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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

Beasts & Flowers world

届かない月を掴む ―Grasping the unreachable moon―

 一際技巧を凝らし、伸びやかな竪琴の音色で演奏会は終わった。


 魔法灯(ランプ)が煌めく王宮内のホールで、宮廷楽師による演奏会が行われていた。

 舞台に立つのは二十名程の宮廷楽師。厳しい試験を合格した者達だ。男性は渋水色のロングコートに黒いトラウザーズ。女性は渋水色の袖のないドレス姿で楽器を演奏する。


「どうなさったの?」

 席を立とうとした時、隣に座っていた婚約者イェルハルド・レーフグレーン侯爵の顔が紅潮していることに気が付いた。淡い金髪に緑の瞳。少し着崩した黒い夜会服は、二十五歳になったばかりのイェルハルドに退廃的な魅力を加えている。


「あの竪琴の奏者は素晴らしいね」

 イェルハルドが珍しく女性を褒めた。長い紫紺色の髪に紫の瞳の美しく若い女性奏者は、最近の話題の中心人物だ。


「最近、宮廷楽師になったのだと聞いています。何でも、とてもすばらしい成績で試験に合格したとか」

 貴族の女性だけの茶会では、男性の注目を浴びる女として危険人物と認識されている。一般国民で正規の教育を受けていないらしく、子供のような言動が貴族の男性達には新鮮で、好意的に受け止められている。


「そうか。名前は知っているか?」

「……クラーラと聞いています」

「クラーラ。……素敵な名前だね。クラーラ……」

 イェルハルドが舌で転がすように女の名前を呼ぶ。


「……ほかの女性の名前を私の前で何度も呼ばないでくださる?」

 少し苛立ちを感じても、セルベル子爵家の娘としては声を荒げる事は絶対に許されない。微笑みながら首を傾げて、イェルハルドに静かに訴える。


「あ。ああ、申し訳ないね。ロヴィーサ」

 頬を紅潮させたイェルハルドが私の青緑の髪の一房に口付ける仕草は、いつもよりも優しいものだった。


      ◆


 演奏会の二日後、イェルハルドが約束より遅れてセルベル子爵家の上級町屋敷(タウンハウス)に訪れた。

 イェルハルドが着用する青緑色のロングコートは最近の流行りの色だ。私の髪色に合わせた訳ではないだろう。イェルハルドは流行に敏感で、毎夜どこかの夜会や観劇に出かけている。


「昨日、結婚式のドレスの採寸を終えました。貴方の採寸はいつになさるの?」

 本来は一緒に採寸を行うはずが、直前になって解約(キャンセル)された。


「……え? ああ、申し訳ない。少し考え事をしていた」

 イェルハルドはうわの空。今日は説明しても無駄かもしれない。


「お疲れなのね。お仕事が大変なの?」

 侯爵である彼は王や王族へと助言を行う元老院の一員であっても、年若いので発言権はない。ただ在籍しているだけのはず。

 そうはわかっていても、侍女に疲労に効く薬茶をお願いする。


「ああ……少し忙しい」

 イェルハルドが言葉を濁して、用意した薬茶を飲むことなく帰っていった。


      ◆


 三日に一度は食事や観劇を共にしていたのに最近は誘われない。

 宮廷楽師クラーラに取り巻きと共に付きまとっているらしいと噂が入ってきた。


 クラーラに熱を上げている貴族の男は多い。毎日のように贈り物が届けられ、毎日のように食事や観劇の誘いがあるという。クラーラはすべて断って、ただひたすらに竪琴を練習していると聞いている。


 しばらくすれば諦めるだろう。

 禁忌の恋は反対すればするほど燃え上がることがあると、昨年結婚した友人に忠告を受けた。私は静かに見守ることにした。


      ◆


「ロヴィ。おいで」

 侯爵家の主寝室でイェルハルドが優しく手を差し伸べる。

 イェルハルドが二十歳、私が十五歳の時、先代の侯爵夫妻が馬車の事故で亡くなった。


 爵位を継いでからイェルハルドは私を主寝室へと誘う。最初は口付けをして抱き合うだけで、十八歳になった時に初めて結ばれた。あれから二年が過ぎ、私は二十歳になった。


 ベッドにいる間だけは取り巻きがいない。

 イェルハルドが私だけを見てくれることが嬉しい。


 今日も薬を手渡された。カップに半分程の濃い緑色の液体を飲み干す。

「……薬が苦すぎるわ」

 本当は飲みたくはない。飲んだ後、数日は微熱と下腹部が絞られるような痛みが起きる。この怪しげな避妊薬は正規に流通している薬ではないと知っている。


「ロヴィの為だから我慢して欲しいな。結婚したら飲まなくてよくなるよ」

 イェルハルドが優しく笑うけれど、本当は私の為ではないとわかっている。


 この国では貴族が結婚前に身ごもることは許されない。

 婚前交渉は本来行うべきではない。

 理解してはいたけれどイェルハルドに求められることが嬉しかった。


「ロヴィ、こんなに腰を締め付けなくてもいいよ」

 私のドレスを取り去ったイェルハルドが胴衣(コルセット)のボタンを外そうと躍起になっている。


「……これが最近の流行なのよ」

 ボタンを外す間に今日は諦めて欲しい。そう思っていたのに、背中の紐を緩めると簡単に外せることに気が付かれてしまった。


「ロヴィの手触りは本当に素敵だ」

 イェルハルドの溜息混じりの感嘆に肌が震える。あちこちを撫でられると心が震える。


 イェルハルドの淡い金髪をさらりとかき混ぜる。

「くすぐったいよ。ロヴィ」

 くすくすと笑いながら、何度も軽く口付ける。


 イェルハルドの瞳に、青緑の髪、青の瞳の私が映る。

 こうして抱き合って口付けをしている時間が一番気持ち良い。


「もういいかな?」

 私は不満を感じた。いつもなら、もっと抱き合う時間が長いのに。

「もう少しだけ、こうしていたいの」

「ごめん、出かける約束があるんだ」

 イェルハルドの返答に内心驚く。いつもなら朝から夜まで一緒に過ごすはず。


「それでは、今日はもう終わりにしましょう」

 私の言葉に一瞬眉を下げたイェルハルドは、強引に事を進めた。私の体の負担を考えない、一方的な行為が続く。


「……痛いわ。……やめて」

 我慢できずに訴えた途端、イェルハルドが呻いて果てた。

 温かい体が覆いかぶさってくる。いつもならこの重みで感じる幸せを、今日は感じることができなかった。


「ごめん。ロヴィが素敵で、やめられなかった」

 私の流した涙をイェルハルドが唇で吸い取って、私は静かに目を閉じた。


      ◆


 誘いを断り続けるクラーラの頑なな態度に、一人、また一人と興味を持っていた貴族たちが脱落していく。最後に残ったのはイェルハルドだけと聞いた。

 飽きるまでの我慢と耐えていても、一体どれだけ魅力的な女性なのかと興味はある。


 月に一度の王妃主催の茶会へ参加した後、侍女と従僕を連れて王宮庭園で散策していると素晴らしい竪琴の音が聞こえた。王宮庭園の東屋で竪琴を引いているのはクラーラだった。


「こんにちは。とても良い音色ね」

 曲が終わった後、私は声を掛けた。どのような返答が返ってくるのかと身構える。


「こんにちは! そうなんです。この楽器がとっても良い音を出すんです!」

 紫色の瞳を輝かせ、本当に子供のような笑みで返されて毒気が抜かれた。


「どうしてこんな所で練習しているの? 宮廷楽師用の練習場があるでしょう?」

「……なんか仲間外れされてるみたいで、居心地悪いんですよー」

 口を尖らせる仕草は、演奏をしている時とは別人のようで子供っぽい。


「そうなの?」

「言葉に訛りがあるとか、髪の色が気持ち悪いとか、聞こえるか聞こえないかっていうくらいの声でぼそぼそと話してるんで、怒鳴ったら今度は無視されるようになっちゃいました」


「訛りはそうね……少しあるわね。気を付ければ直ると思うわ。貴女の髪はとても珍しくて綺麗ね。この髪色は波打っている髪質の人が多いの」

 許可を受けることなく髪に触れてしまって、失敗に心がすくむ。許可なく他者の体に触れるのは無作法の中でも一番嫌われる行為だというのに。貴婦人として習い覚えた作法を一瞬でも忘れるなんて、失態でしかない。


「ありがとうございます! そう言ってくれるのは母さんだけだったんで嬉しいです!」

 クラーラの満面の笑みに、心の緊張が解けていく。幸運にも不快とは思われなかったらしい。


「あ、私、宮廷楽師のクラーラっていいます」

「私はロヴィーサ・セルベル。よろしくね」


「はい! よろしくお願いします!」

 クラーラの子供のような無邪気な笑みは、私にはとても眩しく見えた。


      ◆


「ロヴィ、おいで」

 この所、まったく食事にも観劇にも誘ってこないのに、情事の誘いだけは増えた。昼間のわずかな時間での性欲処理のような行為が続く。


「見に行きたい歌劇があるの。いつが空いているかしら?」

 勇気を出して私から誘ってみた。これまで私から観劇に誘ったことはなかった。

「ごめん、忙しいんだ」

 イェルハルドの言葉に、高揚していた気分が醒めた。


 毎夜あちこちに出かけては、貴族たちにクラーラを養女にしてくれないかと頼んで回っていると聞いている。側室か妾にするつもりなら貴族である必要はない。貴族であることが必要なのは、妻という立場だけだ。


 私が婚約破棄されたのではないかという噂が回るようになっていても、イェルハルドには届いていないらしい。ドレスの仮縫いの際にも、お針子たちが気まずい顔をしていることが多くなっていく。


 父母が諫めると言ってくれてもイェルハルドは侯爵で、子爵の立場ではどうにもならない。揉めて婚約破棄になるのが怖くて、父母には手を出さないようにと懇願した。


 何度誘いをかけても、クラーラからは断られていると聞いている。きっと一時の気の迷い。結婚式までには目が覚めるだろう。私は、そう自分に言い聞かせていた。


      ◆


 我慢する日々を重ねるうちに、私はクラーラを殺す夢を見るようになった。時には崖から突き落とし、時には短剣で胸を刺す。今日は毒薬を少しずつ盛る夢を見た。


「……毒薬を手配できないかしら」

 朝の着替えの際、ぽつりと漏らしてしまった。着替えを手伝ってくれていた五人の侍女の手が止まる。

「……冗談よ。気にしないで」

 正直言って疲れ切っていた。きちんと微笑むことができたか、自信はなかった。


 翌日、侍女の一人が毒薬を入手してきた。その翌々日にはもう一人が。気が付けば五人の侍女全員が、さまざまな毒薬を手配してくれていた。

「けっしてお嬢様自身がお使いにはなりませんように」五人が口をそろえて私に懇願した。


「……ごめんなさい。ありがとう」

 私は侍女たちの献身に心の底から謝罪と感謝の言葉を捧げた。


      ◆


 並べられた毒薬を静かに眺めていて思いついた。

 私は賭けをすることにした。私とクラーラに少しずつ毒を盛る。


 彼がすべてを話して説明してくれたら終わり。私は婚約破棄を受け入れて領地へ旅立つ。

 説明してくれなかったら……私とクラーラが死ぬ。


 身勝手な逆恨みでしかないのは理解している。

 それでも自分一人が毒を飲むという選択はできなかった。


 遅効性の毒薬の一つを二つに分けた。

 ゆっくりと手足の自由が利かなくなって、最後には血を吐いて死ぬ薬。


 子供の頃からずっと仕えてくれている老従僕に、宮廷楽師に薬を盛るにはどうしたらいいのか相談することにした。昔から物知りの従僕なら、何か方法を教えてくれるに違いないと思った。


「お嬢様……わかりました。わしが手配致します。この薬を一日一滴ですな?」

「待って。方法を教えてくれるだけでいいのよ? あとは私が何とかするわ?」


「いいえ。お嬢様、これから結婚をされる方が手を汚してはいけません。わしは昔、王宮間諜でした。わしに任せて、お嬢様はこの薬のことを忘れて下さい」

 そう言った従僕は、小さな子供の頃のように私の頭を撫でて微笑んだ。


      ◆


「クラーラ、どうなさったの? 気分でも悪いの?」

 今日もクラーラは練習場ではなく、王宮庭園の東屋で竪琴の練習をしていた。


「え? 大丈夫ですよ! ほら! 今日も元気いっぱいです!」

 クラーラが満面の笑みを浮かべるものの、指先には白い布が巻かれている。


「あ、これ、友達に薬を塗ってもらったんです」

「それは良かったわ。お友達が出来たのね」

「いえ。その……昔からの友達で……あの……精霊なんです」

 クラーラの言葉に驚いた。一般国民には精霊と契約できる程の強い魔力を持つ者はいないはずだと思いながら話を聞くと、クラーラの音楽の才能に惚れ込んだ精霊からの一方的な契約のようだ。


「今、ここにいらっしゃるの?」

 貴族ではあっても、私には精霊が見える程の魔力はない。私が毒を盛っていることを知られていないかと心が冷える。


「私の為に薬草を採りに行ってくれてます。大丈夫って言ってるんですけど、心配症で優しい子なんです」

 どうやらあまり力のない精霊らしい。私は内心安堵する。


「……無理をしてはダメよ?」

「うーん。指先と足先がほんのちょっとだけしびれるんですけど、気合を入れたら平気です。誰にも秘密ですよ!」


「揉んでみてはどうかしら? 手を貸して」

「いえいえいえ。そんな! お貴族様に揉んでもらうなんて、畏れ多いです!」

 ぷるぷると首を横に振る姿は、どこか小さな動物のようで笑ってしまう。


「お貴族様なんて、初めて言われたわ。面白いわね。じゃあ、お貴族様らしく、手を出すのよ、クラーラと命令するわ」

「はいっ! ロヴィ様! ってあれ? 結局揉んでもらってますよね。しまったー」


 クラーラと過ごす時間は楽しくて、イェルハルドに会えないことも忘れることができた。

 何度会ってもクラーラは変わらない。指先と足先が少しだけしびれるというだけだった。私も同じ症状だった。まだ時間は十分にある。


 イェルハルドに会いたいと連絡を入れてても、忙しいと伝言が返ってくるだけになった。



 午後の王宮庭園でクラーラと話をしていると、金に近い茶色の髪、青い目の背の高い美丈夫が現れた。紺青の騎士服を着たその人は、〝青玉の騎士〟。


「あ、ガブリエルさん! こんにちは! 今日も練習ですか?」

 クラーラは臆することなく気さくに青玉の騎士に声を掛けた。彼はルンベック公爵家の第三子、子爵の娘である私は正式な礼で迎えようと立ち上がる。

「いえ、礼は不要です。今はただの楽師として扱って下さい」

 青玉の騎士が柔らかく微笑む。


 クラーラは竪琴、青玉の騎士はミルトという弦楽器で合奏を始めた。楽し気な曲に心が躍る。


「素晴らしいわ!」

 二人の演奏を特等席で聞けたことに私は心から喜んで手を叩いた。


「ありがとうございます! 今、二人で『届かない月を掴む』という曲を練習しているんですよー」

 頬を赤らめるクラーラは可愛らしい。音楽のことになると、クラーラはいつもに増して少女のような純粋な表情になる。


「あの六百年前に作曲された難曲よね。是非聞いてみたいわ!」

 『届かない月を掴む』という曲は天才を超える天才でなければ演奏できないと言われている難曲。この国で演奏できる者は、現時点で存在しない。


「まだお聞かせできる状態ではないですが、頑張りますねー」

 クラーラは、今日も満面の笑みを見せてくれた。


      ◆


 手紙を書いていて、書き損じた。

 ガラスペンを持つ指先の感覚が薄い。

 気を取り直して新しい便箋に替えて手紙を書きなおす。


 イェルハルドに会って話が聞きたい。

 何度も空いている日を問い合わせても「忙しい」という伝言のみが返ってくる。

 情事だけは突然に誘われて、ろくに話す時間もないままに帰される。


 噂ではクラーラを外国の貴族の養女にできないかと手を尽くしているらしい。国内の貴族たちは、イェルハルドがまだ私と婚約を結んでいることを知っているし、レーフグレーン侯爵家がセルベル子爵家の金銭的支援を受けていることも知っているので、そんな養子縁組を受け入れるはずがない。


 今日、クラーラはセーデルホルム子爵の庶子だと本人が教えてくれた。旅の一座の踊り子の母から生まれ、最近まで父が生きていることすら知らなかったらしい。

 自分の生まれを秘密にする替わりに、異母兄が宮廷楽師の試験を受けさせてくれたと感謝していた。


 子爵家の庶子なら、他家の養子にする必要もない。

 会って話をしてくれたら、そう教えようと思っているのに、相変わらず忙しいとしか返ってこなかった。


      ◆


 クラーラから、演奏会の招待状と観覧券が二枚届いた。観覧券は抽選販売で、第一王子でさえ手に入れることができなかったと評判になっている。イェルハルドも買えなかったらしい。落胆するイェルハルドを誘うか迷いに迷って、結局女性の友人を誘って演奏会へと向かった。


 演奏会の会場は着飾った貴族で埋め尽くされていた。普段、音楽に興味がないと言っている者までが席についていて、最上階の特等席には第二王子と妃が現れて、人々の注目を浴びている。


 舞台を包む幕が上がり、クラーラと青玉の騎士が、楽器を携え揃いの衣装で現れた。紺青色のドレスとロングコートの組み合わせは、まるで恋人か夫婦のように見える。

 イェルハルドに見せていれば、嫉妬していたかもしれない。


 『届かない月を掴む』という難曲は、演奏技能も技巧も必要な上、一曲が二刻という長さに及ぶ。クラーラと青玉の騎士は互いの顔を見て、微笑み合いながら演奏を続ける。


 ――それは、この国の空に朝も夕も常に浮かぶ赤い月フラムと緑の月フランの物語。


 原初、赤い月フラムだけが空に存在していた。その月に恋焦がれて、緑の月フランがこの大陸から空へと昇った。


 やがて二つの月は白い月フルトを産み落とす。フルトはいつまでもやんちゃな子供のように、姿を変えながら夜を走る。


 赤い月と緑の月は、永遠に仲良く並んで白い月を見守っている――。


 痛切な恋の曲から、幸せな曲、楽し気な曲と三度曲調が変わる。二人の指の動きは早すぎて目視での確認は難しい。


 クラーラと青玉の騎士の二人が、完璧に曲を弾き終えた。

 息の合ったすばらしい演奏だった。

 汚れきった私の心さえ浄化してくれるのではないかという幻想すら感じさせる。


 気が付けば、私も立ち上がって喝采を贈っていた。


 もうつまらない賭けは辞めよう。

 イェルハルドに私から別れを告げよう。


 そう思った瞬間。舞台の上でクラーラが血を吐いた。青玉の騎士がクラーラを抱き上げて舞台から去っていく。


 ……遅すぎた。あれは中毒の末期の症状。

 騒然とする劇場で、私はいつまでも立ち尽くしていた。


      ◆


 劇場の夜から五日後、宮廷楽師クラーラは死んだ。

 最期を看取ったのは青玉の騎士だと聞いている。


「今日はどうしたのかな? 最近、ロヴィから会いたいって言われないから寂しかったよ」

 侯爵家の中庭で、イェルハルドが微笑む。

 手入れされているべき中庭は、随分と荒れていた。もう何ヶ月も手入れがされていないのだろう。


 薄汚れた石のテーブルを挟んで、対峙するように石の椅子に座った。以前なら、隣に座っていた。


「お別れを告げに来ました。婚約を破棄してください。すでに私の父母には了承を得ています」

 ただ淡々と要件のみを告げることに専念する。少しでも感情を零したら、きっと泣いてしまう。


「何を言ってるんだ? 三ヶ月後には結婚式だろう? 楽しみにしていたじゃないか」

 イェルハルドが困惑の表情を浮かべた後、苦笑する。私の気まぐれとでも思ったのだろう。


「私が知らないとでも思っていらっしゃったの? クラーラを外国の貴族に養子に出して、結婚するつもりだったのでしょう?」

「……それは……違うんだ。誤解だよ」

 イェルハルドの目が揺れる。嘘をついている時の目だと、幼いころから隣りにいた私にはわかってしまう。


「側室か妾なら、貴族の身分は必要ありませんわ。貴族の身分が必要なのは、妻だけでしょう?」

「いや、そんなつもりは……」

「どんなつもりでしたの?」

 静かに微笑みながら問いかける。

 しばらく待っても、答えは返ってこなかった。


 すべて正直に話してくれたら、それで終わっていたのに。


「最後に教えて差し上げるわ。クラーラが恋していたのはガブリエル・ルンベック。青玉の騎士よ」

 青玉の騎士がクラーラをどう思っていたのかはわからない。クラーラは結婚を考えていたわけでなく、ただ純粋に青玉の騎士を慕っていた。


「そんな馬鹿なことがあるわけない!」

 イェルハルドの叫びに溜息を吐く。クラーラは何度も拒絶していた。はっきりと断っているのに、話を聞いてもらえないと困り果てていた。

 イェルハルドはいまだに現実を受け入れていないのだろうか。


「貴方、一度でも彼女に好きだと言われたことはある? 貴方は彼女の気持ちすら確認しなかった。そして私の気持ちも」


 突然の嘔吐感に咳込むと手に血が広がった。これでいい。

 私はイェルハルドに会う前に、残っていた毒薬をすべて飲み干していた。


「……私、彼女に少しずつ毒を盛っていたの。そして私も同じ毒を飲んでいた。子供の頃から毒には耐性を付けているから彼女よりは効果が出るまで時間が空いた。もうすぐ終わり。……私を抱いていて気が付かなかった? 不自然なほど手と足が痩せていたでしょう?」


「出会った時から貴方のことが好きだった。でも貴方は私の家のお金が必要だっただけなのよね?」

 私が死ねば、もう援助は行われない。イェルハルドは爵位を売るか、破産するしかない。


「違う! 僕を置いていかないでくれ。一人にしないでくれ」

 本当にイェルハルドは自分のことばかり。

 私も自分のことだけだったと苦笑する。きっと似た者同士だった。


「……私は私のくだらない理由で将来のある人を殺したわ。罪悪感で押しつぶされそうなの。貴方にはこの気持ちはわからないでしょう?」

「理解するよう努力する。だからもう一度僕に機会を与えてくれ」


「何度も機会はあげたでしょう? 毎日毎日、いつ話してくれるのか、いつ婚約を破棄されるのか、ずっと私は待っていた。貴方がすべてを話してくれるのが先か、私たちが死ぬのが先か。私はくだらない賭けをしていたの。貴方は自分の欲望しか見えず、彼女と私の気持ちすら知ろうとしなかった」

 この期に及んでも正直に話してくれないことに、私は完全に諦めた。


 イェルハルドが好きだった。もう過去形でしか語れない。


「今はっきりわかった、僕は君を愛してる。何をしても許してくれると信じていた。君を失いたくないんだ!」

 イェルハルドの初めての愛の言葉は、虚しく響いた。イェルハルドが立ち上がって、テーブルを回りこんで近づいてきた。


「……今更、遅いわ。近づかないで」

 私も椅子から立ち上がって、ポケットから魔法石を取り出した。

 ささやかな魔力しか持たない私でも、魔法石があれば死ぬまでの時間くらいは結界魔法が維持できる。


 淡い緑色の結界魔法を展開しながら数歩離れる。これでイェルハルドは近づけない。


 視界が徐々に暗く狭まっていく。

 最期の瞬間にイェルハルドの姿は見たくなかった。


 青い青い空を見上げる。

 青い空には、赤い月と緑の月。

 何故か手が届きそうな気がして、手を伸ばす。


 私が、この手に掴みたかったものは、何だろう。



      ◆


 ロヴィの葬儀が終わり、独り残された僕は侯爵家の屋敷の中で引きこもっていた。


「それでは旦那様、失礼致します。どうかお元気で」

 最後まで残っていてくれた家令が頭を下げて出て行く。優秀な家令だ。推薦状も書いた。すぐに勤め口は見つかるだろう。


 本来なら、今日、ロヴィと結婚式を挙げるはずだった。

 ロヴィを目の前で失ってから、世界から色が消えた。

 何を見ても何を聞いても、心が動かない。

 毎夜のように参加していた夜会も舞踏会も観劇も一切行かなくなった。


 ロヴィが宮廷楽師クラーラを毒殺したことは、金と人脈を使って隠ぺいした。


 ロヴィが死んでしばらくして、クラーラに毒を盛ったと思われる関係者が次々と殺され始めた。殺しているのはクラーラと契約していた精霊だという話だ。犠牲者は三十人に近い。ロヴィは一体、何人を巻き込んだのだろう。


 ふわりと風を感じて振り向くと、長い瑠璃色の髪、白い肌、背中には蝶のような瑠璃色の(はね)を持つ女が浮いていた。白眼のない翡翠のような瞳が精霊であることを示している。


「……君は……」

『木の精霊セイルハトィール。クラーラの友達よ』


「やっと、僕を殺しに来てくれたのか」

 僕は安堵の息を吐いた。この三ヶ月は本当に長かった。


『いいえ。お前はクラーラに毒を盛ってはいないから殺しはしない。お前はこれから死ぬまで、自分がしたことと、しなかったことを悔いるのよ。あの女は自ら死んだけれど、お前は死ぬ勇気すらないのでしょう?』


 精霊は狂ったように笑い始めた。


『ねぇ、クラーラは何度も言ったでしょう? 「必要ないから大丈夫」と』

 その言葉は、すべてクラーラの遠慮だと思っていた。優しい娘だと思っていた。


『クラーラは竪琴と音楽と青玉の騎士を愛していた! お前のことなんてちっとも考えてもいなかったわ!』

 吐き捨てるように叫んだ精霊は、空気に溶けるように消えた。


 精霊が姿を消した後、僕には何も残っていなかった。

 売れずに残された古い揺り椅子に腰かけて窓の外を見る。


 子爵家から突き返された最後の数カ月程の贈物は、開封されてもいなかった。

 ドレスや宝石、ちゃんとロヴィを見ていれば、着けていなかったことが分かったはずだ。


 侯爵とは名ばかりで、領地はとうの昔に抵当に入っている。

 見栄のために重ねた借金を子爵家に肩代わりしてもらっていた。


 ロヴィを正妻にして、クラーラも妻にしようと思っていた。この国では重婚は許されないが、どうとでもなると気軽に考えていた。ロヴィはおとなしくて控えめでクラーラは気立てがいい。二人なら仲良く家を守ってくれるだろうと思っていた。


 僕は、何が間違っていたのだろう。


 もっと彼女たちを見ていれば、この結末を防げただろうか。

 もっと彼女たちの話を聞いていれば、この未来は変えられただろうか。


 僕は、間違いなく二人を愛していた。

 二人と結婚して子供をたくさん作って、仮面夫婦だった両親とは違う、温かで賑やかな家庭を持ちたかった。


 クラーラは青玉の騎士を愛していたと聞いても信じることはできない。

 クラーラからは一度もそんなことは聞いていない。


 ……そういえば、クラーラが僕を好きだと言ったことはない。

 ロヴィは子供の頃から僕を好きだと言っていた。愛していますとも言っていた。

 僕がロヴィに愛していると言ったのは、あの一度きりだ。


 寒くなってきたな。ああ、精霊は窓を開けていったのか。

 今年初めての雪になるのだろうか。どうりで寒いはずだ。酒でも飲んで温まろうか。


 空が宵闇に染まる。体が上手く動かない。最近、酒しか口にしていない。

 空には輝く赤い月と緑の月。何故かとても近くに見える。


 ああ、そうか。ロヴィもきっと、掴めそうなこの月を見ていた。

 手を伸ばして掴みたいのに、眠くて手が上がらない。


 ロヴィ、明日は、会えるかな。

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― 新着の感想 ―
[一言] いやー、ロヴィは会いたくないんじゃないのかなぁ…としか言えない終わり方でした。 名曲は最後の煌めきだったのだなぁ…動かない手指を操るのに、気力のすべてを使い果たしたのだろうなぁ、と思うとまた…
[一言] 二人をどちらも愛してたというけれど、優先順位がある時点で 平等には愛してなかったでしょ。とツッコミたかったです。 主人公はキープでしょうか。 なんにしろ、自分が一番好きだったんでしょうね。
[一言] ちょっと思ったこと。イェルハルドが金と人脈使ってロヴィーサがクラーラを毒殺したこと隠蔽したとありますが、むしろこのせいでバレたのではと。だってロヴィーサが頼った相手は家令で、その元プロの手に…
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