31 思惑
私もそろそろ料理を取ろうと、列に並ぶ。ローストビーフのトングに手を伸ばそうとしたその時、ぐいと押しのけられた。
えっ? ちょっと……。
四十そこそこのおっさん。連れとの会話は中国語。
普段の平日の、例えば通勤時の私なら、「あなた今何したかわかってます?」ぐらいの喧嘩腰で文句を言うところだが、今日はモメたくない。しかもおそらく、言葉が通じない。ぐっと我慢してそいつが肉を取り終えるのを待つ。と、その男の肩を後ろからちょいちょいとつつく者があった。
あ、さっきの……。
添乗員風の男性だ。品の良いジェントルな口調で、割り込み男に何か言っている。言われた方の男は「わかってるわかってる」という風に片手を上げて見せ、私に「ソーリー」と言い、隣の皿の料理を取り始めた。私は、注意してくれたのであろう男性に、
「どうも……」
と会釈し、「サンキュー」と言い直す。いや、シェイシェイとでも言うべきだったか。
「日本語で結構ですよ。ごめんなさいね、あの人たち」
その言葉に微かにアクセントが感じられ、やはり日本人ではないらしいとわかる。
「あ、いえ……」
「悪気はないんだけど、順番守るとかそういうのに慣れてないんでしょう」
と微笑む。
「あの、添乗員さん、ですか?」
「いえ、全く別の……個人で来てるんです。日本に住んでます。……まあ、お料理取りながら」
「あ、はい」
一緒に料理を取りながら、彼は言った。
「来たことあるんですか? これ、クルーズ」
「いえ、初めて、です」
「そう。私も初めてなんですよ。なかなかコスパがいいですね」
日本語がうますぎて、外国人であることを忘れそうになる。
「知ってたら毎年来てたのになあ。去年はね……」
と、彼は去年の年越しにどこぞのカウントダウンに参加した話を始め、その前の年はどこでどうだった、ということまで教えてくれた。
「へえー」
他に反応のしようがない。互いのお皿が一杯になると、
「あちらで一緒に食べませんか? よかったら」
ときた。
えっ? 何これ、ナンパ?
お構いなく、と言いかけたが、親切にしてもらったのにツンケンするのも悪い。一皿目ぐらい付き合ってもいいか。これだけ人がいるんだから、変な手出しをされる心配はないだろうし。
「はい、じゃあ……」
飲み物コーナーに立ち寄ってドリンクをもらい、空いた席に腰を下ろす。
「ま、とりあえず」
と、日本慣れした調子で言われ、まずは乾杯した。
「いや実は友達がね、予約してたのに行けなくなっちゃって、無駄になっちゃうから代わりに行ってくれないかって言ってきましてね。ちょうどお互い四人家族だし、私の家族がこういうの好きそうだからって」
なるほど、じゃあこの人は家族と一緒に来ているということだ。
「好きも何も、最高でしょー、こんな年越し。タダでいいって彼は言うんだけど、喜んで買い取らせてもらいましたよ」
確かに、四人分となれば六万円。ありがとうの一言で受け取れるものではない。
「あ、申し遅れました、私……」
と、名刺を差し出される。受け取ってみるとそこには、あまりにも見慣れたロゴが躍っていた。
え……?
その社名は、私の職場でもある証券会社。名前の上には、「コンプライアンス室シニアマネージャー」とある。
あ……!
声が、聞こえたような気がした。バンクーバーの人。奥さん共々……。
「あっ、あっ、あなたが……」
「はい?」
「あ、いえ……何でもないです」
私はしばらく、料理を食べるのも忘れてその名刺に見入った。




