34 嘔吐
ブツクサ言いながら必要な処置をし、トイレを出て飲み物をもらいに行くと、ちょうどリンダさんがワインを受け取っているところだった。その耳にそっと囁く。
「最悪。生理来ちゃいました、今」
「あ、だいじょぶ? 持ってた?」
「はい。私、結構不規則なんで、いつも持ち歩いてるんです」
「よかった」
「普段あんまりちゃんと来ないくせに、年またぎのときだけなぜか生理率高くって」
「日頃の行い、いいですね」
とニヤリ。
「……悪いって言いたいんでしょ。リンダさん、ひどいなーもう」
ジントニックをすすりながら壁の時計を見ると、十一時四十五分。ちょうど紅白が終わった頃か。もうすぐ暮れる。二〇十八年が。
「由実さん、悲しいね」
「え?」
リンダさんはグラスの中でワインを転がしながら小首を傾げ、こちらを見つめる。
「男?」
「あ……わかりますか?」
「当たり前」
「うん。実は、好きな人と……お別れしたところで。まあ、また会社では会うんですけど、個人的には多分もう……」
別れという言葉を口にし、それをリンダさんの耳に入れたことで、急に実感が湧いてきた。怒濤のように押し寄せる感傷を、唇と一緒に噛みつぶす。
そう。二人きりで会うことはもうない。特に約束したわけではないけれど、最後に行った居酒屋が、あまりにも最後にふさわしすぎた。ここからまた戻ったら、今度はもう抜け出せなくなる。「お触りなし」を守りきったあの日の私たちに申し訳が立たない。
リンダさんが重々しく首を振る。
「ああ、悲しい」
「うん、悲しい」
ぐすん、と鼻をすすると、リンダさんにガシッと肩を抱かれた。
「おいしいもの食べて、いっぱい寝て、次の人探す」
「うん……」
でもね、いないんだ。あんな人は、どこを探したって。
気付けば、さっきもらったばかりのジントニックをあっという間に飲み干していた。
「もう一杯もらってきます」
歩き出すと、ぐわっと視界が揺れた。リンダさんの片腕が私を抱きとめる。
「だいじょぶ?」
船が揺れたのかと思ったが、揺れたのはどうやら私だけらしい。
「うっっ……」
胃から込み上げる酸味。
「吐きそう?」
「……うぐっっっ」
「トイレ行こ」
リンダさんは私の手から空のグラスを取り上げ、自分のワイングラスと一緒に傍らのテーブルに置き、くの字になっている私をトイレへと引っ張っていく。
三つあるうちの、女子用と男女共用は使用中だった。リンダさんは迷わず男子用のドアを開け、私を連れ込む。
決してきれいとは言い難いその便器を目にすると、私の吐き気はピークに達した。熱いドロドロが食道を駆け上がり、便器へとダイブする。背中をさすってくれているリンダさんのほっそりした手を感じた。
「す、すいません」
「ヤケ酒」
「いや、量はそんなに……」
と言いながら、そういえばトータルで見ると結構飲んでいるなと気付く。しかも私は、生理でも吐くことがたまにあった。
トイレットペーパーをたっぷりと引き出して鼻をかみながら、去年の忘年会を思い出した。そういえば、吐くのはあのとき以来だ。
路上に散乱した私の所持品。それを拾う和気さんの手。その手が私に施してくれた、よしよし。
和気さん……和気さん和気さん和気さんんんんんんん!!
熱い涙が、何の手加減もなしに溢れ出してくる。
手をつないで歩いた、夜の皇居前の道。数少ないお泊まりの日に、私がすがりつけば半分寝ぼけていてもゆるりと抱き寄せてくれた腕。袖に少し皺の残った、ストライプのシャツ。和気さんで埋め尽くされた私の心を、これからどうしよう。
神様を責めたいのか褒めたいのかわからなかった。和気さんと出会えて親しくなれたことには、ありがとう。でも、どうしてお互い独身同士で、何の障壁もない状態でタイミングよく引き合わせてくれなかったのか。それが悲しい。
悲しい悲しい、悲しいよぉぉぉぉぉぉぉー!
「うっ、ゔっ、ゔぇぇぇぇぇ」
リンダさんは私の突然の号泣にたじろぎもせず、水をもらいに行くと言って出ていった。さすが推定五十代。さすが母歴十数年。
一度泣き出してしまったら、もう我慢とか辛抱なんて概念はどこかへ吹き飛んでしまった。
「ゔゎぁぁぁぁぁぁぁぁん」
まるで子供、と自嘲しながら泣き叫んでいると、帰ってきたリンダさんが水を飲ませてくれる。……女神か。
「あ、ありがとうございます」
水を飲むと、とてもおいしかった。ゴクゴクと飲み干すと、少し落ち着いた。




