1話「再び始まる人生」
ここは...どこだ?
目の前には、知らない光景しかないのだ。草木が生い茂る、森の中。小さな広場のようになっている、湖のそばにいるようだ。こんなところ、さっきまでいなかった...。
『さっき』?
そもそも、僕は、さっきまでどこにいた? 家? 学校? 公園?
思い出せない…。それよりも
僕は…。
誰だ? 名前は? 住所は? 何か持ち物は…。無い
いわゆる、記憶喪失ってやつか?
色々なことがありすぎて、頭が事態についていかない。クエスチョンマークが飛び交っているのが自分でわかる。
見上げると、空が見えた。暗かった。
今は、夜のようだ。
頭上に広がるのは、やけに紺色な星空だ。星空だけは、自分が知っているままのものだった。波打って見えた湖も、岸際は穏やかだった。両膝を地面について覗き込む。
水面には当然、自分の顔が映っている。見慣れた、しかし自分でも個性的だと思う、黒と少し淡い緑が混ざる髪。長い睫毛のせいで、女の子みたいだと言われる頼りなさそうな目。
自分がよく知っている、ありのままの自分。あまり好きでは無い。
服装は、自分の持ち物では無いように思う。黒を基調とした、簡素なTシャツ、ズボン。靴は、運動靴のような動きやすさだが、見た目は深緑色で、革のような素材だ。
さらに訳が分からなくなってきた。
突然、強風が吹いた。吹いて、草木が揺れる。揺れて、視界に影が映った。
草木?いや、何か…何か違和感が…。
まあ、いい。とりあえず、何かしなければ。
困った時は、周囲の確認から入るべきだろう。湖のほとりてほとりでも歩いてみるべきか。
よく見れば、この草木も、僕の知っている品種はひとつもなさそうだな…。
……。草に、かなり長い影が…?
そうだ!影だ!先程感じた違和感は、これだったのだ。今は夜で、こんなはっきりとした影が自然にできるはずがない。そう、自然には。
勢いよく後ろを振り向くと同時に、光の筋が見えた。反射的に、右に向かって飛び退いた。
一瞬の後に、たった今まで自分がいた場所を、剣先が振り下ろされていく。
剣の持ち主は、重装な銀色の鎧を身につけていて、左手には松明を持っていた。これが光源となり、夜に相応しく無い影を生み出していたのだった。
松明の光を反射しながら振り下ろされた剣は、偽物には見えなかった。
つまり。この人物は。
僕を本気で殺そうとしていた。
「ほう?よく、今のを避けられたな。完全な無防備だと思っていたが、かなりの反応を見せるでは無いか。予想以上だ。素晴らしい」
避けられたことなど気にする素振りもなく、それどころか完全な場違いの賞賛まで送り、笑う。否、嗤う。
「ところで、見たところ、剣も何も持っていないようだが…。お前は、何者だ?」
兜で顔はよく見えないが、声からして、男のようだ。
「僕は…。誰なんでしょうか…一体。あなたは、一体誰なんですか。何故僕を殺そうとするんですか?」
剣で人を殺そうとするなんて、時代が明らかに違うのだが…。
やはりそうか、と呟いた後、
「もちろん、お前が敵の可能性が高いからに決まっているだろう。正体が分からなくとも、疑わしきは罰する、だ」
と芝居じみた風に、しかし淡々と言い放つ。
この状況を、どう打破すべきか。
相手は、白銀の鎧に顔全体を覆う兜。そのせいで顔ははっきりとは見えないが、わずかに空いている隙間から、含み笑いでもしているかのような目が見える。
厚みのある剣を片手で軽々と持っていることから、かなりの力を持っているだろうことが推測できた。
装備は万全、おまけに本気で人を殺すことに、何の躊躇もないような人格に思える。
対して僕は、普通の服に、持ち物は全く無く、手がぶらんぶらんの状態。ゲームスタート直後、チュートリアル無しにボス戦に挑まされている感覚だ。
問題は、これがゲームなどではないことで、即ちーー本物の命がかかっていることで。
「さあ、死ぬ準備はできたのかな?」
状況が目まぐるしく変わりすぎて、何が何やら理解が追いつかないが、このまま黙って死ぬわけにもいかない。
何か、使えそうなものは。なんでもいい。あたりを見回すが、何も無い。いや…。まだ、手はある。かもしれない…。
「名前くらい名乗っておこうか。どうせ、覚えていないのだろうから」
『覚えていない』?
つまり、僕はこの人物と、会ったことがある。のか?
「私は……」
名前の部分が聞き取れなかった。肩書きが、聞いたことの無いような職業で、聞き取りにくかったのだ。
ただ、それだけでは無かった。
「逃げろっ!」
この声が、ちょうど重なったのだ。矢が飛んでくる。ちょうど、男の目の前あたりの木に刺さる。
「ーーッ⁉︎」
男が、少しだけだが怯む。即座に走る。走る。突然、辺りに煙が発生する。かなり濃くて、足元が見えず躓く。転んで、煙が消えて、男に捕まって……。
「さあ、逃げるよっ!」
焦りこそ混じっているものの、安心させるためか、微笑を顔に浮かべた青年が僕の手を掴み、倒れかけていた体を前に引っ張りつつ起こす。
チッ。こんな矢くらい、身体に向かってきても、軽くかわせる。飛ばしてきてやつは、それが分かっていたから、最初から威嚇のためだけに外したのだ。
腕を軽く振る。それだけで、周囲の煙が一瞬にして霧散した。
素早く辺りを見回す。ヤツはいない。矢が飛んできた方向にも、誰もいない。今の隙に逃げられたのだ。
味方が気を逸らしてくれると分かっていたから、ヤツは惚け通していたのだろうか?
いや、そうじゃない。それなら、味方の方を、少しは気にしていただろう。矢を飛ばしてもらうタイミングを図るために。
そもそも、ヤツを見つけたのは、ほんの偶然だったんだ。そんなことを仕組む余裕なんか、なかったはずだ。それに、ヤツにはこの世界での仲間はまだいない。私はそのことを誰よりも知っているはずだ。
つまり、ヤツは、いきなり飛んで来た矢を見て、自分を逃すために飛んで来たことを瞬時に理解した。そして、この真っ暗な状況で迷うことなくどこかに隠れた、もしくは逃げた。
やはり、とんでもない状況判断能力と、瞬発力の持ち主だ。
だが…。
状況の有利は私にある。自分らしからぬ焦燥感故のミスで、こんな貧弱な肉体で舞い戻ったわけだが、力は振るえる。
声がーー静かな笑い声が辺りに低く響いた。
「あ、ありがとう、逃がしてくれて。キミは…?」
僕は、今、青年の真後ろをピッタリとついて走っている。先程、矢を飛ばしてくれた青年だ。
青年が矢を飛ばす寸前、彼の存在に気づき、意図を察した。
逃げる手助けをしてくれる、と。
この森は、中に入ってみて分かったが、想像以上に入り組んでいた。青年は、その道を迷うことなく全力疾走している。土地勘がかなりあるようだ。
「お礼なんか、いいよ。それより、そろそろ何処かに隠れないと、さっきの男が追ってくるよ。急がなきゃ!」
追ってくる?距離は、かなり開いていると思うのだが。
しかも、男は僕たちが逃げた方向も、分からないはずだ。もう、諦めるのではないだろうか。
そう、普通ならー
「えっ!?」
足元が、急に明るくなった。後ろを振り返る。足跡の形に、地面が光っている。ちょうど、僕たちが通ってきたところがー。
「見つけたぞ。まったく、手を焼かせる」
な、なんだコレは。まるで…。
「くそっ、こんな高等魔法を使えたのか。隠れても無駄だったみたいだね…」
本当に、魔法だったのか。
ようやく気づく。ーーここは、自分の知っている世界ではないのだ。異世界ってやつか。
どうしてこんなことになったのかは分からない。だが、そんな事を言っている場合じゃない。
完全に、まずい状況だ。光る足跡を辿って、ヤツが追ってきている。場所を変えても、無駄だろう。
振り切るか、撃退スルか。サイテキカイを迅速に選択シ即座にコウドウしなければーー
「イニガー・フル!」
眩しいっ!いや、熱い、熱い!炎の直線が、こちらに向かって何本も飛んでくる。
途端に周囲の木々が燃え広がり、暗がりを照らす光源へと早変わりし、薄笑いを浮かべる男の姿を攻撃魔法も使えるのか…。
いや、なんの冗談だよ、もはやファンタジーの世界ではないか。異世界どころの話じゃない。
「こっちへ!早く!」
青年を連れて、すぐ近くの岩陰に身を隠す。
さっき、この岩に当たった炎線は、貫通したり、岩を削ったりはしなかったのを、確認済みだ。
「攻撃魔法は、あまり強くはないようだね。多分、向こうの偵察隊の1人なんだろう。攻撃隊員ではないはず…」
「ん?」
青年の言葉の中に、引っ掛かる単語があった。
「"向こう“って、なんだ?」
そう言えば、さっき、ヤツも僕のことを“敵”と表現していた。この世界では今、国家間での戦争でも起こっているのだろうか。
「後で説明するよ。だから」
息を整えながら話す。
「今はアイツをなんとかするのが先だ!」
「イニガー・フル!」
また、炎線がいくつか見える。
この岩陰にいれば、少なくともあの魔法攻撃を喰らうことはない。そう分かっていても、とてもヒヤヒヤする。それに、もしも直接剣で攻撃をしに、こちらに向かってくれば…。
「ちょっと、いいかい?」
青年かは、何かを取り出しながら声をかける。それはーー
「この剣で、2人で同時に攻撃に転じようと思う。相手は多分、偵察隊だ。剣も最低限しか使えないはずだから…」
声に緊張の色を滲ませながら話す青年から、剣を手渡される。かなりずっしりとしているが、試しに素振りしてみると、意外にも簡単に振えた。
なるほど、そうするしかないようだ。だが、できるのだろうか。『する』と『できる』は、互いに延長線上にありながら全くの別物なのだ。
相手は当然、魔法で応戦してくるはずだ。イニガー・フルなる魔法を使い続けてくるなら、単純な直線攻撃、しかも線と線の間隔もかなり広いので、なんとか避けられるかもしれない。しかし、万が一全く違う魔法を使ってきたら…。
「ーーーーッ!」
何かを、感じた。『シューーッ』というような、風の音のようにーーというより、それ以外にない。紛れもない、場違いな風の音だ。
でも、普通の音とは少し違う。澄んだ、きれいな、楽器の音色のようだと表せば良いのだろうか。
風は、すぐ手元と、岩を挟んだ向こう側にいるヤツを、結ぶように流れている。まるで、岩なんて存在しないかのように。
緩やかに。細く。鋭く。
ドクン
ドクン
今度は、心臓が鳴るような音がする。自分自身の。鼓動。これは。
「じゃあ、僕が合図するから、一斉に飛びかか…」
「ちょっと待って」
青年の言葉を遮る。
「僕一人で大丈夫。アイツを倒せる」
「え?」
戸惑う青年を傍目に、『準備』に移る。
自分でも、何を言っているんだろうって思う。
でも、できる。大丈夫。風が、語りかけてきた。アイツを倒す方法を。今、この場で。
両手で持っていた剣を、片手に持ち替える。
右手で持っているが、なんとか持てているような状態だ。そのまま、岩の前に立つ。先程、風を感じた場所へ。
「剣が軽い。体の奥底から、力が湧き出る。できる。今なら、できる」
心の中でそう呟きながら構える。
これは、紛れもない、命の奪い合いだ。生まれて初めてーー否、記憶を失くす以前のことはわからないから、少なくとも記憶のある範囲では初めて、命を賭ける瞬間のはずだ。
だが、興奮や恐怖はほとんど消し飛んでいた。
記憶喪失、異世界、そんな予想外の連続のせいなのか、はたまた他に要因があるのかは解らないが、とにかく落ち着いていた。
逡巡もろとも、右手に持つ剣で斬り払う。
斬る。斬った。空気を。岩の前の空気を斬った。
先程の素振りと、ほぼ同じような形だ。右手で持った剣を腕をまっすぐに伸ばして掲げ、切っ先が少し左下に向かって進んでいく、ごくごく普通の動き。
だが、先程とは少し違う。あまり力を込めていない。軽く斬った。もう一つ、違うのはーー
岩は、真っ二つになっていた。一拍遅れて、割れた、二つになったいわが、音を立てて外側に倒れる。違った。威力が。全然。
さらに、『明るかった』。
剣が淡い緑色の筋を何重にも纏い、その周辺をこれまた淡くだが照らしていた。
そして、その向こう側。
アイツ、騎士のような恰好をした男。その男の鎧が、ひび割れている。そして、パラパラと欠片が落ちていく。鎧の右上から左下にかけて、少し斜めに大きな傷ができている。そして、銀色だった鎧は、傷の周りだけが、真紅に染まっている。
「な」
男が発した声だった。
「なに、が、お、きた?……」
男は、前のめりに倒れ込み、動かなくなる。だが、倒れる刹那、微笑を浮かべた。気がした。
ーーそういう、ことか…。お前は……
多分、死んだ。この手で、殺したのだ。いや、違う。おそらく、死んだのでは無い。その証拠に…
ということは、死んだように見せる目的が有る、と考えるのが自然だ。それは、何か。それは…
「消えた⁉︎」
男の死体ー実際には倒れ込んだ体ーが、目の前で消えたのだ。一瞬で、よくわからなかったが、闇夜に溶けるように消えた、と表現するのが、一番合っているだろうか。一体、何が。
「一体、何が…」
自分の声ではない。青年の言葉だった。
「こんなに……強かったの?」
強い…のか?今のは。魔法を普通に使うような世界で、今の僕の攻撃は、『強い』なんて表現できるのだろうか。魔法で攻撃する方が、よほど強い気もするのだが。
「あんな斬撃破、一流の剣士でも放てないよ。剣速も、剣圧も、僕とは比にならないよ。どうやったんだい?」
純朴で真面目。そんな印象だった青年だが、かなりの勢いで質問や疑問を捲し立てあげる。青年は目を丸くして、よほど驚愕しているようだ。
どうやら、本当に『強かった』と思っているらしい。先程の力は、それほどまでの威力を持っていたのか。
しかしながら、どうやったんだいと聞かれたところで、自分でもよく分からない。感覚のままに剣を振るっただけだ。しかも、剣を持つことすら生まれて初めてだったのだ。こちらが聞きたいくらいだ。
「キミは……何者だい?」
それも、こちらこそ聞きたいことだ。どう答えたものかと困る僕は、ヤツの遺品の松明が、今にも消えそうな炎を揺らしているのを見つめるしか、出来なかった。