9 接近
和気さんが無邪気な笑顔で何でも受け止めてくれるものだから、酒など酌み交わしているうちには、家族や友達にもあまり言えないような熱量を帯びた愚痴や文句が解放されてしまう。街を行く愚民どもの蛮行、この世の不条理、己の不甲斐なさ。この日も例外ではなかった。
そして宴もたけなわ。私が「神様はなんて不公平なんだ」と力説していたときのこと。和気さんが焼酎のグラスを傾けながら、いつもの笑顔でまったりと言った。
「そっかそっかー、なるほどねぇ。でもね、ヒデちゃん。そこで神様を責めるんだったらさ、何かいいことがあったときにも、その都度『神様ありがとう』ってやってなきゃおかしくない?」
「あ……」
「ね? その時々の都合で大前提をコロコロ変えるってのは、ヒデちゃんらしくないなあ」
はっと目が覚めるような思いだった。その通りではないか。この世の全てが神様のせいだと憤るなら、全ては神様のお陰でもあるはずだ。
「そんな理屈っぽいこと」と眉をひそめる人もいるかもしれないが、何を隠そう、私は理屈が大好き。下手に同情だの共感だのされるより、自分が見落としていた論理的構造を端的に指摘されてこそ、最も深く頷けるタイプなのだ。私の精神衛生には、論理的な納得が欠かせない。そんな自分の異端性は早くから自覚していたが、その欲求を埋めてくれる人はなかなかいないのが現実。
男性が解決策を求めるのに対し、女性は共感を求めるものだ、とかいう一般論があるけれど、私にとって解決策ほど嬉しいプレゼントはない。それを、お互いに声を荒らげ血圧を上げながらではなく、寛いだ親密な空気の中で与えてくれる人が見つかったかもしれない。しかも、二回り近く年上の男性。
来ちゃったな……と感じた。ついにこの時が。
何の前触れもなかった平日の晩、落ち着いた居酒屋の個室で、私は人生八つ目の恋に落ちた。
和気さんという人は、掘れば掘るほど面白い人だった。顔に似合わず、ちょっとした指摘がはっとするほど鋭かったり、何気ないコメントがときに辛辣だったりする。それはまさしく、男に魅力を見出すときの私のツボでもあった。
それでいて、面倒くさいときや答えようがないときは、怒りもせずうんざりもせずに心地よくかわしてくれる。
「私の名前ね、『由実』ってどっちも左右対称でしょ? これがどうもね、完璧主義の元凶な気がしてて」
「僕だってそうだよ」
「え?」
「真一。真実に数字の一」
「あー……真一文字だ」
何となく思いつくままに言うと、和気さんは閉じた唇をビッと横に引っ張って変顔を披露した。
「やあだ、写真撮りますよ、そんな顔してると」
私がケラケラ笑っていると、和気さんの両手が伸びてきて、今度は私の両頬をつまんで引っ張る。
「妖怪、真一文字」
「ギャハハ、何それ」
たまたまカウンター席に並んで座っていたからこその、思いがけないスキンシップ。そこからの流れで、帰り道ではどちらからともなく(十中八九私からだとは思うが)手をつないでいた。途中、マンホールに軽くつまずいたどさくさに紛れて恋人つなぎに移行してみたところ、和気さんは頼もしく私の手を握り返してくれた。
私は初めてはっきりと思った。この人に、抱かれたい。リピするかどうかまではわからないが、とりあえず一回してみたい。
「和気さん」
「うん」
「キス、しませんか?」
和気さんの足が止まる。その顔に笑みが広がった。
「しませんかって言われたの、初めてだなあ」
こういうとき、イエスともノーとも明言しないのが和気さんの和気さんたる所以だ。しかし何食わぬ顔を装っていても、そっち方面の期待や欲は男の「声」に滲み出るものだと、私は経験から学んでいた。これだけはいくつになってもそうそうきれいに取り繕えるものではないらしく、和気さんも例外ではないことがたった今判明した。
和気さんは、駅を目指す酔客の群れにちらりと目をやる。
「ここ……で?」
「ううん。どっか、暗がりみたいなとこで」
和気さんの笑い皺がますます深くなる。
「じゃとりあえず、そこのコンビニで飲み物でも買おっか」
何がどう「じゃ」なのかわからないまま、私たちは信号を一つ渡り、お馴染みのチャイムに迎えられてコンビニに入り、ペットボトルのお茶を二種類買っていた。