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『第三回敬天愛人練武大会』を葵さんは観に行ったんだぜ

作者: 葵・悠陽

「正面に、礼。

お互いに……礼!」


 空手道着に身を包んだ男とジャージに流派のロゴが入ったTシャツの男、二人の選手が審判の声で互いに礼を交わし、開始線に立つ。

 頭に防護用のフェイスガード。

 拳にはオープンフィンガーグローブ。


 向かい合う選手が放つ闘気も表情も、真剣そのもの。


 対戦相手は、「同じ格闘家」ではあっても「同じ武術」を学んだ者では無い。


 向き合う選手が修める『武術』は、かたや空手、かたやジークンドー。

 二人の立ち合いを見つめる居並ぶ選手たちも、合気道、柔道、カポエイラ、少林寺、果ては我流拳法からリアルアクション道なる武術カテゴリーに入れても良いものか迷うものまで、多種多様。


 互いの手の内など、正確には分からない。


 予測すら付かない者もいるだろう。


 それ故に漂う、『異種格闘技戦』特有の緊張感。


 だが、そこに緊張感はあれど、殺伐とした空気は無い。

 本来『異種格闘技戦』の場であるならば、いや、それ以前に『格闘家』であるならば、己の鍛錬の成果の証明の為に背負う流派の誇りにかけて、「どちらが強いのか」暴力と威圧の旋風が吹き荒れそうなものであるが……この場に、そんな「恐ろし気な空気」は欠片も存在しない。


 会場に漂うのは、ただただ「何が起きるのか」という期待感。


 異なる武術がぶつかり合う事で、選手が積み上げた修練がどのようなドラマを生み出すのか?


 単なる「強さ」なんてモノを、この場の誰もが求めてはいない。


 この場に居る者達は、皆が揃って「未知」の技に挑む()()鹿()()()


 『俺より強い奴に会いに行く』__格闘ゲーム『ストリートファイターⅡ』の看板文句を地で往く様な気持ちの良い大馬鹿達が、己の修練と誇りを胸に、誰に恥じる事のない自身の『格闘道』を貫く為に此処に居る。


 誰もが己の戦う理由を胸に、この場に立っている。

 誰もが「相手を倒す」為ではなく、「己の修練の成果を試す」為に拳を握る。




「始めェェェェェッ!」 ピーーーーーッ!


 審判の合図と同時に、両選手が一気に間を詰めていく。

 最初に仕掛けたのは空手道着の選手。

 自身の攻撃射程に入るや否や、一気に加速し相手選手の顔面へと素早く掌底を叩き込む!

 フェイスガードに護られてジャージ姿の相手選手は当然無傷。

 だが「寸止めルールなど知りませんが何か?」と言わんばかりの一撃に、明らかにリズムを崩された様子である。

 しかしそんな激しい攻撃に対してどこからも「反則だ!」との声は上がらない。

 攻撃は当たったがそれはあくまでフェイスガードに、だ。

 全力で打ち抜くような攻撃でない為、反則とはカウントされない。

 むしろ「目潰し」として有効打であったと判断され、一斉に審判の旗が上がる!


「っ!」

「……」


 戸惑うジャージの選手に無理な追撃をするような事はせず、空手道着の選手は一旦距離を取った。

 互いに細かくローキックやジャブで牽制し合いながら距離を取る。

 見合ってこそいるが、守りに入る事はしない。


 何せ試合時間はたったの「一分間」なのだ。


 相手の出方を待っていたらそれだけで何もせずに試合が終わってしまう!

 故に、攻める。

 攻めなければ何のためにこの場に立ったのかが分からなくなってしまうから。


 空手道着選手のローキックに対し、的確にジャブを返していくジャージ選手。

 しつこい蹴りにお返しとばかりにローキックを返すジャージ選手だったが、空手道着選手の踏み込みの方が早く押し返される形で転倒。

 突き飛ばしではないと審判にアピールする空手道着選手。

 その間に距離を取り、軽くステップを踏むジャージ選手。

 その動きにはまだ硬さが残るも、序盤の動揺は多少リカバーできている様子。


 試合は止まらずそのまま打ち合いが続く。


 互いの拳が胸に、顔にぶつかり合うが有効打にはならず。

 一進一退の攻防ではあるが、現状は1-0で空手道着選手がリード。

 2本先取されたら勝負は終わる。

 時間も無い。

 攻めるしかない!

 だが、攻めるしかないと分かっていても無理な攻めは自殺行為、と空手道着選手が相手と一旦距離を取ろうと、引いた。

 そこにすかさず踏み込んでいくジャージ選手、そして放たれるワン、ツーパンチ!


 綺麗にフェイスガードに直撃する左拳に審判団の旗が上がった。


 これで、1-1。


 だが、この一撃が空手道着選手に火をつけた。


 間合いを取ろうと引いた事を恥じるかのように一気に距離を詰め、相手を引き倒すとマウントポジションを取って顔面に「有効打を入れた」アピールを繰り返す!

 転がされたジャージ選手もすぐさま足を使って空手道着選手を撥ね退けたが……時すでに遅し。


 審判団の旗が上がって、2-1。


 空手道着選手の勝利が決まる。


 沸き上がる会場、互いに健闘を称え合う選手たち。

 礼をして舞台を離れる二人の選手。

 勝者の顔には確かな笑顔が浮かび。

 敗者の顔には拭いきれない悔しさが浮かぶ……。

 




 勝負事である以上、勝ち負けは生じるもの。


 とはいえ、「試合」とは「試し合い」の場であり、「死合」の場ではない。

 競い合う以上は勝者敗者に優劣を付けたくなるモノではあるが、「相手を傷つける事」が目的であるならば別に「格闘技」など修めなくとも、銃で相手を撃てば、武器で相手を打ちのめせばそれで済む事。

 単に勝てばいい、という「暴力」としての「武術」に何の意味があるのだろうか?


 故に、()()()()()()()()()()()『武』に伴う『精神性』、すなわち心の在り方。


 大会の主催者である菊野克紀氏が掲げるのは、「親が子供に見せたい格闘道」。


 誰に恥じる事のない戦いを。

 誰もが憧れる背中を。

 強さの意味を、力の在り方を。

 そして踏み出す勇気を。


 『武術』という『力』を『暴力』に貶めない為の『道』。


 そんな菊野氏の想いが込められた武術大会こそが……




 「敬天愛人練武大会」である。




   ◇  ◆  ◇



 あなたは菊野克紀氏をご存知だろうか?


 総合格闘技(『UFC』『DEEP』『巌流島』)等で素晴らしい活躍をされた選手であり、現在は『誰ツヨDOJOy』『こどもヒーロー空手教室』等で指導者としても活躍されている方である。

 いわゆる『武術系youtuber』でもあり、様々な格闘家、武術家の方々ともコラボされているので、そちら方面で知る方もいるのではあるまいか。

 ちなみに私も氏をyoutubeで知ったクチである。


 菊野氏は普段、「誰でも何歳からでも強くなれる」をコンセプトに精力的に活動をされている。


 『敬天愛人練武大会』も、そういった氏の情熱が花開いた成果である。



 大会の趣旨、総則に掲げられているのは以下の通り。


1、「親が子供に見せたい格闘道」をコンセプトとし全ての関わる方達の在り方を大切にする。

2、競技の枠にとらわれず、実戦性を追求しつつも安全性を担保し、選手が思いっきり自分と自分が積み重ねてきたものを表現する場とする。

3、何より選手も観客も運営も楽しむことを目的とする。 


 子供向けの空手指導も行っている菊野氏らしい、実に素晴らしい趣旨だ。


 私も、そんな菊野氏の素晴らしい想いに共感してこの大会に個人協賛者として出資した____と言えたならば良かったのだが、残念ながら私が当大会に協賛した理由はかなり俗なものだった。

 菊野氏の掲げる大会趣旨など二の次で、ゲスト参加される著名な『武術系youtuber』の方々に会えるチャンス!その為ならば多少の金ならだしちゃるぜ!うはははは!くらいの、かなりミーハーな理由での協賛金出資だったのだ。

 私の下卑た動機を詳らかにしてしまう事で不快感を感じる方もいるかもしれないが、つまらない見栄を張って真実を隠し、嘘を並べ立て、語られる話に何の価値があるだろうか?


 私は一人の物書きとして、ただ伝えたいのだ。


 私が46年生きた中で初めて自分から進んで足を運んだ「格闘技大会」で、どれだけの衝撃を受けたのか、を。

 元々「格闘技」に対して好意的な印象を抱いていない私のような人間が、この大会を見に行ってどれだけ驚き、心震わされたのか。

 それらが私のつたない文で少しでもあなたに伝わったなら……とても嬉しい。





 私は「格闘技」があまり好きではない。


 まぁ、理由は予想がつくかもしれないのだが、中学時代に「格闘技」を使った暴力を心無い愚か者達から向けられる機会がそれなりに多かった、からだ。

 「格闘技」は己を武器と変える「道具」であり、「技術」。

 それそのものには何の罪はないと理解はしているが、修める者の意志ひとつで凶器にも盾にもなるモノ。

 そして哀しい事に大抵の場合、「格闘技」は弱者を守る為ではなく虐げる為の技術として振るわれる。

 私はいじめられっ子というわけではなかったが、独特の考え方をするヒネた子供であり、他者に迎合するようなタイプの人間ではなかった為良く面倒な連中に絡まれ、暴力を振るわれる事が多かった。

 彼等は例外なく空手やボクシングを使った暴力を振るい、己の力を誇示する。

 「格闘技」は身体を効率よく武器化する技術であり、どれだけ美辞麗句を並べようとも、「武器」は誰かを傷つける道具でしかない。

 その為、「格闘技」は=「暴力」と見做されやすい。

 昨今では『ブレイキング・ダウン』の様なアウトローな気風を押し出した番組等も人気を博している事もあり、尚更そのような印象を抱く方も多いのではあるまいか。

 まぁ、私自身「格闘技」が嫌いだと言っても、「バキ」や「はじめの一歩」「修羅の門」「鉄拳チンミ」などの「格闘技」や「武術」を題材としたフィクションは好きだし、「武術」にいたってはジャッキー・チェンのファンという事もあって憧れの念を抱いてもいる。

 「格闘技も武術も同じだろ?」という方もいるかもしれないが、武術はどこか神秘的なイメージを秘めておりフィクション的な匂いがする(中二病か!)事と、私を虐めた連中の中に「格闘家」は居ても「武術家」は居なかった為に、嫌な印象など持ちようが無かった。

 付け加えるなら、武術家は格闘家と違い「闘争」より「技術」の修練に重きを置く、という求道者的イメージが強くあった為、暴力的意味での嫌悪感が沸きにくかった。

 「格闘技」が嫌いなのに「武術系youtube」を視聴していたのはその辺りが理由だ。

 もちろん、前述のあれこれに多大な贔屓や偏見が含まれているのは自覚している。

 自覚しているが、訂正するつもりはない。


 振るわれた暴力の痛みは、振るわれた者にしか分からないものなのだから。



 先にも挙げた『第三回敬天愛人練武大会』を見に行こうと思った理由だが、正確には応援している『武術系youtuber』のお弟子さんが初めて試合に出場するというので直接見に行きたい!応援してあげたい!ついでにサイン欲しい!というものである。

 個人協賛したのも、その武術系youtuberの方がゲスト参加するという情報がすでに出ていた為、ならば確実に観に行くにはチケット争奪戦は最初から捨てて個人協賛者枠で潜り込んだ方が確実!と考えたが故の事。

 実際にチケットは即完売。

 チケット争奪戦に参加せずに済んだことに安堵した半面、ミーハーな理由で個人協賛した事に若干の後ろめたさを感じたりもした。

 実のところ、菊野氏の丁寧なメール対応があった事も更に後ろめたさを助長した要因だったりする……。(凄く丁寧だったのです)


 個人協賛の理由が前述の様なかなりミーハーなものだった事もあり、菊野氏の掲げる「親が子供に見せたい格闘道」という趣旨も、特に真剣には受け止めていなかった。むしろ冷ややかな目で見ていたかもしれない。

 まがりなりにも、「格闘技の大会」なのだ。

 殴る蹴るの『暴力の応酬』を、果たして子供が見て喜ぶだろうか?

 ただでさえ過激な表現が四の五の言われて規制されるご時世に、「親が子供に見せたい格闘道」なんてあり得るのか?

 それもプロファイターでも何でもないアマチュア格闘家の集う大会に、子供が価値を感じ得る試合があるのか?

 多くの著名な『武術系youtuber』が大会にゲスト参加する事で、大会そのものは華々しいものになるかもしれないが。

 大会開催日が近づくにつれ、高名な『武術系youtuber』の方がゲストとして次々と名乗りを上げられ、手にしたチケットが本物の『プラチナチケット』と化した事に若干血の気が引いたりもしたが……まぁ、そこはそれ。


 そういった事情もあり、私は『敬天愛人練武大会』そのものに大した期待を抱けずにいた。




 大会当日、かなり早い時間に現地に着いて私は会場設営の様子を眺めていた。


 早めに来たのはそれだけ楽しみだったから、では無く、選手の『入り』の早さを読んでの事。

 応援している選手に直接挨拶したい、応援したい、あわよくばサインを貰いたい!そんな風に思っていたからだ。 

 まぁ、読みは正しく、応援している選手の方にはサインや写真も撮らせていただけた。

 目的はこの時点でほぼ果たされたと言ってもよい。

 応援したい選手と直接お話も出来たし、サインも貰えたのだ。

 アマチュア格闘家のしょっぱい試合なんて見てもつまらないだろうから帰ろうかな?と思わなかったかと言えば、思った。

 試合スケジュールにしても、興味もない、知らない選手の試合が70試合以上組まれているのだ。

 そもそも大して格闘技に興味がない私では絶対に飽きる、そう思っても仕方がないのではあるまいか?


 だが、私はこの時点で妙な違和感に襲われていた。


 集まっている選手たちの様子が、予想していたものと随分違っていたからだ。

 思い思いに柔軟したり、知人同士で軽く手合わせしている様子はいたるところで見受けられた。

 続々と訪れるゲストの方達と選手たちが会話をしたり撮影したりもしていた。

 主催の菊野氏も、個人主催の大会の為か指揮命令系統が集中しすぎててんてこまいな様子で、あちらこちらを全力全開で走り回り、指示を出したりと非常に忙しそうだった。

 ごく当たり前の「大会前風景」なのかもしれない……のだが、実際に足を運んだからこそ感じる場の『空気』に、妙な違和感があったのだ。


 格闘技大会である。


 これから皆、バチバチ殴り合うのである。

 それなのに、漂う空気はどこか緩かった。

 緊張感はあるのに、殺気が無いとでも言えばいいだろうか?

 更に言うならば、多くの選手が「笑っていた」。

 菊野氏も()()()()で走り回っていた。

 

 「格闘技=暴力」という構図を抱く私からすれば、この空気は中々に理解しがたいものだ。


 仮にも格闘大会、試合があるという事はそこに勝敗が発生する。

 試合形式はトーナメント戦で優勝を競うという様なものでは無く、申し込んだ選手が希望するルール内で運営側がマッチングを行い試合するという形式ではあったが、勝負は勝負、結局のところボコボコ殴り合うのは変わらない。

 インターハイ前の空手部員のピリピリした空気を知っている。

 TVの試合前のレスラーの殺気だった様子を見ている。

 陸上選手だった従兄弟ですら大会前は勝ち負けにこだわって殺気立っていたのに、彼等はなんでこんなに緩いのか?

 参加者はプロもアマチュアも問わず。

 格闘技に特に関心のない私からすれば、言い方は悪いがほぼ全員が「名前も知らない乱暴者」。

 『第三回』と銘打たれているように「敬天愛人練武大会」は既に二度開催されている大会だ。もちろん、参加者同士で顔見知りの相手は居るだろうが、それでも参加者は参加費を払って参加している「大会」なのだ。

 周囲の格闘家は全員倒すべき敵、では無いからここまで緩い空気なのだろうか?

 それとも、所詮は()()()()()()だから緊張感が無いだけなのか?


 私には分からなかった。

 そもそも知ろうとしていなかったのだから、分かるはずが無かった。





 その『理由』が理解できたのは、会場入りしてからだ。


 会場である「中央区総合スポーツセンター柔道場」内は、既に熱い熱気に満ちていた。

 試合場内各所で思い思いにアップをする選手たちの表情は、入場前と一転して気合の入ったもの。

 だが、そこに他者を圧する様な威圧感は無く、ただただ圧倒的な高揚感と好奇心が漲っているのだと、一目見て理解できた。

 それは、何処か妙な懐かしさを感じさせる、既視感を感じさせる雰囲気で。


 脳裏を横切ったのは、あの言葉だった__『俺より強い奴に会いに行く』


 それは、1991年にカプコンから発売された、格闘ゲームファンなら誰もが知る名作『スト2』こと『ストリートファイターII』で使用されたキャッチコピーだ。

 「格闘技」を単なる暴力として世界征服の為に振るう者、求道者として「一撃必殺」の意味を問いながら旅する者、「闘い」そのものに飢えた者、ライバルとの「約束」を胸に王者として己を鍛え続ける者、「復讐」に狂い力を求める者……そんな様々な背景を持つ、世界各国の個性的な格闘家たちが1対1で戦いをくりひろげるという内容のゲームではあるが、当然ながらゲームをするのは生身の人間。

 そして、そのプレイヤーの多くは()()()()()()()


 選手たちの目に宿る「熱」は、無邪気に互いの技を競い合い、一喜一憂する『遊戯者(子供達)』の目に似ていた。

 ガチガチのルールに縛られた『TVの中の格闘技』ではない。

 自分が選んだルールの中で、自分の修練の成果を存分に発揮するただそれだけの為に、同じ目的を抱く人達と拳で自由に語り合う!

 「おれのさいきょう」を胸に抱き、瞳を輝かせながら「俺より強い奴に会いに」来た者達が此処に居た。

 そこに勝ち負けが生じるのは競技としての宿命ではあるが、優劣など関係なく、()()()()と思う存分に交流する機会なのだと考えれば……その昂ぶりは「格闘技が好きではない」私にも、嫌でも理解できる、させられる。


 彼等は、全員が『未知の武術』へと挑む『挑戦者』だったのだ。


 高揚するはずだ。


 漲るはずだ、昂るはずだ、ワクワクが、ドキドキが抑えられるはずがない!


 自分の「好き」や「成果」を、同じように抱えてる人達とぶつけあえるのだから

 周囲の相手は全て打ち倒すべき敵、な通常の大会と毛色が違って当然なのだ。


 そして……そんなスタンスの者達が集まって競い合うならば。


 ハメ技を使う様なクズは、仲間外れにされるだろう。

 卑怯な奴は嫌われるに決まっている。

 ただ勝てばいいなんて奴は、この場にはふさわしくない!

 だがそんな『悪役』(ヒール)が現れたとしても……「オレ」が、「わたし」が、絶対にぶっ倒すっ!


 『ゲーム』の中でしかありえないような戦いの場が、ここにはあるのだ。

 『物語』の中でしか許されないきれいごとが、ここでは通用するのだ。

 ここは『格闘技』を単なる『暴力』に貶めない。

 己を高める為に磨き上げた『技』と『術』を披露し、昇華しあう、練磨の場。


 そんなの……まるでリアル『天下一武道会』じゃないか!


 試合のルールも中々に凄まじい。


 試合時間はたったの『一分間』。

 相手の様子を見ている暇なんてない。

 『勝つ』為には一秒すら無駄には出来ないのだ。

 ルールに応じて決着方法も変わる上に、引き分けた場合勝敗を決めるのは『観客』という決まりまである。

 見る側にも分かる様な『有利な試合運び』を行って観客を味方につけられなければ判定で負ける。

 チキンな戦いやダーティーな戦法など論外。

 武器ナイフ使用あり、場外即『死亡扱い』、障害物あり、バトルロイヤルあり、等という特殊なルール下で戦う試合もある。

 もちろん、全員がそのルール下で総当たりするわけではない。

 希望するルール同士でマッチングされて、戦うのだ。

 得意なルールで戦う者もいれば、未知のルールに挑む者もいる。


 実際、試合が始まってみると選手たちの混乱ぶりは凄まじいものだった。

 一分という時間で全てを出し切れず嘆く選手がいた。

 慣れないルールに戸惑い、あっさり敗北する選手がいた。

 お互いに持ち味を生かせず、泥沼化する試合もあった。

 周囲がドン引きしてしまう様なとんでもない真似をしでかす達人が現れたりもした。

 失敗があり、妙技があり、背筋が震える様な『威』もあれば、魂を揺さぶる様な『真っ向勝負』もあった。

 一方的と言える試合だって、もちろんあった。

 勝ち負けは常に存在し続け、沢山の勝者と敗者が試合を重ねるごとに量産された。


 だが、そこには不思議と笑顔があった。


 「拳で語り合う」とか、「ぶつかる事で深く結びつく友情」とか、そんな表現をしたくなるような、爽やかでありながらも熱い真剣勝負が終始繰り広げられた。

 そこには、傷つき流れる血に狂うような醜い戦いなど存在しない。

 『勝利の栄光』に目がくらみ、対戦者を倒す事にのみ終始する『修羅』の姿などない。

 私達の目の前には、子供がつい憧れを抱いてしまうような、沢山の「強い大人達の背中」が確かにあった。

 菊野氏の掲げる、「親が子供に見せたい格闘道」が紛れもなく存在していた。

 「格闘技」が単なる「暴力」ではない「強さ」の象徴として、「憧れ」るに足る『武の道』として光輝いていた。


 ……正直に言わせてもらえれば、何故こんな空気が生まれるのか?と疑問ばかりが浮かんだ。


 目の前で繰り広げられたのは、バチバチの蹴り合い殴り合い。

 交わされていたのは紛れもなく「暴力」だ。

 場の空気に飲まれ、興奮させられていただけだろう?……と言いきれたなら簡単だったろう。

 しかしながら私が『敬天愛人練武大会』で感じた選手たちの輝きは、「格闘技」が持つ「負の側面(暴力性)」とは程遠いものだ。

 剣闘士が闘技場で殺し合う様な殺伐さとは無縁で。

 戦場で兵士が命を取り合う非情さとはかけ離れて。

 拳を、技を通じてただ純粋に互いを高め合い、認め合う。

 参加者がその胸に抱いていたであろう己の『在り方(武道)』の発露。


 各々がそれを十全に表現できる場が、『敬天愛人練武大会』という大会だったのではあるまいか?


 参加者一人一人が、己が表現したい『ヒーロー』だったから。

 『俺より強い奴に会いに』来た『主人公』だったから。

 単なる勝ち負けにこだわらない、『武』と向き合う参加者の『心の在り方』を問う大会だったからこそ、観客の心を大いに震わせたのだ……あの日見た光景を、感じた空気を、今はそのように解釈している。


 大会を通じてその事に思い至れて、菊野氏の主催したこの大会の『在り方』に感銘を受けて、そこで初めて私も正しい意味での『協賛者』になれた様に思う。


 この感動を、いち個人協賛者としてどうにか一人でも多くの人に伝えられないものかと、こうして筆を執った。

 いや、むしろ個人協賛者として()()()()()()()()、大会に何の寄与も出来なかったと感じたからこそ、こうして筆を執ったのだという方が正しいか。

 物書きである私に出来る事と言えば、「書く」事くらいしかないのだから。


 菊野氏の開催する『敬天愛人練武大会』は今後も場所を変え、姿を変え、沢山の協力者に支えられながら続いていくだろう。

 私という個人が今後どれだけ氏の理想に助力できるかは分からない。

 だが、あの日の感動を、驚きを、こうして文章として残す事で少しでも菊野氏の活動に興味を抱く方や賛同者が増えてくれれば良いと思っている。youtubeの画面越しでは伝わり切らない、あの日の大会で渡された感動という名の花を、枯らすことなく一人でも多くの人達に渡す事が出来たなら。その上で菊野氏の活動を支えてくれる仲間が生まれてくれる機会に恵まれるなら……物書きとしてそれ以上の喜びはない。




 私は、「格闘技」は「暴力」である、と今でも思っている。


 菊野氏の理想に感銘を受け、共感しつつも、それでも私は「格闘技」を「暴力」を効率的に振るう為の技術であると、そう解釈している。

 だが、同時に「格闘技」は道具であるとも思っている。

 そして、道具の取り扱いは、その責任は、使用する者に帰結するものだと考えている。

 

 大事な人とつながる為の『手』とするのか?

 誰かを傷つける為の『拳』とするのか?

 誰かを守る為の『盾』にするか?


 握ったこぶしのその意味は、握るあなたに常に問いかけられる。

 

 「暴力」に傷つけられる人は、今後も減る事はないだろう。

 そして、「暴力」として「格闘技」を用いる者もまた、減る事はないだろう。


 だが、だからと言って菊野氏の掲げる想いがただの理想に終わると私は思わない。


 私は、『敬天愛人練武大会』で確かに見た。

 「格闘技」を単なる「暴力」に貶めない人達の戦いを。

 『俺より強い奴に会いに行く』戦士たちの燃え盛る魂を。

 人生を『武の道』の求道者として捧げた気持ちの良い大馬鹿野郎たちの掲げる、「親が子供に見せたい格闘道」を!


 彼等の様な「格闘家」が増えれば。

 彼等の背中を見て正しく「格闘技」を振るう者達が増えれば。

 己の拳の在り方に『意味』を問い続ける者達が増えれば。


 「格闘技」に対する認識を改める人達も増えるのではないだろうか?


 少なくとも、私は知る事が出来た。


 「敬天愛人練武大会」を通じて、「格闘技」を暴力に貶めない『武道』としての在り方を。


 「親が子供に見せたい格闘道」__実にカッコいい理想ではあるまいか?

 「誰でも何歳からでも強くなれる」__実にワクワクする話ではないか。


 そんな、まるで『物語』の世界のような『現実』を、実践してみせる人達が集う夢の舞台。


 それが、リアル天下一武道会__「敬天愛人練武大会」。




 あなたも是非一度、足を運んでみてはいかがだろうか?


 きっとそこには、未知の「格闘技の魅力」が溢れているだろうから。

尚、2023/05/28(日)墨田区総合体育館柔道場にて

『第4回敬天愛人練武大会』の開催が決定したそうです!


葵さんは可能なら今回も個人協賛で参加するつもり。


『敬天愛人練武大会』HPはこちら。

https://ktaj.net/

菊野克紀先生のHPはこちら

https://kikunokatsunori.com/

菊野先生のyoutube『武術格闘家 菊野克紀 の 誰ツヨDOJOy』はこちら

https://www.youtube.com/channel/UCsMYYYoPn0Oqo-lCkGKKKVQ

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