00-04 殺害予告
揚げ教官(『揚げ』は名字)の第一印象は、ほのぼのして優しそうなおじいちゃんといった感じだった。白髪混じりで、60歳前後を彷徨っていそうな風貌だ。
なお、実際には教官ではなく先生と読んでいたので、以下『揚げ先生』とする。
「はい、じゃあよろしくお願いしますね」
車内のライトに照らし出された揚げ先生が言う。揚げ先生は運転席に、私は緊張しながらも助手席にとりあえず座ってみた、というかたちだ。
「よろしくお願いします」
私がかしこまった挨拶を返す傍ら、隣の揚げ先生はマイペースにポケットをガサゴソしはじめた。
「ええと、あれください。教習原簿と手帳。歳だもんで、最初にハンコ押しとかないとね、忘れてしまうんでね」
えぇ…………そんなことしていいのかよ………………。
教習所におけるハンコとは単位認定の証みたいなものだ。あまりにも運転の技量がひどければ、出席していてもハンコが貰えない場合だってあるらしい(案の定、揚げ先生以外の先生たちは授業終了後に押してくれた)。
しょ、初日だしまあいい、のか…………? 私は無理やり自分を納得させることにした。
「ええと、お名前は『餅角』さんで合ってますかね?」
方言なのか、独特のイントネーションで揚げ先生が尋ねる。想像していた教官像に反してなんだか優しそうな感じだし、私はだいぶ安心しきっていた。完全に油断しきっていた。
小ボケを入れて車内を和ませてみようと思い、軽〜い気持ちで。ほんの軽〜い気持ちで私は陽気に答えてみたのだ。
「はいっ、餅角さんです」
「あ、今自分で『さん』付けましたね? 首締めてあげましょうか?」
…………!!!!?!!?
いや、↑この言葉そのまんま言われたんですよ。
想像してみてください。あたり一面真っ暗で周りにはなにもない、二人きりの密室(車内)。運転席と助手席といったわずかな距離。そんな中で、面と向かって初日から殺害予告を受けたときの私の心境を。
(こえぇえええ…………!)
私が口を半開きにしたまま硬直していると、幸いすぐに揚げ先生は最初の調子に戻ってくれたので事なきを得たが。
実際の運転を始める前に、私たちは初対面ならではの会話をした。
「餅角さんはどこから来たんです?」
「Q地方です」
「はあ、よくもまあそんな遠くから…………。もしかして酪農関係の大学ですか?」
「や、違いますね」
「そうですか。昔ね、教え子でいたんですよ。同じQ地方の男の子が」
揚げ先生が楽しそうな笑顔を見せる。その笑顔に再び私は安堵した(まっこと心変わりの激しい奴である)。…………なーんだ、やっぱり普通の優しいおじいちゃんじゃん。アレか? 普段は優しいけど怒らせたらヤバい的な。
「で、どうしてマニュアルにしたんです?」
まあ必ず聞かれる質問だろうなとは思っていた。ところがどっこい、私には明確な理由がない。
「お仕事で必要なんですか?」
違うんですよ先生〜〜! 理由なんてないんです!
前に出てきたカネツくんのように、進学関係で利用したいわけでもない。それに私は彼と違ってまだ学生真っ只中だし、仕事どころか今専攻している学科にも180度関係ない。
一言でいえば「なんとなく」だ。だからその気持ちを私は正直に、愛想笑いを交えて返したのだった。
「いや、特に理由はなくて。まあ、(MTの運転資格が)ないよりはあった方がいいのかな? 的な…………」
「ふうん」
揚げ先生は解せぬといったリアクションをとった後、
「で、『軽い気持ちでマニュアルにした結果、地獄を見た』と」
納得した顔でなんとも意地悪な事を言う。
「えっそんなこと言わないでくださいよ先生!」
まあ残念なことに揚げ先生の予言は的中してしまうのだが…………。
「もう卒検の翌日にバイト入れちゃってるんで、延泊になるわけにはいかないんです!」
一緒に働くバイト先の先輩たちは「偉いねぇ」などと言って私を快く送り出してくれたし、迷惑をかけるわけにはいかなかったのだ。だから、何としてでも目標は最短日数で合格。そしてそのままスムーズに地元のQまで帰ること。
たった一度の不合格が延泊!!!! ……グッと気を引き締めなければ。
この時の揚げ先生の反応についてはあまり覚えていないものの、まあまあ冷めていたような気がする。
「じゃあ、まずは僕が車を移動させますので」
いとも慣れたハンドルさばきで、駐車場から車は動いた。教習所内のどこへ行くのか分からなかったが、揚げ先生が車を走らせつつ静かに言った。
「今の地球上を走る車の99%はオートマなんです。…………マニュアルはね、地球に逆行した車ですから」
「地球?」
えっ地球? 「時代」じゃなくて「地球」?
「ええ。だからマニュアルなんて、仕事で必要な人か、よっぽど車が好きな人しかとらないんですよ」
「へ、へぇ〜〜」
マニュアル車が絶滅危惧種であることは何となく知っていた気もするが、まさかの99%とは驚きだ。
教習所の隅っこで車は止まった。何だかんだいってもう19:45くらいになっている。
「では運転席に座ってもらって、今日は『半クラ』の練習をひたすらやりましょう」
出た!!! 半クラ!!! さっきのシミュレータの授業でびみょ〜〜についていけなくて焦ったヤツ!!!
私は早速危機感を覚えた。
さあ、残りの授業時間では、その半クラなる足元の厄介者が私を待っている。……いや足だけではない、左手ではギコギコ慌ただしく動かさなければならないギアチェンジだってお待ちかねだ。
「半クラとは? ギアチェンジとは? そもそもオートマとマニュアルの違いとは?」という点について分からない読者にとっては読みづらい文になると思うので、次回の冒頭ではそれらの言葉に軽く触れてから、再び私の物語を書き進めていこうと思う。
前回の後書きをご覧になった方、大変申し訳ありません(さっそく実技を書くはずが予想外に延びてしまいました)。今度こそ実技の描写に入りますのでよろしくお願い致します。