21 好きの代わりに
終わってからも離れたくなくて、シャワーも浴びさせずに和気さんの胸にしがみつき、温かい呼吸と心音に耳を澄ませた。心の中で「大好き」を連発しながら、私は愛の告白に代わる妥協案的な発言を、ついに自分に許した。
「和気さんは……」
「うん」
「いつもちゃーんと私の話を聞いてくれて、どんなネガティブトークでも嫌な顔一つしないで、しかも的確に受け答えしてくれて……エッチのときも、焦って荒っぽく扱ったり雑にしたりとか全然なくて」
和気さんは黙って聞いていた。そんなことないよと謙遜することもなく、冗談めかして得意になりもしなかった。重々わかっている顔をしていた。私がなぜ急にこんなおべんちゃらみたいなことをくどくどと並べ立て始めたのか。
「いつも優しくて、あったかくて……」
和気さんの手が、私の髪をそっと撫でた。この人が決して鈍い人ではないことはわかっているつもりだったのに、私の思考回路があまりにも和気さんにバレすぎている気がして、何だか涙ぐんでしまいそうになる。それ以上は続けられなくて、言葉を切った。
「うん。でもね、正直僕もさ、それを毎日できるかって言われたら、自信ないよね」
静かに発されたそのセリフを、私は噛み締めた。意味するところが痛いほどに理解できた。涙腺が派手に決壊する。涙は第三のタブーだとわかっているのに。
和気さんは驚いた様子もなく、おろおろするでもなく、無声音でむせび泣く私を敢えて慰めずにそのまま泣かせてくれた。
「やっぱりさ、ちょっと今はお願いだから静かにしてて、って、きっと言っちゃうときが来るよ。セックスだって、手抜きしてるつもりはなくても、疲れとかめんどくささとか忙しさとか、そういうのがいつかは表れちゃうだろうし」
おっしゃる通りだった。二回結婚している和気さんが言うのだから、私ごときに反論の余地はない。私は「和気さんはいつもこう」と思っていて、ありがたくて、嬉しくて、それをそのまま口にしたけれど、その「いつも」は、和気さんの(あるいは既婚者全般にとっての)「いつも」とは根本的に違う概念なのだと、突き付けられた思いがした。
私が知っている和気さんは、職場にいる和気さんと、十日に一度の和気さんでしかない。それだけを見て恋い焦がれ、仮に結婚だの同棲だのができたとしたって、今私が接しているこの和気さんが毎日手に入るわけではないのだ。接する頻度が上がれば、少なくとも理論上、私が感じる和気さんのクオリティは反比例的に下がるはず。しかもその理論は、世の人々の実践によって十分すぎるほど証明されている。
和気さんと会うとき、会いませんかと誘うのは依然として私からだが、日時を指定してくるのは和気さんだ。会ってから三日目の時点で次の誘いをかけても、指定される日付は概ね十日間隔。それは意図的なコントロールの結果だったのだと、私は今さら悟った。「十日に一度」という頻度はきっと、私にベストの自分を見せ、聞かせ、与えるための和気さんの限界に他ならない。それは、私とはそういう関係でいたいという和気さんの意思表示とも受け取れた。
じめじめとぐずりながら眠ってしまうのが嫌で、私は一通り出し切るまで和気さんの胸で泣いてからシャワーを浴びた。ちゃんと泣き止んでから、コンビニで買ってあった抹茶プリンを和気さんと分け合って食べた。和気さんは甘いものが好きそうに見えて、意外と食べない。でもこの苦めの抹茶プリンは気に入ったようで、気付けば半分近くが和気さんの胃に納まっていた。




