7 モヤる
和気さんのビールと私の梅酒サワーで幕を開けた今宵の酒は、いつの間にか二人で熱燗、というところに落ち着いていた。それはつまり、私の気が大きくなりつつあることを意味する。
「和気さんって……よくやってるんですか? ああいうこと」
「え?」
「あの、忘年会のときの。介抱ついでに……みたいな」
「やってないよ」
糾弾されかけている図でありながら、和気さんはやけに楽しそうだ。
「そんで、女の方から誘わせよう、でもダメだったら黙って寝よう、みたいな」
「いや、そんなつもりはないし……だって、あれはヒデちゃんが誘ってきたんだよ」
「誘っ……」
てません、と言いかけたが、よく考えたら和気さんは、おそらく終電を逃した私をタクシーで帰らせようとしていたのだ。そこに和気さんを引っ張り込んだのは他ならぬ私自身。
「そりゃ、寝れるとこ行きたーいとか言ってしなだれかかってこられたらさ、まあ期待だけはするよね、誰だって」
「誰だって? ……ちゃっかり普遍化?」
「うん」
この善人顔が、妙にずるく思えてきた。
「でも期待したってことは……別に不快ではないってことですよね?」
「え、不快? まさか。全然」
「でも、和気さんの方からは誘ってくれないんですね」
「そりゃあさ、僕から誘うのは簡単だけど、その結果にあんまりいい予感がしないから」
「……え?」
私が混乱している間に、和気さんはあっさり話題を切り替えた。
「ねえ、ヒデちゃんさ、なんか……変な癖あるね」
こちらがぎょっとするようなことを言いながら、この人はなぜいつもの笑顔でいられるのだろう。
「癖って……? 寝言とか?」
「ううん。タクシー拾おうとしてたときね。ほら、カラオケの後」
「ああ」
「手、噛まれたよ、僕。憶えてないでしょ?」
「あ……」
さして驚きはしなかった。むしろ、この人にもやったのか私は……という事実確認の瞬間だった。
「すいません。痕になったりしてないですか?」
「さすがにもう消えたけど、引っ掻かれた方の傷はしばらく残ってたねぇ、しつっこく」
そう言いながら、和気さんはやっぱりニコニコしている。
「そんで、イテテテって言ったら、今度はペロペロ舐めだしてさ」
我ながら、変な癖どころではない。それをしでかしたのが姉様方の面前でなかったことだけが救いだ。
「……すいません。ほんとに」
「ちょっと気を付けないとねぇ」
「はい」
「男はそういうの、オッケーサインだと思っちゃうよ」
「……思いました? 和気さんも」
そっと上目遣いで和気さんの表情を盗み見る。しかし和気さんは、ドキリとするでもなく、平然と大きく頷いて言う。
「思ったよー。ああもう、さらっちゃおうかなって」
何だろう。この爽やかすぎる性欲。
「でも、あんだけまともに歩けてなかったらさ、まあ何かできる状態じゃないよね」
この場合の「何か」とは、合意の上での楽しい性行為のことだろう。一方的に襲うことは、和気さんがその気になればいくらでもできたわけだから。
他の客が徐々に減り、私たちが最後という状況になると、和気さんは店内をさっと見回して言った。
「さあて、そろそろ行こっか」
どこに? と、一瞬私は緊張したが、和気さんがどうやら帰る気満々であることは、「明日も仕事だー」という呟きに見て取れた。そうなのだ。食事をするにあたって「いつでもいいです」と言った私に、和気さんが指定してきた今日という日は火曜日だった。
今日は私が誘ったのだから私が、という社交辞令を笑顔で制し、和気さんはすっかり手に馴染んでいるらしきゴールドカードで会計を済ませてくれた。そこでふと思い出し、私は洗ってアイロンをかけてきた和気さんのハンカチを返した。
JRで二駅だけ一緒に乗り、私が先に降りる。
「今日はどうも……ごちそうさまでした」
「うん、お疲れ。気を付けてね。また明日」
ホームに降り、扉が閉まるのを見届けた。窓の向こうで、和気さんがぴらっと手を上げた。私は、ただの派遣社員風にお行儀よく会釈を返すのが嫌で、思い切ってフランクに手を振る。そんな私の行動にも全く動揺しない和気さんの目は、熱っぽく私を見つめるなんてこともなく、二秒後にはのんびりと中吊りを眺め始めた。
今日は楽しかったし、和気さんに関する情報量という意味では収穫も小さくはなかった。しかし、それを関係の進展と呼べるのかは甚だ疑問だ。和気さんは一体どのぐらいのテンションで私を見ているのだろう。さっきはせっかく「誘ってアピール」をしたのに、何だか謎なことを言われてしまったし……。私自身は依然、「もし誘われればOKできる」程度の段階にいた。和気さん、謎すぎる。
私のモヤモヤは、解消されるどころか一層モヤモヤと渦巻き始めていた。