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出航、前夜  作者: 生津直
26/35

26 これから


「ねえヒデちゃん、ちょっとだけさ、仕事の話していい?」


「あ、はい」


 私たちの間で仕事の話なんて、会社でだってほとんどしないのに、と不思議に思う。


「これね、ほんとはまだ言っちゃいけない話なんだけど……年明けにちょっと、大きな動きがあるかもしれなくって」


「動……き?」


「いわゆる人員整理というか」


「あ……」


 (ちまた)でよく聞く四字熟語ゆえ、すぐにイメージは湧いた。自分の職場で起きることを具体的に覚悟していたわけではないが、「まさか」よりは「ついに」という感覚。


「派遣切り、ですか?」


「まだ、そうと決まったわけじゃないんだけど」


 決まっていようといまいと、普通は真っ先に切られるのが派遣社員だ。


「高木さんの口ぶりからするとね、どうも……かなりバッサリいきそうなイメージなんだよね」


 高木さんというのは、和気さんの上司にあたる大ボスのことだ。


「そう、ですか」


 そういうことなら、宣告の時を待つしかない。仕事に熱を入れたところで考慮してもらえるわけではないし、自分にできそうなことはすでに目一杯やっている。


 私が言うことではないが、和気さんだって内心冷や汗をかいているかもしれない。切られるのは何も派遣ばかりとは限らない。目的はコスト削減なのだから、場合によっては正社員の高給取りが対象になることだってあり得る世界だ。


 人生とは、どうしてこうも不安定なのだろう。努力が実らないとき、人は何を頼って生きていけばいいのだろう。


「予告……というか、注意報というか、ありがとうございます」


 和気さんがこんな極秘情報をわざわざ私に知らせてくれたのは、それが私たちにとって個人的にも「大きな動き」を意味するからだろう。どちらかが職場を追われることになったとき、私たちが取るべき道とは何なのか。いつの間にか勝手に、口がしゃべりだしていた。


「あのね、和気さん」


「うん」


「私、もしかしたら……」


 込み上げそうになる感傷を、みぞおちでぐっと(こら)える。その先を言おうと口を開く度に、唇が震えた。もちろん、和気さんがそんな私の様子に気付かないはずがない。


 和気さんは、手元にあった割り箸の袋をこちらへ差し出し、何かと思えば、私の手の甲をその紙切れでナデナデした。私自身、お触り禁止令を発したことなど忘れていたというのに。可笑(おか)しいやらくすぐったいやらで、ふふっと笑いが漏れる。


 バッグの中からティッシュを出し、思いっきり鼻をかんだ。ふうっと大きく息をつくと、少し落ち着いた。その(すき)に、一気に言う。


「来年辺り海外に行くかも」


 和気さんは、ちょっと目を見開いて、パチパチと(まばた)きをした。


「へぇ! それは、留学? ってこと?」


「うん。留学かワーホリか、まだ迷ってて」


「そっかあ。どこに行くかは?」


「多分、カナダ、かな」


「へえー、カナダかあ。あ、上の階のさ、コンプライアンスに一人、カナダ人いるよ」


「へえ」


 うちのフロアにも国籍が日本でない人や明らかに人種が違う人は何人かいるので、特に珍しい話ではなかった。


「バンクーバーの人。奥さん共々(ともども)


「ふーん……」


「何か聞きたいこととかあったら、紹介するよ」


「……といっても、偉い人でしょ?」


「いや、そんな偉くないよ。ま、一応シニアだけどね」


「シニアマネージャー? 和気さんより偉いじゃん」


「うん。偉いけど……なんかねえ、ノリがいい人で。お祭り男って感じの」


「ふふふ」


 きっと、和気さんと気が合う人だろうな、と思う。


「うん、じゃあ、いざとなったときはお願いするかも」


「オッケー。いつでも」


 失うものがないうちに、一度海外に出て長期滞在してみる。それは、私が学生時代から数年にわたって温めてきた、漠然とした目標だった。


 満員電車、果てしないサービス残業、出る杭は打たれる風潮。右に倣え、空気を読め、黙って耐え忍べ。幼い頃から人とどこか違っていた私には、決して快適な文化じゃない。


 といっても、この国を出れば花開けるという確信があるわけではなかった。現状であまり気に入ってない自分を、環境を変えることで別の人格に変貌させられるなんて夢見てるわけでもない。別に大成したいとも思ってない。なるべく平穏に、無難に生きたいだけ。しかし、この文化において、無難に生きることは私には高い目標に見える。


 例のブラック企業時代は、積極的に死のうとまではしていなかったにせよ、早く人生終わってほしい、なるべく楽にひっそりと野垂れ死んでしまえたら、と願っていた。報われる感覚を得られないまま、(残業分を堂々と省略して)与えられる金銭が十分な報いなのだと己に言い聞かせて、とにかく日々目の前のことをこなすのに必死だった。


 そんなある日、親に泣かれた。それが私の、一身上の都合だった。


 幸福になる義務というものを、初めて真剣に考えた。野垂れ死にたい気持ちが消えたわけではないけれど、死に場所がここである必要はないんじゃないか、という思いが芽生えた。


 万一この国でそこそこの地位ができ上がってしまったら、守りたいものができてしまったら、私は二度と重い腰を上げはしない。二十代のうちに、一度出てみる。そんな期限が密かに浮上したのは、ごく最近のこと。


 それが来年辺りだなんてことは、たった今この口が言い出す瞬間まで考えてもいなかった。でも……この件については、これに関してだけは、「私なんか」という発想を気付けば懸命に退けてきた自覚があった。私が「無難に生きる」道はきっとこれしかない。無理に思えても、目指さなければならないターゲット。


 実現するには多くのハードルがある。あれこれ調べて、語学力も磨いて、ビザやら住む場所やらの手配もして。気が滅入りそうになるけれど、それらをこなすだけの気力や体力が自分にない可能性や、いつか、いつか、と言いながら年を取っていく様を想像すると、それではいけないと私を鼓舞する大きな力をいつも感じるのだ。


 とうとう、口に出してしまった。今ここで和気さんに言ってしまわなければ一生叶わないという、未知の衝動に突き動かされた結果だった。海外滞在を実現したいという意志が、和気さんとの関係の進展もしくは現状維持を望む気持ちを突発的に(しの)いだ。それが私の奥底の本心を物語っている気がした。しかし、「割り切る」というのは一体どうやったらできるのだろう。


「和気さん」


「うん」


「帰りたくない」


「……そりゃ困ったね」


(かく)まって」


 和気さん、目をパチクリ。


「匿まって?」


「何か違うね……ふふ」


 はははっと和気さんも笑った。


「ヒデちゃん、逃亡中?」


「逃亡、したいかも」


「うん、まあなんかでも、ニュアンスはわかる気がするな」


「うん」


 和気さんが何かから匿まわれたいとき、私は一体、何をしてあげられるのだろう。




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