく、怪しげな壷を売りつけている。曰く『女神を封じた壷』。
とりあえず見なかったことにして、別の花を見る。小さな花びらだが、美しい青色をした花束を指す。
「それは何だ?」
「ドフラッチェです。水をやらなくていいくらい強いんですけど、夜になると歩き出すから、ちゃんと縄で縛っとかないとダメですよ」
「……歩くのか?」
変えた話題が失敗だったことに気づきながらも、尋ねずにはいられなかった。
「ええ。それに毒液を撒き散らすから、袋をかぶせておかないと」
「まともな花はないのか!」
レシウスが思わず叫ぶと、ピオーネはさも心外だと言わんばかりに眼を吊り上げてきた。
「なんてことを! この子たちだって懸命に生きているんですよ! それをさも害虫みたいに!」
「懸命に生きているものを売るんじゃねえ!」
「わたしはみんなに花の素晴らしさを!」
「言ってることがずれすぎなんだよ!」
べキッ!
言葉と同時に思わず放った回し蹴りをまともにくらい、ピオーネは派手に吹っ飛んだ。
が、魔法でも使ったのか、ダメージもなく起き上がってくる。天使の魔法は呪文などの制約をいっさい受けない。その威力も、効果も人間とは激しい差がある。
だから、驚くには値しないのだろうが。
「天使を足蹴にしましたね! 天罰です!」
思わず放ってしまった蹴りにそこまで怒ることはないんではないだろうか?
勝手なことを考えながら、レシウスは魔法で創られた岩を必死でかわした。
「避けては贖罪になりません!」
さらにピオーネが殴りかかってくる。こと運動能力に関しては、天使を恐れる必要はない。人間と変わらないからだ。そして運動能力で彼を上回る人間はほぼいないと言っていい。身体が戦闘モードに入ってしまい、レシウスは半身をずらして膝をピオーネの来る直線状に残した。
だが、そんなことをしなくてもピオーネは隣の店の壷につまずいて勝手に転んだ。
がしゃあああん!
リアルな音を立てて、壷が割れる。女神を封じたという壷が。
突然、あたりがくらくなり通行人達も足を止めた。
すべての視線が注がれた先に、それは現れた。
きしゃああああ、と奇声を上げたそれは、とりあえず体長十メートルほどの大きさだった。腕はなく、足は四本。体重を支えるのに充分な太さだ。身体は茶色の体毛に覆われ、首は八つあった。尻尾もだ。
そして、その首の先には――
巨大なアリクイの顔があった。
「……なんだあれ?」
(アリクイヒドラとでも、言うんでしょうね)
「どこが女神なんだ?」
(あの愛くるしい瞳とかじゃないかしら)
相棒の指摘通り、アリクイヒドラ(仮名)はとてもつぶらな瞳をしていた。八対のまん丸で小さな瞳が、レシウスを見下ろしている。体長は十メートルだが、そのうちの七メートルほどは首である。ヒドラ、と呼びたくなるのも頷ける。
「どうしたもんかな」
レシウスが嘆息混じりに剣を引き抜く。神であれ、魔族であれ切り裂くという伝説の神魔剣ミラージュを。久しぶりに空気を吸った相棒は、機嫌よさそうに太陽の光を浴びてキラリ、と輝いた。
しゃげえええ!
四つの首が同時にレシウスに迫ってくる。残りの四つは気紛れなたちなのか、まったく見当違いの方向にある壁へと突っ込んでいった。無力な野次馬達が悲鳴を上げて逃げ惑う。
だが、レシウスは無力な野次馬ではなかった。
「はああ!」
掛け声とともに、迫ってきた首をなぎ払うように剣を横薙ぎにしながら回転する。
ぎゅおおおお!
豪快な叫び声をあげて、アリクイヒドラがのけぞる。その隙にレシウスはまわりを確認した。首が向かった壁は、そのまま激突したように壊れている。そして、ピオーネの自慢の植物もなぎ払われている。どうも、武器は頭突きらしい。えらく豪快な攻撃だったが、ピオーネは不満らしく、その瞳を吊り上げた。
よく見ると、額に天使には似つかわしくない青筋が浮いている。よっぽど何かが腹に据えかねたようだ。
ピオーネが大きく右手を振りあげる。そこに莫大な魔力が宿るのを、レシウスははっきりと感じた。
「神の裁きを!」
四つの首を戻したアリクイヒドラに、ピオーネが魔法を放つ。アリクイヒドラの胴体を中心に波紋が走り、内部から爆砕する。
派手な音を立てて、アリクイヒドラが吹き飛び、残骸が四方八方に撒き散らされる。
その自然災害のような光景に、さらに野次馬達が悲鳴をあげて逃げ惑う。
「命とは、魔獣が軽々しく扱っていいものではありません。当然の報いです」
右手を突き出したまま、格好をつけるピオーネをレシウスは半眼で見つめながら、とりあえず飛び散っている内臓をひょいと避けた。
「なんつー勝手な言い分だ」
(植物至上主義の天使、みたいね)
「厄介だな」
(厄介ね)
幸い、レシウス達の呟きはピオーネには聞こえなかった。
アリクイヒドラ騒ぎから二時間ほどが過ぎた。いつもは活気あるバザーも、さすがに人が少なくなっている。だから、土偶が売れないのも仕方のないことなのだろう。
今日がだめでも明日がある。明日がだめでも明後日がある。人が交わるこの通りに、人が減ることはあっても、人がいなくなることなどない。
だから、いつか売れるはずだ。諦めない限り。
「完……」
(終わってどーすんのよ)
相棒が呆れたように言ってくる。呆れているのだろうが。
「そうは言うがな、とんでもなく売れねえぞ」
(そりゃそうでしょうね)
さすがに、レシウスにも自分のミスがわかっていた。土偶が売れるはずはない。だが、店長の土偶は売れている。世の中は不思議だ。しかし、不思議で片づけてしまえばいい。自分には何一つ、落ち度はない事になるのだから。
しかし、レシウスにはそれができない。できないから、こんなところで今も土偶を売っている。
「まさか、この土偶、呪われてるんじゃねーだろうな」
(根拠がないわよ)
「売るなという呪いだ」
(あのねえ……)
「何を馬鹿なことを言っている」
二人で会話を交わしていると――実際にはレシウスがぶつぶつ言っているようにしかきこえないのだが――眼前から声がかかった。
中肉中背の、黒髪を短く刈り込んだ、日焼けした、そしてがっしりした体格の男である。
「オーナー」
どちらかといえば海の男、といった風体をしたその男を、レシウスはそう呼んだ。ただし座ったまま、見上げるだけで、立ち上がらなかった。
しかしオーナーはそのレシウスの動作には頓着せず、ただ不機嫌そうに鼻を鳴らしただけだった。
「給料に響くぞ、と言ったはずだが?」
「聞きましたね」
「何故売れていない?」
「土偶だからじゃないですか?」
「何を言う!」
ごく真っ当なことを言ったつもりのレシウスは、突然オーナーが顔を真っ赤にして怒鳴り始めたことに驚いて、眼を丸くした。
(な、なんだ?)
(さあ……?)
胸中で相棒に問いかけるが、相棒にもわからないらしく、曖昧に首をひねるかのような答えが返ってくる。
二人の会話には当然気づくこともなく、オーナーは声を大にして言い放つ。
「土偶ほど売れ筋の商品はない! それが売れないのは、お前に土偶への愛が足りないからだ!」
「……」
レシウスは半眼になった。ついでに、まともに話を聞くことはやめた。
長々と土偶について演説するオーナーは、どうやら土偶をとても愛していること。本来は売りたくないが、生活のためにやむを得ずやっていることなどを言っているようだった。
(だったら二号店なんか作るなよな……)
(あら? でも夢は露天じゃない自分の店を持つことらしいわよ)
(な、なんだと?)
(ほら、今家族設計に入ったわ。ここまで妄想逞しいと逆に面白いかも)
(お前って大物だよな……)
気楽に大笑いする相棒とは裏腹に、レシウスはどんよりした気分になってきた。
何か楽しいことを考えようとする。さしあたっては今日の夜ご飯だ。
――だが、そのご飯代が稼げていない現状に、一瞬で気づいた。
「……」
「よし! わかったな! 気合い入れて売れよ!」
がっくりと肩を落としたレシウスを見て、反省していると判断したのか、オーナーは満足そうにそういうと、肩で風を切ってさっていった。
(はー……フェチ野郎どもの街か? ここは?)
レシウスのその言葉に、相棒の笑い声が止まった。一転して憂鬱そうに、頷いてくる。
(そうかもね。天使からしてあんなのだしねー)
二人して溜息をついていると、通りの向こう側から噂の植物フェチ天使、ピオーネが歩いてきた。しかしこちらにはまだ気づいていないようであった。
ようやく警備隊の事情聴取から解放されたらしく、翼がしおれている。
ちなみにレシウスはさっさと逃げたため、事情聴取は受けていない。
「おーい!」
声をかけるが、気づいていない。そのまま、前を通りすぎようとしてくる。
「おいってよ!」
がしゃん!
投げつけた土偶が派手な音をたてて、割れる。ついでにピオーネの頭も割れたが、まあささいなことだろう。
「????」
あっさりと地面に倒れたピオーネはまったくびっくりした顔で、傷を治しながらこちらを向いてくる。そうして、自分の身に何が起こったか理解したようだ。
「なにをするんですか!」
当然だが、えらく怒ってくる。が、レシウスはかけらも気にせず、言い放った。
「いや、土偶をぶつけたんだが」
「ああ、それで頭が…ってそうじゃありません!どうしてぶつけるんですか!」
「あいさつがわり」
「……」
ピオーネは絶句した。そして、花をそこらへんに置いて、土偶を一つ拾う。
がしゃあああん!
そして、あっさりとレシウスの鼻先にぶつけてきた。レシウスは派手に地面に転がった。
「てめえええ!」
「あいさつ、です」
「やかましいっ!」
不当な抗議をしながら、レシウスがまた土偶を投げつける。そして、ピオーネの顎にぶちあたる。間髪入れず、ピオーネが反撃し…。
いつの間にやら、土偶投げ大会になっていた。
「おりゃああ!」
「守りよ」
レシウスの投げた土偶の一つが、ピオーネの結界に弾かれ、割れる。それ自体は特別なことではなかったのだが、土偶の中から液体が落ちた。そしてそれは、ピオーネが地面に置いておいた花にかかった。
じゅううう、と酸にも似た音をたて、煙が立ちこめる。
「なに?」
「まさか…」
ピオーネが自体を飲みこめずに眼をしばたかせる向かいで、レシウスは嫌な予感を感じていた。
そして、嫌な予感は当たるものだ。
しゃげええええ!
煙の中から、体長十五メートルはある、巨大な花が姿を現した。
「参ったな……」
レシウスは――彼にしては珍しく――冷汗を流しながら出現したそれに視線を注いでいた。白昼堂々、煙の中から姿を現したそれは、ざっと見積もって体長十五メートルはあろうかという巨大な花だった。花はタンポポの仲間らしく、夏を思わせる黄色い花びらをこれでもかと咲き散らせており、更に恐るべきはその巨大な花のすべてが、一本の花であるという事実だった。大木、と表現するのがふさわしい幹は、一本の茎であり、巨大な枝はただの葉先にしか過ぎないのである。そして茎には、タンポポにあるまじき蔦が幾重にも巻きついていた。
夕方であり、人通りは少なくなっていたが、それでも本日二回目のパニックがレシウスを人波に飲み込んでいく。
しゃげえええ!
人々を嘲笑うかのごとく、巨大タンポポは蔦を四方八方に振り回した。その一撃は昼過ぎのアリクイヒドラの時とほぼ同程度の破壊力を誇り、瓦礫をさらに細かくし、無事だった家を破壊し――そして、人をも貫いた。
「ちっ!」
自分に向かってきた蔦を剣で弾き返し、レシウスは反動を利用して『タンポポ』の懐に飛びこもうとした。
だが、蔦の戻りは想像以上に速く、逆に一撃をくらい、通りの端まで吹き飛んだ。
しゃあああぁぁぁ……
怪しい白い煙を吐きながら、『タンポポ』は力を誇示するかのように、蔦を揺らして見せた。
「我が名は……」
厳かに、『タンポポ』が声を上げる。低く、地の底から響くかのような声で。
「タンポポインペリウム」
自ら尊大に過ぎる名乗りをあげ、葉先から酸のような液体を吐き出す。
しゅうう、と音を立てて、瓦礫が溶けていく様子を見ながら、レシウスは立ち上がった。
「花の分際で、なめやがって……」
派手に吹き飛ばされたわりに、ダメージはないらしく、剣を抜きながら不敵な笑みを浮かべる。
「細切れにしてやる」
しかし、飛び掛ったレシウスの前に影が割り込んだ。
「くぅっ!」
神速と言っていいレシウスの一撃を受け止めたのは、ピオーネだった。うめき声を上げながら魔法の障壁を張っていた。
「何のつもりだ?」
答えを半ば予想しながら、レシウスは尋ねた。
「植物だって、懸命に生きているんです。むやみに命を奪うことは許されません」
予想した通りの答えだった。呆れながらも反論を試みる。
「やっていることはさっきのアリクイと同じだろうが。どんな差があるっていうんだ?」
「差がある、ないという問題ではありません。命を守るんです」
「アリクイは粉砕しといて、何ちゅー奴だ」
とりあえず反論を試みて、レシウスは回し蹴りを放った。
どがっ!
鈍い音を立てながら、ピオーネは壁に激突した。
かなり強めに蹴ったせいか、ピオーネがそのまま動かなくなったのを横目にして、レシウスは再びタンポポインペリウムに飛びかかった。
「愚かな人間め!」
「愚かなのはお前だよ」
ザンッ!
答えながら、茎を切り裂く。さらに、剣を振るいながら、言葉を紡ぐ。
「他の物を害するなら、害される覚悟も持つことだ」
蔦のすべてを避けながら、上段に振りかぶる。
「はああああ!」
緑色に輝く剣が、タンポポインペリウムの存在さえ残さず、消し飛ばした。
レシウスが剣を鞘に収めると同時、周囲から歓声が爆発した。
レシウスは一瞬驚いた顔をしたが、すぐに気を取り直して相棒を鞘に収めた。そしてそのまま、自分の区画に戻ろうとするが――
土偶が、すべて割れていた。
あれだけの大立ち回りを演じたのだから当然と言えば当然の結果である。怪しげな煙を出している土偶はないことだけが、不幸中の幸いとでも言うべきか。
「…………」
(ま、不可抗力だけれど、それで納得してもらえるかしらね)
沈黙するレシウスに、相棒から容赦のない指摘が入る。レシウス自身、まったく上手い言い訳が思いつかなかった。
――知り合いに土偶をぶつけたのがきっかけで、土偶祭り(投げバージョン)を決行しました。
――その結果、割れた土偶から怪しいモノが出てきたので、粉砕しました。
絶対に、オーナーは納得しないだろう。
レシウスの予想を肯定するかのように、ポン、と肩に手が置かれた。
何というか、嫌な既視感を感じた。
「……どういうことだ?」
気のせいと思いたかったが、ついさっき聞いたばかりの声だった。ぎぎぎぎぎ、と油の切れたゼンマイ人形のような動きで振り向くと、予想通りオーナーが、予想以上にお怒りだった。
レシウスはしばし黙考する。だが、上手い言い訳など浮かぶはずもなかった。
仕方がないので、事実だけを述べることにする。
「……かいつまんでいうと、大量に壊れた」
ぶちり。
何か縄とかを素手でちぎったらこんな音がするのじゃないだろうか、という音が確かに聞こえた。
一瞬、もやいを解き放ち、大海に漕ぎ出す船が見えた気がした。
オーナーの顔は、真っ赤を通り越して――むしろ七周半くらいして――悪魔と契約でもしたかのように、真っ黒になっていた。
「クビだあああああああああっ!」
「どうわあああっ!」
言葉と共に放たれた拳をかろうじて避けると、拳の遥か先にあった商店の壁が吹き飛んだ。
「……」
レシウスの額から、汗がたらり、と一滴落ちる。クビとかいう問題ではない。命のあるうちに逃げなくてはならない。
レシウスが全力で走り去ることを選ぼうとしたその時、悪魔の言葉が聞こえた。
「弁償もしてもらおうか。私の愛する土偶をこんな眼に遭わされた悲しみは、金でしかあがなえない。」
「……」
レシウスは再び無言になった。
というか、考えを改めた。
(とりあえず殴り飛ばしてうやむやにしよう)
(なるのかしらねー?)
相棒から投げやりな疑問が返ってくるが、レシウスは聞かなかったことにする。
その替わりに、いつでも抜刀できるように、剣の柄に手を添えた。
「ワタシノドグウウウウウゥ!!」
もはや人間とは思えない声で、オーナーが再び殴りかかってくる。
「この、変態フェチ野郎が……!」
レシウスも気合いと共に応じる。腰から鞘ごと剣を、居合いのように抜き放った。
――日も暮れるというのに、大通りには三度、怒号と悲鳴が交錯した。
オーナーに辛勝し、見事に逃走に成功した翌日。
いつも通り、寝ぼけた顔を洗っていると、声をかけられた。
「おはようございます」
見ると、ピオーネが柔らかい笑みを浮かべて、立っていた。
「おはよう」
どう答えていいかわからず、無難な挨拶を返すと、ピオーネは苦笑を浮かべて見せた。
「そんなに警戒しなくてもいいですよ。あなたの言いたかったことはわかっています」
「そうか」
「それでも、弱いものを守ることは、大切なことだと思うのです」
「……お前の言いたいことも、少しはわかっている」
答えながら、宿の姉弟を見る。
ピオーネもその視線を追って、今度は笑みを浮かべてきた。
「そうですね。あなたにわからないはずがありませんね」
その微笑みは、まさしく天使の微笑み。その笑みのまま、さらに続ける。
「アルバイトがないなら、私の店を手伝いませんか?」
「それはイヤだ」
即答して、半ば走るように、レシウスは食堂へ消えていった。
「どうして逃げるんですかー!」
叫びながら走ってくるピオーネに、レシウスは胸中で言い返す。
(お前みたいな植物フェチと仕事ができるかー!)
(珍しく正論ねー)
相棒の同意を受けながら、レシウスはハミルトン亭を飛び出した。
外は今日も変わらず、晴れている。