15 しよ
翌週の月曜日。豚キムチにジェラシーを燃やすのがバカバカしく思えてきて、遠慮にも程がある、という発想に至った。そうだ。相手は和気さんなのだから、かまうものか。ランチを食べながら、勢いで打ったメールをそのまま送った。
<<豚キムチうまくいきました? で、私との一杯はいつにします?>>
返事はきっとすぐには来ないから、気長に待とう。
午後四時すぎに、足元のバッグの中で携帯が微かに振動した。そっと開いてみると和気さんからで、
<<大成功! 半分は冷凍しました。今日はどんな感じ?>>
とある。最後の一言のせいで一瞬仕事の話かと思い、冷凍って何だろうと首を傾げたが、私への個人的な返信であることを思い出す。今日はどんな感じ……今日!!
<<五時半には終わりそうです。今日の今日で簡単に捕まっちゃうのもどうかとは思いますが、空いてます>>
最後に泣き笑いの絵文字を入れて、送信。本当はスタンプを使いたいところだが、和気さんは、メッセージアプリの類は「相手を間違えそうで怖い」と前に言っていたから、連絡は昔ながらの携帯メールにしていた。
<<六時半に噴水でいいかな?>>
と、すぐに返事が来た。噴水というのは、会社から徒歩七、八分の公園の噴水のことだ。
<<いいとも!>>
と返信して、しばし反応を待つ。大方予想がついていた通り、和気さんの中では会話はそれで終わりという認識らしく、返事はない。せっかく恥を忍んで中年向けのギャグを振る舞ってあげたのに、残念だ。
和気さんは、私の方が怖くなるぐらいに人目を気にしなかった。幸い二人でいるときに知り合いに遭遇する事態は今のところ起きておらず、こういう楽観性の塊みたいな人のことは災いも避けて通るのかと半ば本気で思う。とはいえ、いくら何でも会社のロビーでの待ち合わせは度重なれば危険すぎると私が判断し、三度目に食事に行ったときにこの公園での待ち合わせを提案したのだった。
仕事が終われば、丸の内で働く人々の大多数は駅へ向かう。可能性としては、東京駅か大手町、二重橋前のいずれかだろう。ちょっと買い物に寄るとか食べて帰るという人たちは、この三つの駅を結んだ範囲内に概ね留まりそうな気がした。
そこで、この三角形から外れたところにある公園で待ち合わせ、一緒に皇居前を歩いて日比谷方面に出てみるとなかなか按排がよく、最近ではこの形が定着しつつあった。お互いその近辺の飲食事情には全く詳しくなかったが、むしろそのお陰で、有楽町界隈の店を一緒に開拓する楽しみができた。
いつもは手をつなぐのは飲んでからだが、今日は待てなかった。懐かしく感じられる和気さんの手をしっかりと握っていると、約二キロの道のりはあっという間だった。
今日のお店は、クラフトビールを売りにしたイタリア風居酒屋。
「いやぁ、それにしても参った参った。さすがに疲れたよ」
それが豚キムチの話でないことは、私にもすぐにわかった。
「もしかして、喪主……とかでした?」
「うん、一応長男だからさ。でも昔一回やってるから、大体の要領はね」
「んっ?」
「前の奥さんのときに」
「前の……?」
「今のカミさんの前に、僕の配偶者だった人」
他に説明のしようがないだろう。
「あ、そんな方が……いらしたんですね」
「うん。病気でね。わかったときにはもう遅かった」
まさか和気さんがそんな悲劇を経験していたなんて……。ショックすぎて、かけるべき言葉が見つからない。
「そういや、そっちの命日ももうすぐなんだよなぁ。毎年一応、墓参りに行っててね。まあ今年はちょうど二十年だから年忌法要はないし、あっちの両親に孫の顔見せるのがメインって感じだけど」
「あ、上の子……息子さんってその、前の奥さんの?」
「そう」
「娘さんは?」
今の奥さんの連れ子なのだとすれば、和気さんに似ていないことの説明がつく。と思いきや、
「……は、再婚してから生まれた子」
ふーん、そうなのか。鳶が鷹って、本当に生めるんですね、とはツッコまないでおく。
「あっちの両親はねぇ、死んだのが一人娘だったから、孫一人しか残ってないんだよね。でも、死んだ娘の息子が成長してく姿を見るのって、どういう気分なんだろうなぁ」
そんなことより、死んだ奥さんとの間に生まれた子を新しい奥さんと一緒に育てるのはどういう気分なんだろう、と、私はそっちの方が気になった。息子は今年大学四年になったばかりのはずだから、二十年前に母親が亡くなったときには二歳かそこらだったはず。今の私とそう変わらない年頃だった和気さんは、乳飲み子を抱えて男やもめになったことになる。
そんなところへ嫁に来た今の奥さんの肝の据わりっぷりを、私はちょっとだけ尊敬した。……ちょっとだけ。
和気さん、まるで能天気な人みたいに勝手に決め付けててごめんなさい。和気さん、大変だったね。和気さん、お父様無事に成仏できるといいね。和気さん、悲しいね。
「和気さん」
「うん」
「エッチしよ」
約二秒の間。
「言ったね、ついに」
「えっ?」
和気さん、満面の笑み。
「そっか……待ってたんだっけ、私の能動的な決断」
もはやそんな会話をしたことも忘れかけていた。
「うん、待ってた」
「なんで?」
「パワハラになっちゃうから」
あ……。
それは、いつぞやの和気さんの発言のデジャブだった。しかし、今初めて、その意味がストンと腑に落ちた。和気さんが自分から誘ってくれないことを「予防線」だと私は非難したけれど、和気さんはいわゆるパワハラと見なされて会社にチクられることを恐れていたわけではないのだ。
職場での地位なんかより、年上男性からの情欲に満ちた誘いの方が私にとってよっぽど大きな行動要因たり得ることを、和気さんはきっと早くから察していた。寂しさや鬱憤を理由についその手の誘いに乗ってしまう私が、結局満たされていないことも。
「私って、そんなにわかりやすい?」
「どうかなあ?」
と、和気さんは惚ける。
いずれにしても、そうと決まったら、というわけで、私たちはいつになく早々に飲みを切り上げ、店を後にした。




