11 祝福談義
あと少しでランチタイムというときに、隣のチームに来客があった。赤ちゃんを抱いた女性。たちまち大勢が仕事そっちのけで群がり、うちの姉様方も次々と席を立ってその輪に加わる。
「かわいいー!」
という声が方々で上がり、
「うん、今七ヶ月」
と、誰かに答えたらしき母親氏の声が聞き取れた。なるほど、育休中に赤ちゃんをお披露目しに来たのか。
気にせず自分の仕事に集中しようと試みるものの、背後で甲高い「かわいいー」が繰り返され、鬱陶しいことこの上ない。私に言わせれば、別にかわいくないし、はっきり言って迷惑でしかない。とっとと帰っていただいていいですか?
肩越しにちらりと見やると、女性陣による抱っこ合戦が始まったところだった。よくある光景だが、正直、こんな幼子をたかが同僚に進んで抱っこさせるなんて神経を疑ってしまう。触る方も触る方だ。あー、そんな風にほっぺをつついたりして風邪でも移したらどうするつもりだ。そもそもあんなに大勢で囲んだら怯えてしまうんじゃないだろうか。
うちの姉様方はと見れば、一応この騒ぎに付き合ってはいるが、手は出していなかった。さすが、私の自慢の先輩方。
私が勝手に「姉様方」と呼んでいるこの四人の正社員女性は、一人が普通に結婚して一児の母、もう一人がバツイチ子無し、別の一人が完全未婚、残りの一人がワケありシングルマザーだ。という事実を、私はこの半年間の彼女たちの会話から学んだ。ちなみに全員、推定アラフォー。
子無しの二人は、自分が産むか産まないかをもう決めているのだろうか。それとも、すでに迷いが許される年齢ではないのだろうか。
「産める年齢」は昔に比べたら延びているイメージがあるけれど、肉体的な限界はどうしようもなく存在する。子を産む以外のToDoが多すぎる現代社会において、女たちがその限界に振り回されるのは自明の理。
私自身は何しろ子供の頃から子供が嫌いだから、欲しいとは全く思っていない。でも……今後永久に気が変わらないとまで言い切れるだろうかと、ときに自問する。「本当にいいのか」という迷いのかけらめいたものは胸中にくすぶり続けていて、言語化まではしないけれど漠然と、例えばめちゃめちゃ理想的な両思いになった相手がもし欲しがったら、自分も欲しくなる可能性を否定し切れていないところがある。今ならまだ、間に合うだけに。
ほぼ要らないと思ってる私でさえこうなんだから、結婚したけど子供ができない人や、子供が欲しいのに相手が見つからない人なんかは一体どんな思いで人様の子育てを見つめているんだろう。
姉様方の横顔をつい窺ってしまう。女性としての決定的な境目に差しかかっている彼女たちの心中は計り知れないが、皆この母娘にちゃんと無理のない笑顔を向けていた。
大人だな……。偉い、偉すぎるよ。
そんな中、和気さんの声に私の耳が反応した。いつの間にか女子たちの群れに混じり、ご歓談している。
「こっからまた顔変わるからねぇ」
などと言い、いつもにも増してニコニコな和気さんの腕の中に、件の赤ん坊がいた。慣れた手付きで上手にあやしている。
そっか、とっくの昔から経験者なんだもんな……。
すっかり飲み友になり、昨日は(一風変わってはいたけれど)ようやくキスまでこぎつけて、和気さんと対等な付き合いをしているかのように錯覚していた自分に気付く。一チームのマネージャーと単なる入力担当の派遣社員という立場の差以上に、二十三年分の人生経験の違いが、私たちの間には茫々と横たわっているのだ。
和気さんがもし、今まさに現役で赤ちゃんや幼児のパパだったら、私は醜い嫉妬に苛まれていたかもしれない。もっとも、そんな状況だったら和気さんだってラブホで私と夜を明かすような危険行為はしなかっただろうが。
和気さんの家庭を私が放っておけるのは、あくまでその温度が冷め切って感じられるからだ。過去三件の不倫のときもそうだった。もちろん、私の勝手なイメージでしかないけれど。
和気さんとの次の食事の機会に、私はこの育休女性の話題を持ち出した。
「ああやって結婚と妊娠出産だけやたら大っぴらに祝うのって、なんでなんですかね?」
「だけ、ってこともないんじゃない?」
「だって、娘が成人しましたー、とか、おじいちゃんの病気が完治しましたー、とか言って職場に連れてくる人いないでしょ?」
「ははは、面白いね、それ。めちゃくちゃアットホーム。もしくはねっとり濃厚すぎて怖い」
「でしょ? マイホーム買いました! とか、車売れました! とか、ローン完済! うちの子一流大学合格! とかだって、誰もひけらかさないじゃないですか。そんなの発表しようもんなら総スカンですよ」
「ま、そりゃそうかもね」
「だから、他の人が置かれてる状況を顧みずに自分の個人的な幸せに対して祝福を強制するっていうのは、ハラスメントとして認定してほしい」
「強制か。まあそうね、暗黙の圧力は確かにあるね」
「一人ひとりの境遇の違いっていう意味じゃ一番デリケートな問題のはずなのに、なんで結婚・出産に関してだけ私事の見せびらかしを許すかなあ?」
「うーん、本人が見せびらかしたがってるかどうかはわかんないけどね。こういうことってもう習慣だからさ。結婚式だって、したくないけどしないわけにいかない、って人もいるし」
「嫌な習慣。周りもそういう要求はやめるべき」
「ま、そう感じる人が増えれば変わってくんじゃないの? 昔はさ、何しろ結婚出産が大多数の通る道だったから、お互いっこ、っていう感覚がまだ成り立ってたし……お陰様で私もその段階まで来ましたよ、っていう御礼とか挨拶的な意味もあって、お披露目するのが礼儀みたいなとこあったんだよね。もちろん陰で不快に思ってる人はその頃からいたんだろうけど」
「あとね、こっちが不慣れなのわかってて無理やり子供抱かせようとしてくる人、マジで死んでほしい。私言ったことあるもん。私なんかが抱っこしても、下手すぎて恥かくわ、せっかくゴキゲンだった赤ちゃんは泣き出すわでろくなことないし、最悪落っことして死なせちゃうかもしれないんで遠慮しときますね、って」
それを聞いた和気さんの笑みが、いつになく苦かった。
「それ以上勧められなかったでしょ」
「うん、そこで止まった。めでたしめでたし」
さすがの和気さんも、ちょっと引いたかもしれない。でも、これが本当の私だということも、和気さんにだけは知っておいてもらいたかった。




