無彩色
無彩色。
白と灰と黒のことを指す言葉で、これらには彩度と色相というものが無い。
つまり、明るいか暗いか。
人生みたいだ。
そう思った。
ある春の日。
白と黒で出来た人が、桜の前にいた。
石のベンチに景気よく腰掛けて、これまた白と黒のラベルが目立つ、小さな手で握るには大きい、そんな缶ビールを持っている。
その人は何を思ったか、開けた缶を桜に掲げた。
「乾杯」
そんな声が聞こえた気がした。
僕は「ほぅ……」と。
息を漏らして、カメラを向けた。
パシャリ。
そんな音がしたことに、後になって気付く。
「何したお前。出るとこ出るぞ」
「いや、君が綺麗だったから……」
「キモ」
「あのさ」
「何さ」
「…………桜って、ほんのり赤いんだね」
彩りなんて些細なものだ。
誰が見るかじゃない。誰と立っているかだ。少なくとも、僕はそう思い知った。
何せ、その人は白黒じゃなく、綺麗な髪飾りを付けていたってことに、ようやく気付いたくらいだから。
ああ、長々とすまないね。つまり何が言いたいかと言うと。
それが僕たちの出会いだった、てこと。
君はそれをおもしろおかしいエピソードとして話すけど、僕にとってはそうじゃない。あれはまさしく運命的で、そう言えるくらいセンセーショナルな出会いだった。
桜の花びらが散っていたから、私はどうしてもその瞬間を撮りたくなったんだ。
懺悔室と貸した行きつけのバーで、ふとそんなことを思い出す。
あの日から、ずっと月は綺麗だ。
「君はたぶん人間じゃなくて、色々と限界だった私が作った幻覚だとか、そういう人に憑りつく妖怪なんじゃないかって。そんなことを思ってる」
あの時私は残業続きで追い詰められて、碌でもない人間に成り下がっていた。その時見た君はあまりに美しく、だから後で見返したくなったんだ。
そうして確信した。君はきっと素面で見ても美しくて、私が生きる理由になってくれるって。
「それは今も続いてて、たぶん一生晴れたりはしない。それくらい君は綺麗だし、優しいし、温かいし、そして色っぽい。僕が欲しくて撮りたかったものがここにあるだなんて夢みたいだし、実際に夢だと思ってる。でもおかしなことに、君はたぶん、これを言うと怒るんだよね。私は確かにここにいるのに失礼しちゃう! なんて声を荒げながらさ……ああそう、そうだ、丁度そんな感じで…………ああいやだから、疑いたいわけじゃないんだよ。でもただ信じられないんだ。だって僕は薄給で、その癖して結構な浪費家で、タバコも酒もやる上に、コーヒーだって大好きだ。なのにさ……こんな……ああダメ。ちょっと待って今のなし。というか、これはないだろ……贈物って言ったってさすがにこれはさ……」
「あんま調子乗んないでよね優希さん。いいからさっさと渡してよ、ヘタレなんだから」
「う……うるさいな……」
ずいぶんと時間をかけた僕に向かって、目の前の小さな人はなんとも乱暴な口調で言った。
「あのね? 今、目の前に箱があるんだよ。あとは優希さんが、私に渡すだけなの。分かる?」
「分かってる。咲月、これをずっと隠していたことがバレたってことも分かっている」
ハァとため息を吐いて、目の前の小さな女の子――咲月は机をトントンと突いた。
僕がこの箱の不在に気づいたのがことの始まりだ。無くなったことにはすぐ気が付いた。
バレたくないものだったから、仕事場であわあわしていると、今目の前にいる咲月から連絡が来たというわけだ。
二人が馴染みのバーの端っこの、薄暗がりの煙たい席の、照明の近くに隣り合って座ってから数時間。
僕が数杯のウィスキーと箱半分のタバコを吸い終わるまで、咲月は黙って待っていた。
ぐだぐだとくだを巻く僕をどこか楽しそうに眺め、咲月は言う。
「どうしてこういうところで止まるかな。前はもっとスマートに渡してくれたと思うんだけど」
そういって、咲月は――「あ、な、何ニヤけてるんだ⁉」――楽しそうに続けた。
「よく覚えてるよぉ? 最初の贈物は靴だった。待ち合わせに行くと優希さんがいてさ。普段着でいいって言ってた癖に、あ、靴はこれでお願い……なんて。似合うと思うよなんて言ってさ?」
「あー、あー、あー……いや、ほんと……」ウキウキしながら話す人だな。
咲月は一つずつ指折り数えて、「たしか次はジャケットで、その次は靴下で、その次はボトムスで」なんて、今まで贈ったものを――「ちょちょちょ、ホントにやめてったら」恥ずかしくなってその手を抑えると、指を絡めとられて机にそっと、ライターと一緒に伏せられた。
「優希さんは優しくってキザったらしい、鼻につく人」
「何それ」
「だってそうでしょ」なんて言って、咲月はなんだか自慢げな表情で、自らが履く靴を見た。納得したように「だってそうだよ」と俯くと、明かりに照らされて、その髪を飾る簪がキラリと光った。
「知っているもの。優希さんのことは、なんだって知っているもの」
簪の、飴色の反射光によく似た、甘い瞳の輝きが、僕のことをじっと見つめる。
「嘘だぁ」と苦し紛れに言ったは良いものの、実際、咲月は僕のことをよく見ていた。キザったらしくて憎ったらしい、どうしようもなく鼻につく僕のことを、いつもよく見てくれていた。
「ねぇ、なんでこれは渡せないの?」
だからこそだろう。グラスを傾けるその白い手はなんだか不満げだ。僕はそれにあてられて、すっかり困ってしまう。
焦った様子で「これはさ、ちょっとさ」と短く繰り返し、「なんていうかさ……」と濁して、言葉を探す。
「いいでしょう聞きましょう。言い訳をしてくださいよ」
咲月はどこまでも優しかった。
「あーえっと、どうしましょうか」
「ほれほれ」
なにか、上手い言い方は「……うむ……」あれは「あーっと」、これは「えーっと」、それは「うーんと」……ダメだ。
「あのね……」言い訳できるわけもない。「花街を歩く君を見たんだ」
色々と考えてみたが、結局のところ、正直に話すのが一番だ。
咲月はバツが悪そうに簪を弄った。
悪いことをした自覚があった。だから目も合わせず、ウロウロと視線を泳がせながら、何かを探した僕の目は、ついに左上で止まった。
「そう昔の事じゃない。ついこの前のことなんだ」
咲月は黙った。
「綺麗だった。とっても」
絢爛さの中で一際目立つ華やかさ。それがあの街を歩く咲月という人だった。
「でも、僕はそういう君を撮りたいわけじゃない」
語気は弱めたつもりだったけど、言葉だけは誤魔化せない。
そう、咲月は華やかだったんだ。そうすることが当たり前のように、しゃなりと歩く咲月の姿は、息を飲むほどの有り様だった。なのに、それら全ては不思議なほどに濁っていて、限りなく黒に近く見えた。遠くから眺めていたからなのか、それとも咲月がそう見せていたのかは分からない。
確かに君がいるはずなのに、歩いていたのは僕の知らない君だった。
「だからこれは、さ……あ、う……」
気付いたんだ。
今まで贈ってきたものは、そこに僕の色を置くための物だったと。
普段の君にも付けていて欲しかったんだ。写真のためじゃなく。
「違うんだ。ごめん。でも、悔しくて」
僕が送ったものだけを、咲月に纏っていて欲しかった。
僕は君のことを何も知らないから。
「なるほど」
一通り話を聞いた咲月の声は驚く程に温かさを失って、湿っぽさすら通り越し、凍てつくように冷たくなった。
「普段の私へ、ってことか」
大きく吐かれたため息は、呆れを孕んでいた。
「もうこうなってしまったから白状するけど、今までは、僕が自分で買っておいたものを贈っていたんだ。使い道のないものをね……でも今回だけは違う。だからこれは我がままだ。僕にできる最高のプレゼントを、咲月。いつも君に付けていてほしい。ただそれだけ」
言わせてほしいんだ。胸を張って言わせてほしい。
「これを受け取ってくれたなら、咲月はずっと僕の――大切な人だよ」
咲月はしばらく考え込んで、髪に付けた簪を弄って、
「中身、見ていい?」
と、聞いた。
答えは決まっている。
「もちろんだとも」
軽く会釈のような息を漏らし、咲月は箱を開けた。
中に入っているのは――
「……飾り櫛、か」
うんざりした顰め面の中に、一抹の嬉しさが淡く咲く。まるであの日の桜のように。
箱の中に納められた豪奢な櫛を手に取って、灯りの方へと向ける。
本鼈甲の、サツキの蒔絵が描かれた、艶やかな、金色の飾り櫛。
「いい趣味してる。金ピカだ」
キラリと光るそれを見て、咲月はうっとりした表情を浮かべる。
答えはほとんど決まっているようなものだった。なのに私はドキドキして、中々踏み出すことができない。
もう何回目かも覚えていないけれど、またウィスキーをぐいと呷る。
タバコを持つ手が震えた。
「あの、さ……」
「私からも贈り物、あるよ」
「あえ――」
私の覚悟の全てを無視して、呟くように彼女は言う。
「ほら。優希さん、会った時から髪を伸ばしてるでしょ? だから、そろそろ必要かなって」
櫛を自らの胸元で大事そうに抱えながら、咲月の言葉は続く。
「あげる。この簪」
どれを指した言葉なのかはすぐに分かった。
出会った頃から、まさしくあの日――よりもずっと前から咲月が付けている、飴色の、丸い飾りが付いた簪。
僕が贈ったものではなく、彼女が最初から持っていたもの。
「でも、それって大切な――」
「いいの。優希さんになら」
「一時の感情で譲るべきじゃないよ」
「別に、雰囲気に呑まれてるわけじゃないってば」
「でも」
「また言った。でももだってもない。私が優希さんに贈りたいんだから、素直に受け取んなよ」
「いやでも」
じゃあ、どうするって言うんだよ。君が付けていた大切なものを、どの面下げて受け取れっていうんだ?
「だから、さ」
困惑する僕を他所に、咲月はくるりと後ろを向いた。
「この簪を今、外してみせてよ。優希さんの手で」
手が震える。
咲月が待っている。
傍らの灰皿に、吸い始めたばかりの煙草を置く。
僕はその髪に触れる。
柔らかく、少しだけ太く、滑らかで、少し湿り気があって――まるで宵のように真っ黒な髪。
そこにポツンと浮かぶ、飴色の輝き。
優しく撫でてみる。ガラスで出来た飾りだけど、案外凸凹しているんだな、なんてことを思った。
ゆっくりと引く。
ぬるりと抜けた簪が、はらりと髪を解き放った。
夜空を溶かしこんだような輝く黒い髪だ。手で支えていないと零れ落ちてしまいそうな黒髪。私はそれを指に絡めて、もう片方の手で、簪を。
「ならもらうよ。ありがたく。君の大切なものを」
確かに強く握りしめた。
長い長い灰が落ち、私は落胆のため息を零す。
「奪われちゃった」
「奪ってしまった」
「ねぇ優希さん」
「なぁに」
「大好き」
「私も」
私達は心の奥底を交わした。