8 写真
和気さんとサシ飲みに行った数日後の午後。私がトイレに行こうと席を立つと、姉様の一人から声がかかった。
「ヒデちゃん、悪い、立ったついでにこれ、和気さんのデスクに載っけといてもらっていいかい?」
「あ、はい」
ホチキスで留められたA4の書類。
「このまんまポンでいいから。ごめんね、今これ電話保留中で動けなくっ……あ、もしもし。はいはい……」
と、姉様は電話の相手に注意を戻した。
和気さんのデスクは私の通り道ではないから、ミーティングで窓際の一室に集まった帰りにちらっと目を向け、なかなかきれいに片付いてるな、という感想を抱くぐらいがせいぜいだった。そんな神秘のエリアに大接近できる、またとないチャンス。
あやうくスキップしそうになりながら通路をたどり、和気さんのいない和気さんデスクに歩み寄る。隣の席では、隣のチームのマネージャーである藤野さんが何やら英語で電話中だ。長居はできない。私は「えーっと、このデスクでいいのかな?」と確認する風を装って、素早く和気さんの仕事場を見回す。
真っ先に目に留まったもの。それがおそらく最も重要な情報だった。デスクの左奥の角に、ウッドフレームの写真立て。飾られているのは、和気さんの家族写真だ。思わず「欧米か!」とツッコみながらも、急いでその写真に視線を走らせた。
背景はどこか渓谷のような場所。奥さんは普通のおばさん。性格は多分きつめ。息子が和気さんによく似ているのが笑みを誘う。娘は……美人だ。少女モデルにでもスカウトされそうな、彫りの深い整った顔立ち。キリッとした目元はまあお母さん譲りな気がするが、この美貌ははて、隔世遺伝か何かだろうか。和気さんとは正直、似ても似つかない。
そのとき、藤野さんがちらっとこちらを気にする気配が感じられたので、私は書類をポンと置いて退散した。写真の中の和気さんの姿をじっくりと観察できなかったのが残念だ。
トイレに向かいながら、今見た家族の図を脳内に呼び戻す。息子が大学三年にしてはだいぶあどけなかったし、娘は明らかに子供子供していたから、五、六年、いやもっと前の写真かもしれない。四人が食卓を囲んだり、ゲームや行楽に興じたりする光景を想像してみるが、写真一枚見たぐらいではどうもイメージが湧かなかった。
私と和気さんの間ではその後、色恋要素抜きでのお友達付き合いが続いた。休前日ではない平日に、仕事が終わってから会社の近くでお酒を飲みながらご飯を食べる。食べ終わって、周りの客が減って、「いい時間」になったら店を出て一緒に電車に乗り、途中で別れる。そんなことを約十日に一度×三回にわたって繰り返した。支払いは毎回和気さんの奢りでは悪いからと千円札を二、三枚無理やり押し付けているうちに、最近では和気さんの方もそれを受け取ることに慣れ始めた。
きっと和気さんは恐ろしくスロースターターなだけで、そのうち少しずつボディタッチぐらい始めるんだろうと私は踏んでいた。が、その気配は一向に感じられない。
忘年会の日の「私としたいか?」という質問に対する和気さんの返事は、遠回しな肯定と取れるものだった。それからまた別の日には「僕から誘うのは簡単だけど」云々とも言っていた。つまり、したい気持ちはあるけど、防衛策として自分からは誘わない主義ってこと?
でも、私だって男に飢えているみたいな印象を持たれるのは嫌だし、そもそも積極的に和気さんと交わりたいわけでもなかった。このまま飲み友でいるぐらいがちょうどいいのかもしれない。
そう割り切りかけていた頃、ここしばらく胸の内に宿してきたモヤモヤがさあっと晴れ渡るような瞬間が訪れた。